目の前にいる少女に、かつてもじゃじゃ馬は影も形もなかった。
ノースリーブの衣装はすらりと細く、それでいて引き締まった腹部を晒している。
黒のスカートは、丈が短い。そのためちょっとでも動けば下着が見えてしまいそうだった。
当人はそのことについて少しの羞恥心もない。ちらりと下着が見えてしまった。どうやら白らしい。
「とりあえず久しぶりだな、シルヴィ。元気そうでなによりだ」
「アンタもねライシ。それで、どう?」
「どうって……なにがだ?」
ライシははて、と小首をひねった。
「もう! 余にいうことが一つや二つや三つぐらいあるでしょ!」
「いや多すぎるだろ。久しぶりっていう以外になにがあるんだよ」
「もう~どうしてわからないのかなぁ!」
たちまち不機嫌さを露わにするシルヴィ。やはり、見た目はよくなっても中身のほうはなにも変わっていない。
彼女がなにを求めているのか。それがわからないほど、ライシも愚鈍な男ではなかった。
口に出せない事情がどうしてもライシにはあった。最悪のタイミングといっても過言ではない。ライシは意識を背後へと向けた。
アリッサたちがいた。曲がり角でジッと様子をうかがっている。
その視線は言うまでもなく未だかつてないほど鋭利なものだった。
シルヴィに対し彼女たちは決して好意的ではない。そんな相手が敬愛する兄と談笑しているのだから、さぞ気に食わないだろう。
「どうかしたの?」
「え、いや。別に……」
「……もう! 余、ライシにかわいいねって言われるように色々とがんばってきたんだよ?」
「お、おい……」
不意に抱き着いたシルヴィは、優しくて柔らかい。
ふわりとなびいた髪から漂う甘い香りが、鼻腔をそっとくすぐっていった。
とてもいい匂いだ。他人の匂いについてはさして興味がない、ましてや嗅ぎたいとは普通思わないだろう。
シルヴィは違った。いつまで嗅いでいても飽きない。強いて言うなればいつまでも嗅いでいたい。そう思ってしまう己に、ライシは自嘲気味に小さく笑った。
これではただの変態ではないか。一説によると他者の匂いに不快感ではなく、快感を憶えるのはそれだけ相性がいいらしい。果たしてどこまで本当なのか定かではないが……。
「えへへ……余はずっと会いたかったんだよ、ライシ」
「……最後にあったのは、いつぶりだったかな」
「忘れちゃった。だけどね、次ライシに会った時に恥ずかしくないようにってずっとがんばってた」
「そこまで頑張らなくてもよかったんだが……。でも、その努力は素直に称賛する。あれから更にかわいくなったな」
「やっと言ってくれた。そういうのは余に言われる前に言わなきゃだめだよ?」
「……あ」
やってしまった。ライシはおそるおそる背後を振り返った。
五人の悪魔がいた。アリッサたちは元々魔族である。端正な顔に宿ったのは等しく鬼だった。
血走った眼にわずかに開いた口からは犬歯がちらりと顔を覗かせる。
それが余計に彼女たちを、魔としての一面を強調させた。直視するのが怖くて仕方がない。ライシはサッと正面を向いた。
「ん……」
「……なにやってんだお前は」
シルヴィが目を閉じていた。唇を突き出した状態で見上げる様はかわいらしい。
さしものライシも、シルヴィの言動には深い溜息を吐いた。
幼馴染という関係でこそあれど、それ以上の関係ではない。なによりライシ自身が、それを求めていなかった。
接吻はもっと、大事なヒトのためにとっておくべきだ。ライシはシルヴィの額を指でとんと軽く突いた。
「……どうして余とキスしてくれないの?」
「逆に聞く。何故してもらえるとお前は思ったんだ?」
「だって、余とライシは幼馴染だよ?」
「まぁ、そうだな」
「幼馴染っていったら、将来結婚する関係にあるんだから。ライシはそんなことも知らないの?」
「そんな常識は聞いたことも見たこともないな。どこ情報なんだそれは」
「余が読んでる小説。ニンゲンが書いた奴だけど、なかなか面白いんだよ!」
「さよか。だったらそんなものを鵜呑みにするな。小説はあくまでも小説であって、現実の出来事じゃないんだからな」
「だったら余とライシで現実にしようよ」
「丁重に断らせてもらう」
むぅっと頬を膨らませるシルヴィに、ライシは苦笑いを小さく浮かべた。
「――、ちょっとあなた。いい加減わたくしのライシお兄様から離れていただけませんか?」
ついに五匹の悪魔が動いた。
我慢の限界に達したのであろう。
いつの間にか各々の手には武器がしっかりと携えられていた。
エルトルージェに至っては剣から黒い炎がくすぶり始めている。
全員が殺る気だった。かの悪夢の再来の兆しを目前に、ライシも腰の太刀にそっと手を添えた。
優れた武士は、常に最悪の状態を想定しそれに対する備えを用意する。いざとなった時、言葉による説得はもはや意味をなさない。
有事の際はそれこそ、力づくによる制圧もやむを得ないだろう。もちろんそうなる前にどうにかするつもりではいた。いくら制するためとはいえ、妹や幼馴染に刃を向けたくはない。ライシはそう思った。
「あらっ、アンタたちも久しぶりじゃない。その様子だと元気にしてたみたいね」
「えぇ、おかげ様で。それよりもいつまでライシお兄様に抱き着いているつもりですか?」
「それを指摘される言われは余にないと思うけどなぁ。アンタたちこそ、いつまでお兄様お兄様ってくっついているつもりなのかしら? ライシだってこんなに妹たちに纏わりつかれたら迷惑よねぇ?」
「えっ!?」
そこで俺に振るのか!? ライシはぎょっと目を丸くした。
本音を言えば、いい加減さっさと兄離れをしてほしかった。その点についてはシルヴィの言い分に賛同する。
当人にそれをする気は微塵もなかった。あろうことか本気で結婚しようとしているので尚更質が悪い。
先日の婚約者探しから、アリッサたちからのアプローチがより積極的にかつ露骨になった。
いっしょに入浴しようとしたり、添い寝しようと勝手に布団に潜り込んでくるのは当たり前。むしろこれはまだかわいいほうだといってもいい。
最近妙に下着がなくなったりする。そしていつの間にかきれいに洗った状態で帰ってくるようになった。更には妹たちの下着類が洗濯物に混じることが多々あった。ほんのりと温もりがあったのは多分、気のせいだと思いたい。
「それで、どうなの?」
「いや、そ、それは……」
「……ライシお兄様。まさか、ライシお兄様はそんなこと考えているのですか? このわたくしたちが鬱陶しいと?」
「そ、そんなこと誰も一言も言ってないだろ!」
「ではどうして言い淀むのですか? 思っておられないのでしたらはっきりとこの女に言ってくださいまし」
「余はわかってるわよライシ。大丈夫、余が守ってあげるから遠慮せずに言って」
「うっ……」
本人らを目前にして言えるわけがなかった。
もしもはっきりと言ってしまおうものならば、その時はきっと誰にもアリッサたちは止められないだろう。
命は誰だって惜しい。常に死と隣にあったライシは今更死を恐れない。とはいえ、死に場所や死に方ぐらいは自分で決める。少なくとも己の死するべき場所はここではない。それだけは確かだった。
さて、と。ライシは必死に思考を巡らせた。如何にしてこの場を丸く収めるべきか。
己の回答一つで大惨事が起きる。背中にかかる責任による
不意に、なんとも情けない音が異様な静寂を切り裂いた。
人間とは、どんな時でも腹が減るようにできている。腹部よりくぅくぅと鳴く声に、ライシは乾いた笑い声をそっともらした。
「えっと、なんか腹減ったな。と、とりあえずなんか食ってくるからこの話はまた後で――」
「あっ! じゃあさ、余が作ってあげるよ!」
「えっ!? シルヴィ、お前料理なんか作れたのか?」
ライシは目を丸くした。
「もっちろん。余だって色々と勉強したりてるんだからね! じゃあここの厨房を貸してもらっても――」
「お待ちなさい! ライシお兄様への食事なら、このわたくしたちが用意しますので」
「用意するってお抱えの料理人でしょ? 余は余が作るんだから。できる女は料理ぐらいできないとねぇ」
「そ、それぐらいわたくしたちにだってできますわ!」
「はっ?」
ライシは思わず素っ頓狂な声をもらした。
完全に寝耳に水だった。アリッサたちが料理をする、その現場をライシは一度として目撃したことがなかった。
いったいいつの間に練習していたのだろう。胸の内に湧いた好奇心に嘘偽りはない。純粋にどれほどの腕前なのか、見てみたくなった。
「じゃあ余と勝負する? どっちがおいしい料理を作れるか、ライシに判断してもらおうよ」
「望むところですわ! わたくしたち姉妹の絆、そしてライシお兄様にかける想いがどれだけ強いか……あなたに見せつけて差し上げますわ!」
「そういうことでしたら、ここはこのわたくしめにお任せを!」
「いやいったいいつからそこにいたんですか!?」
「ライシ様の腹部からそれはもうなんとも情けなく弱々しい腹の虫が鳴いた辺りからずっといましたぞ」
音も気配もなく現れて突然仕切り出した魔物――ニスロクの登場にライシは唖然とした。