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第9話

 騎士の動きはひどく緩慢だ。わずかに見える身体は、薄汚れた骨が辛うじて全身を支えている。


 かつてはさぞ、名のある騎士だったに違いあるまい。それだけに生前にどうして巡り合わなかったのか。そこだけが非常に悔やまれる。生まれる時代が同じだったならばきっと、魂が高揚する戦いができていたやもしれぬ。


 実に惜しい。ライシは小さく溜息を吐いた。


 騎士が剣を振り上げた。


 次の瞬間、ライシは咄嗟に背後へと飛び退いた。


 わずかに遅れてびゅん、と鋭い風切音が空しく鳴った。


 なんだ、今のは……? ライシはジッと騎士を見据えた。


 得体の知れない違和感が身体にまとわりつく。果たしてこの違和感の正体はなにか。騎士から決して目を離さず、それでいて周囲への警戒も怠らない。


 ふと足元を見やった。地面にはまっすぐと伸びた綺麗な亀裂が生じていた。ライシはハッとした。



「おいおい、まさか……そういうことなのか?」



 いつもとなんら変わらぬ口調ではあるが、ライシの表情は険しいものだった。


 恐ろしい切れ味である。漆黒の刃の切れ味があまりにも鋭いから、空振りしたとしてもそれによって生じた真空刃が大地を切り裂いたのだ。如何に剣豪であろうとも、不可視の斬撃を飛ばす、などという芸当を成した者は誰一人として知らない。


 正真正銘、本物の剣客が目前にいる。ライシはにっと不敵に笑った。



「……いいね。これだけ緊張した空気を感じるのは久しぶりだ」



 騎士が再び剣を振るった。


 不可視の刃にライシは咄嗟に岩陰に隠れた。



「なにっ……!」



 左腕に鋭利な痛みが走った。堅牢であるはずの岩が真っ二つに斬れた。


 となれば当然、その後ろにある対象物も同じ末路を辿るのは明白である。


 ぱっくりと裂けた傷口からは鮮血がわっと宙に舞った。いくらなんでも切れ味が鋭すぎるだろう。これが魔法であったならばともかく、純粋な剣だけで成しているのだから実に恐ろしい。


 この痛みも実に久方ぶりだ。額に脂汗を滲ませつつも、ライシの笑みは崩れない。むしろこの危機的状況を嬉々とさえしていた。



「ライシお兄様!」


「ひっ……ち、血が……」


「お前たちは絶対にそこにいろよ。なにがあっても手を出したりはするな」



 ライシは再び騎士の前に立った。


 あれはあらゆるものを両断する。防御は不可能、やったところでそれごと断たれてしまって終わりだ。


 攻略法は一つのみ。騎士よりも早く剣を振るう。先の先を取るべく、ライシは地を強く蹴った。


 肉薄する最中、不可視の刃が幾度となくライシを襲った。恐るべき切れ味ではある。あるが、それは当たってこそはじめて意味も価値も成す。当たらなければどうということはない。


 剣の軌道自体は差ほど速くはなく、よって冷静に見切りさえすれば仔細はない。雷のような剣を振るう猛者を知るライシだからこそ可能とした。


 騎士の懐深くまで肉薄した。



「ライシお兄様危ない!!」


「……さて」



 なんでも両断する唐竹斬りを前に、ライシは静かにそれを見据えた。


 けたまましい金打音が地下空洞内に反響した。


 程なくしていくつもの細かな金属が地を叩く音が立て続けに鳴った。



「――、ふぅ。ようやく今の身体でこれだけの力が発揮できるようになったか」



 ライシはホッと安堵の息を吐いた。


 足元には騎士だったものが無造作に転がっていた。


 騎士を斬った。ただそれだけの事実が彼の目前にある。



 ライシ……もとい、和泉家の剣は基本守りの型にあった。


 相手の如何なる攻撃にも対応し、そして反撃に転じる。


 内容的には至って単純なもので、しかし堅牢な剣ということでも有名だった。


 これに納得できなかったのがライシ本人であった。


 もっと上へと行けるはずだ。そこからひたすら修練に明け暮れた。一日中我武者羅に剣を振るっていた時もあった。その時は甚大な疲労によって卒倒し、生死の境を彷徨ったことさえもあった。


 今にして思えば、あれはあれでなかなか楽しい思い出だと笑い話にできる。まったく笑えないのだが、といつもこの話をすると周囲は口を揃えてそう言った。


 そうした経験を得て、ライシの剣はさらに磨きがかかった。


 例えそれが斬撃であろうと、打撃であろうと。ありとあらゆる質の流れをコントロールする。


 そして自らの力へと変えて相手に返す。一切の反撃を許さないそれは正しく、究極の返し技だった。


 ライシはこれを流極剣と名付けた。



 なんとかなった。ライシはホッと安堵の息をもらした。


 騎士がもう立ち上がってくる様子は微塵もなかった。危機は去った。これは大変喜ばしいことではある。だが、すべてがそうとはならなかった。思いもよらぬ被害にライシはそれをジッと見下ろした。



「リリアナが打った刀が、まさかこんなにもボロボロになるとはな……」



 美しかった白刃には、いくつもの細かな刃毀れが生じていた。


 リリアナの打つ剣は等しく優れている。絶対的信頼を置けるからこそ、この結果にライシは信じられなかった。


 とはいえ、目前にある結果は紛れもない事実だ。否が応でも受け入れる他ない。それよりもやるべきことは、この大刀が修復可能か否か。リリアナほどの腕ならばきっと大丈夫だろう。


 だが万が一を想定しておく必要もある。なにかとこの大刀はライシのお気に入りであった。できるならばなんとか修復してもらいたい。



「……ん?」



 ふと、ライシは足元を見やった。


 いつの間にか騎士の死体は消えていた。まるで最初からそのものが存在していなかったかのように。


 あれは白昼夢だったのか? 一瞬でもそう思ったライシだったが左腕にくっきりと残る刀傷と、足元に転がっていた黒剣の存在が現実であることを物語る。


 ライシはひょいと黒剣を手にした。


 軽い。羽毛のような驚きの軽さに困惑しながらも、試しとばかりに振るってみる。


 二間約360cm先の岩が呆気なく真っ二つとなった。


 ライシはハッとした。これほどの業物であればいい地鉄になってくれるかもしれない。


 あくまでもこれは予想の粋を脱しない。だが他に妙案が浮かぶわけでもない。駄目元でもやってみるだけの価値はある。


 仮に駄目であったならばコレクションとして保存しておけばよいのだから。これほどの業物が他者に手に渡ってしまうのはあまりにも勿体ない。ライシはそう判断した。



「ライシお兄様、ご無事ですか!」


「あ、アンタ大丈夫なの……?」



 ずっと隠れていたアリッサたちは、今にも泣いてしまいそうだった。


 はじめての実戦を目の当たりにしたのだ。怖がってしまうのは無理もあるまい。


 ライシはふっと頬を緩めると、二人の頭をそっと撫でた。


 異なる触感ではあるが、指間をするりと流れていく感触は大変心地良い。



「二人とも、心配をかけたな。だがもう大丈夫だ。危険は去った……って思ってもいいだろう」


「で、ですがライシお兄様……血が」


「このぐらいどうってことはない。お前たちを守れたんだ。そのために負った傷がこれっぽっちなら儲けってもんだよ。それよりもそろそろ帰ろう。いい加減城に戻らないと母さんが泣く」



 もうすでにわんわんと泣き喚いて大捜索をしている可能性は十分にあった。


 アスタロッテは未だに子離れができない。あまりの過保護っぷりに嫌気がさしているのはライシただ一人だけ。


 アリッサたちは外の世界についてなにもわかっていない。だから城の中でのことが彼女たちにとってはすべてであり常識でもあるのだ。もっと見聞を広めるべきだ。ライシはそんなことを、ふと思った。



「あ、あのあの……」


「シルヴィ、だったか。お前も無事でよかったよ」


「ど、どうして……」


「どうしてって……そりゃあお前が母さんの盟友の令嬢でもあるし、なにより俺よりも年下だ。年上っていうのはな、相手が身内じゃなくても下だったら守ってやる責務があるんだよ」


「…………」

「とりあえず帰るぞ。どれぐらい経ってるかわからないが、急いで帰ることに越したことはない」



 二人を連れて地下空洞を離れる前、ライシは霊廟に再び身体を向けた。


 蓋が開かれたままの状態で、中身はどこにもない。ぽっかりと設けられた空洞はどこか物寂しい糞士気をひしひしと放っていた。


 あの騎士はいったいどうなってしまったのだろうか。迷わず無事に成仏ができたのだろうか。わからない。わからないから、静かに彼の冥福をライシは一人祈った。



「……どうか安からに眠ってくれよ」



 ライシはそっと手を合わせ、静かに一礼した。


 外に出ると、まず最初に茜色の空が映った。


 赤々と燃える夕陽の色鮮やかさはどこか神秘的だった。


 それをいつまでも見惚れている場合ではない。ライシの歩は自然と速くなった。


 いかに近場といえど、夜の森を訪れようとする輩は愚か者という他ない。


 十分な明かりがほとんどない状況で森を進むのは、はっきりといって自殺行為だ。


 そうならないためにも、日が沈むよりも前に外へ出る必要があったのだ。


 残された時間は、もうあまりない。



「ライシちゃーん! アリッサちゃーん! どこにいるのー!?」


「シルヴィ様ぁぁぁぁぁ! どうかお返事をなさってくださいー!」


「あ~遅かったかぁ」



 ライシは小さく溜息を吐いた。


 こうなる前に城へと戻りたかった。だが、それはどうやら敵わないらしい。


 木々の隙間より見える多勢の魔物の姿は圧巻の一言に尽きた。


 これが人間であったならば、これを絶望と呼ぶ以外に相応しい言葉が見つかるまい。


 ともあれ大人達の介入によって助かったのは事実である。この後アスタロッテからこっぴどく叱られるだろう。


 怒られる要因を作ったのは事実なのだ。甘んじて受けるしかあるまい。


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