森がぐんぐんと流れていく。
「おぉ……! まさか空を飛べる日が訪れるなんて夢のようだ!」
赤子は目をきらきらと輝かせた。
その反応は外見相応のかわいらしいものだと言えよう。普通の赤子はべらべらと喋らないが。
「あれがアスタロッテ様のいる城だ」
「あれが南蛮の城か……なんというか、大きいな。江戸城ぐらいはあるか?」
「なんだそのエド城というのは」
「俺が知る限りでは一番大きな城だよ」
崖の上に建てられたそれはまさしく、要塞と呼ぶに相応しかった。
圧倒的規模はもちろんだが、外観は立派の一言に尽きた。
もしかすると江戸城よりもずっと大きいかもしれない。赤子はそんなことを、ふと思った。
巨大な門がゆっくりと開かれていく。中はすでに、数多くのモノノケ――魔物たちによって賑わっていた。
がやがやとしたそれは賑やかというよりかは、どよめきといった方が正しい。現に彼らの表情はどこか忙しなく、余裕が欠片さえもなかった。
「あ、アモン様!」
一匹の魔物がどかどかとやってきた。それに伴って他の魔物たちも一斉に、アモンのもとへと駆け寄る。
どうやらこの魔物はずいぶんと人望があるらしい。そうでなくてはこうも家臣が彼を頼ろうとはしないはずだ。
人は見掛けによらないとは、きっとアモンのような者のことを言うのだろう。赤子はそう思った。
「今までどちらにいかれていたんですか?」
「すまんな。だが、とりあえず我々の首が繋がるかもしれん」
「えっと……その赤子は? 見たところ人間の赤子のようですが……」
「……この赤子をアスタロッテ様のご子息様の影武者として務めてもらう」
「えぇ!?」
驚愕の声が反響した。他の魔物たちも同様に激しく動揺し始める。
無理もあるまい。赤子はすこぶる本気でそう思った。魔物の子供を、人間の子供が務まるはずがない。
彼らとはなにもかもが異なっている。最初の内はどうにかなったとしても、いずれ白日のもとにすべてが明るみにでよう。そうなった時の危険性を考慮すれば、アモンの提案はとてもでないが賛同できかねる。彼らの反応は至極当然であって、極めて正しかった。
正直に言うなれば、赤子も今回の取引には一抹の不安があった。
外見でまず見破られてしまうのではないか。そうなってしまえばもう成す術はない。
騙したとして無残に殺されるのがオチだろう。それだけは是が非でも避けたい。モノノケに果たして、人間のような情があるとも限らない。結局のところ、自分の身は自分でどうにかするしかないのだ。
「――、いずれにせよどうにか手を打たねば我々が終わる。納得も理解も今すぐにしろというのは無理なのは我も十分わかってはいる。だが、どうか皆の力を貸してほしい。我らの主、アスタロッテ様のためにも……」
アモンの言葉に、さっきまでどよめいていた魔物たちは固く口を閉ざした。
未だ彼らの瞳には困惑の感情が宿っている。ただしその表情には迷いが一切なかった。みな、覚悟を決めた顔をしていた。
「――、それで? これからどうすればいいんだ?」
まっすぐと続く長い廊下を、窓から差し込む月明かりがほのかに照らし出す。
こつこつとアモンの靴音が静寂を静かに切る中で赤子は不意に、そう口火を切った。
「先程もいったが、貴様はとにかく子供らしく振る舞えばそれでいい。赤子が急に喋るなどありえないからな」
「まぁ、普通はそうだわな……しかし、この俺が赤子のフリをするのかぁ」
赤子は自嘲気味に小さく笑った。
これまでにも正体を偽って仕事に就いたことは何度かあった。
だが、その中で赤子のフリは一度としてやったことがなかった。当然だ、心身はとっくに成人している。
大の男が純粋無垢な赤子のフリをできるわけがない。
「気持ちはわからないでもないが、生きたいのであれば努力することだ」
「……なんでこんなことになってしまったのかねぇ。まったく、仏様っていうのはずいぶんと意地悪だな」
赤子は小さく溜息を吐いた。
「ついたぞ、ここだ」
アモンの歩みが止まった。
黄金と宝石を惜しげもなく装飾に施したその扉は豪華の一言に尽きた。
美しさとは裏腹に、扉越しにひしひしと放たれる邪気はひどく禍々しい。
いったいどんな怪物が待ち構えているんだ? 赤子は一筋の脂汗を滲ませた。
これまでにも数多くの死線を超えてきた。そうした経験があるにも関わらず、思わず入りたくないと身体が拒絶反応を起こしている。
信じられなかった。この先にいるのは間違いなく、過去最大の強者にして人智を超えた怪物だ。
ここで退き返すのがきっと正しい選択肢なのだろう、が赤子という状況ではどうすることもできない。腹を括るしかない。赤子は深呼吸をした。
「……ここに俺の母親となる人がいるのか」
「そうだ。アスタロッテ様は慈母のようなお方だが、怒れば例え我らでも抑えられん。己が役目をしっかりと全うしろよ、小僧」
「……胃が痛くなってきた」
「……失礼しますアスタロッテ様、アモンです」
扉を三回軽くノックして、いよいよ中へと足を踏み入れた。
甘い香りがした。ふわりと漂うそれは花の香りで鼻腔を優しくくすぐった。
扉越しに感じた邪気はなく、穏やかな静けさが室内をそっと包んでいる。
部屋の片隅、白い布によって遮られた天幕付きの寝台の上にその女性はいた。
青色の肌は実に稀有で珍しいものだった。南蛮人の中には肌の黒いものがいるが、青は未だかつて目にしたことがない。
腰まで届くさらりとなびく金の髪は、さながら黄金のようで非常に美しい。
ただし頭より生えた二本の黒く鋭い角と、背中より生えたコウモリが如き双翼が彼女が、人外であるなによりの証拠だった。魔王アスタロッテ……男であれば誰しもが思わず見惚れてしまおうその美貌に生気はない。
「……アモン? 私、赤ちゃん……どこにいっちゃったの?」
「はい、こちらにおられますよ」
いよいよだ。赤子は内心でごくりと生唾を飲んだ。
できる限り赤ん坊らしく振舞った。無理矢理笑顔を作り、拙さを演出するように言葉をもらす。
やっていてこれほどの屈辱は味わったことがなかった。一部そういった癖も持つ輩もいるとは耳にしたことがある。
もちろん理解できるはずもなし。何故そのような歪んだ性格になってしまったのかとすこぶる本気で思った。
やはり、赤子のフリをするのは精神的にすさまじい苦痛だ。赤子は切に祈った――どうかこの地獄のような時間が一刻でも早く終わりますように、と。
「はい。実は出産された後付近を捜索しましたら城のすぐ近くで見つけました。さすがは魔王様のご子息様、生まれた時から我々の想像の遥か斜めを行く行動力は見事という他ありません」
「じゃ、じゃあ……あれは夢だったのね? 私の赤ちゃんが死んじゃったっていうのは、悪い夢だったのよね?」
「……はい。すべては出産による著しい体力消耗によって見えた幻です。アスタロッテ様のご子息様は、そこにちゃんとおられますよ」
「あぁ……あぁ……! よかった……本当によかった……!」
胸がずきりと痛んだ。もちろんこれは単なる錯覚でしかない。
とはいえ、罪悪感がまるでないわけではなかった。見た目は人外だが心は一人の母として深い愛で満ちていた。
赤子はアスタロッテの腕の中に渡された。全身を包む優しい温もりは心地良く、自然と安心できた。顔に当たる柔らかくもしっかりとある弾力に劣情をほんの少しでも抱いた己を恥じた。大きいのは、とてもいいことだと思う。
「私がママよ……これからはずっと一緒だからね。なにがあってもママが守ってあげるからね」
「……あー」
これがおそらく、母親の愛情というものなのかもしれない。赤子はそんなことを、ふと思った。