賑やかな誕生日の後、ライシはこっそりと城の外へと出た。
盛大に祝われるというのは素直に嬉しい。それも限度があってこそのもの。
アリッサたちが終始構えと絡んできた。兄として妹の面倒を見るのは至極当然である。
それは仮初の関係であったとしても例外ではない。それが兄としての責務なのだから。
とはいえ、四六時中べったりとくっつかれてはさしものライシとて疲労を憶えるのは言うまでもなかった。
たまにはのんびりと一人きりの時間をすごしたい。周囲の目がないことを何度も確認する。少なくとも周囲のヒトの気配は皆無だ。どうやら無事逃げ切ったらしい。ライシはホッと安堵の息をもらした。
「さてと、これからどうするかね……」
特にこれといった予定は基本ない。
精神は大人でも、肉体はまだまだ幼い子供だ。
働こうにもまずなにをすればよいかがライシにはわからなかった。
仮に何かしようとしても、アスタロッテがそれを絶対によしとしなかった。
我が子を失った心の傷が、今も心の奥底にあった。当時の記憶は悪夢として改ざんされている。
だが、本能的に感じるものがあるのかもしれない。我が子を失うことにアスタロッテは極度に恐れている。
悪夢を現実としないために、彼女の過保護っぷりは第三者から見ても異様という他あるまい。
いつか、その心の傷をどうか乗り越えてほしい。これは嘘偽りではなく、ライシの純粋な気持ちである。
森へと訪れた。
相変わらず穏やかな静寂によって優しく包まれている。
さらさらと流れる小川のせせらぎに小鳥たちのさえずりが加われば、自然の協奏曲ができあがった。
がやがやとした喧騒は皆無で、ただ心地良さだけがそこにあった。
「さて――」
ライシは一本の大木の前に正座した。
刀礼を済ませ、立ち上がる。腰に帯びた大刀を静かに抜いた。
木漏れ日をたっぷりと浴びて煌めく白刃に、つい頬が緩んでしまった。
まだこれの試し斬りをしていない。リリアナが打つ剣は等しく業物だ。そして仕手の要望を限りなく応えてくれる。
正眼に構えた。目の前に仮想の敵を描く。
「ふっ!」
鋭い呼気と共に踏み込み、大刀を唐竹に打ち込む。
基本ライシは修練場を利用する。
アスタロッテは剣を持つことさえも最初はひどく反対していた。
自分がいるのだからわざわざ危険な真似をする必要はないのだ。母親が我が子を守ろうとする意志は、偉大にして慈悲深い。
だからといってそれに甘んじるつもりはライシにはこれっぽっちもなかった。
いつか自分はここから立ち去る。そうなった時に弱いままでは、これまでの時間はすべて無駄に終わる。なんだかんだ言って、今楽しいと思える自分がいる。
紛れもない事実であるから、無駄にしないためにも強くならなければならない。
長きにわたる説得の末、ついにアスタロッテが折れた。ただしそこにはいくつかの条件があった。
その内の一つが、必ず修練場を利用するというものだった。城内であれば少なくとも外敵による危険に晒される心配はない。他の目もあるし、有事の際にはアスタロッテがいる。
それでも、たまの気分転換というのはとても大切だ。
100本ほど素振りを終えてライシは一息吐いた。
額にじんわりと滲んだ汗を手の甲で拭う。五歳の時と比較すれば幾分マシにはなった。
だが、全盛期と比べればまだまだ程遠い。少しでも早くかつてのように――否、かつてよりももっと強くなるためにも鍛えなければいけない。
ライシは自らにそう強く言い聞かせた。息が整ってきたところで、再び大刀を構える。
「――、ライシお兄様?」
「え?」
背後より聞こえたその声に、ライシはぎょっと目を丸くした。
きょとんとした顔のアリッサがいた。どうしてここにいるのか。見守り役はいったいなにをしている。
本来ここへきてはいけないだけにライシはひどく狼狽した。
「アリッサ、お前どうしてここに?」
「ライシお兄様がお城の外へと出ていかれるのが見えたので、つい」
アリッサがあっけらかんと答えた。
「ついって……追いかけてきたのか? 誰にも見つからずに?」
アリッサはお世辞にも、隠密に長けているとは言い難い。
魔力は強大でも経験があまりにも乏しい。彼女たちの手は、未だ血に汚れていない。
できるのであればこれからも先、ずっときれいなままでいてほしい。血に濡れてよいのは、自分のような男だけでよい。
「はい。いつもライシお兄様がどのようにお城から出ているのか見てますので、それを真似してみましたわ」
「ま、真似をしただって……?」
「はい。だって敬愛するライシお兄様のことはいつでも見てますから」
にこりとアリッサが笑った。
穢れを知らない笑顔は太陽のように輝いている。
しかしアリッサの言動がせっかくの笑みが異なってライシの目には映ってしまった。
アリッサがどこかおそろしくて仕方がない。杞憂であってほしい、そう切に祈っているものの望みは薄そうだった。
まるで獲物を狙う狩人のような眼だった。相手の一挙一動決して見逃さないという強い意志を秘めたその視線だが、どこか熱を帯びてねっとりとしていた。
妖艶な眼差しにライシはますます、アリッサに対して距離を取ってしまった。
「――、それよりもライシお兄様。お母様の言いつけを破るのはいけないですよ」
「それを言うのならお前もだろう」
「えぇ、そのとおりです。だからわたくしにはライシお兄様を連れ戻すという大事な使命があります――今はその使命を全う中です」
「何が言いたいんだ?」
「ライシお兄様とイチャイチャしたいです」
「やっぱりそうなるのかよ」
ライシは深い溜息を吐いた。
義理とはいえ、妹とそのような関係になるなど異常と言う他ない。
だからこそ、時々こうも思う。もし出会い方が違っていたならば、その時はよりよい関係になっていたかもしれない、と。
人間と魔物だ、互いに敵視している者同士が結ばれるなどそれこそありえないと断じてもよかろう。ライシは自嘲気味にふっと笑った。
「さぁライシお兄様、どこにいきますか?」
「なんでもう一緒に行動する前提で話が進んでるんだよ」
「細かいことはお気になさらずに」
「いや普通に気にするんだわ」
アリッサが右腕にべったりとくっついた。
五歳児の肉体はすでにほぼ成熟している。出るところはしっかりと出ている――我が妹ながらとてもよい大きさだ。柔らかさや弾力については申し分なし。兄妹という関係であるのが非常に悔やまれる。
アリッサが離れる気配は微塵もなかった。こうなってしまってはもう、ライシにはどうすることもできなかった。
彼女を突き飛ばすのは実に容易い。もし本当に実行しようものならその時は、命を賭してアリッサの機嫌を直さなければならない。
見た目は大人びていても中身はまだまだ幼い子供のままだ。気に入らないことがあればすぐにぐずるし、最悪の場合加減もなく魔力を行使する。
それ以前に、彼女たちは魔族だ。純粋な身体能力も人間のそれとは比較にならない。
「……仕方がないな」
ライシは小さく溜息を吐いた。
後で泣き喚かれるのも面倒だった。修練ができないのが悔やまれるが、致し方なし。
妹の機嫌を損なわせてはいけない。これは生前で学んだ教訓である。蔑ろにしてきた憶えは微塵もないが、それは相手の受け取り方次第でいかようにも変わる。
かつての自分はそのことに気付かなかった。気付こうとさえもしなかった。かつての過ちはもう、二度と踏んではならない。せっかくの二度目の命を失うつもりは毛頭ない。
「言っておくが、遠出はしないぞ」
「もちろんですわ! それじゃあライシお兄様、いきましょう」
「わかったわかった! わかったからいい加減離れてくれ歩きにくい……!」
上機嫌なアリッサと共にライシが向かったのは湖だった。
木々に囲まれた中にひっそりと隠れるようにしてあるその湖は青々としている。
陽光が当たれば、ゆったりと波打つ水面に合わせてきらきらと美しく輝く。
その光景は正しく、自然が生んだ芸術といっても過言ではなかった。
釣り竿でもあれば釣りでもしてのんびりと時間をすごせそうだ。生憎、今回は釣りが目的ではないので道具の類は一切なし。近くに腰を下ろして輝く湖を静かに眺める。
第三者によってはこの時間を退屈と感じる者も少なからずいるだろう。幼い子供であれば尚更退屈なのは言うまでもない。
「ここは穏やかな場所でとてもいいですわね……」
「そうだな」
「ふふっ……湖がきらきらと輝く様は、まるでわたくしとライシお兄様が結ばれるのを祝福しているかのように思えませんか?」
「安心しろ。それはお前の勘違いだ」
「もう! ライシお兄様はデリカシーがなさすぎますわよ!」
「いや知らんがな」
他愛もない会話を続ける。
ライシは改めてアリッサを横目にやった。
こいつはあくまでも魔王アスタロッテの娘だ。たまたま妹という関係になったにすぎない。少々……訂正、かなりブラコン気質が強いものの、根は純粋でとてもいい子だ。
いい加減、過去を照らし合わせるのはよくないかもしれない。 目前にいるのはあくまでも赤の他人なのだから。ライシはそんなことを、ふと思った。
穏やかに時間は流れた。
「――、さてと。そろそろ帰るぞアリッサ」
「えぇー!?」
「えぇーじゃない。そろそろ帰らないとさすがに母さんが心配するだろ」
「もうちょっと……もうちょっとだけいいではありませんか! 少しぐらい遅くなったって問題ありませんわ! せっかくのライシお兄様とのデートなのに……」
あくまでもこれをデートだと言いたいらしい。逢引などというよいものではなし、そもそも愛する男女だからこそあれははじめて成立する。
こんなものは単なる子守にすぎない。心の大人だというのならば聞き訳がいいのが当然だ。ライシは、ムッと頬を膨らませて不服を訴えるアリッサに口角を優しく緩めた。
未だ不服な顔のアリッサの手を引いてライシは城へと戻った。
「もし、そこのお嬢さんたち」
「はい? どちら様でしょうか?」
不意に声をかけたその者は一匹の魔物だった。
青い光沢のある甲冑を纏った彼は、獅子の頭部を有している。
明らかに人間ではないその魔物にライシは応対した。
人間であったならばすぐに臨戦態勢を取るところだが、相手は魔物だ。
つまり同族であり、よっぽどの理由でもない限り自ら戦いを挑んだりしない。
同じ魔物であるならば、ここがアスタロッテの統括地であることを知らないはずがない。
以上からライシは彼に敵意がないとすぐに察した。
とはいえ、ここにいったい何用か? 他種族がわざわざやってくるとはよっぽどの事情があるに違いない。ライシはそう判断した。
「申し遅れました、わたしはアスタロッテ様の盟友であるファフニアル様に仕えている者でして」
「母さんの?」
「はい。今回はわたしの主人でもあるファフニアル様より言伝を預かりましたので、それでこちらにお伺いさせてもらった次第です」
「それでしたら……城へはこの道をまっすぐといけばすぐですので」
「ありがとうございます。後――そちらのお嬢さん」
「え?」
「出会いがしらこういうことを言うのは大変失礼なのは重々承知しております。ですがどうしてもこの気持ちを伝えなければ一生後悔してしまう……お嬢さん、わたしと交際していただけませんか?」
獅子の魔物のあまりにも突拍子もないその告白に、ライシは表情を強張らせた。
互いのことを満足に知らない内から告白するなど、肝が据わっているとも言えるし単純に愚か者であった。俗にいう一目惚れというやつだろう。本当に一目惚れというのはあるらしい。
獅子の魔物に対するライシの表情はひどく険しいものだった。
またか。異なる世界であるのにまたしてもこのような扱いを俺はされるのか。
いつになったらこの面倒極まりない呪縛から解放されるのだろう。ライシはすこぶる本気でそう思った。
そんな彼の心情を知る由もない獅子の魔物はその場でひざまずいた。いつも間にか大きな手には一輪の花まで用意されている。
「一目惚れしてしまいました。ですのでぜひとも――」
「……俺は男だこの馬鹿が!」
ライシはがぁっと唸った。