「そう、先生が……」
「肝が冷えたよ」
師匠到来危機一髪の翌日、再び四枠全ての予約を取って自分以外訪れないようにしたイライザが来店してくれたため、店主が昨夜のトラブルを話せば珍しく彼女は表情を露骨に曇らせた。
彼女はヨシュアにつき合ってゼミを選びはしたが、正直なところ教授とは人格面で、あまり折り合いがよくなかった。専攻を時間関係にしてはいるものの、師匠のそれとは趣が少し違うこともあるが、何よりも性根が合わなかった。
アルテミシアは良くも悪くも猫めいたところがあって、その気紛れさがイライザのコミュ障な部分と噛み合わず、口論になることも屡々あったそうな。
とはいえ、師が一〇言ってようやくイライザが一の文句を返せていたようなそれを言い争いと呼んで良いかは微妙だが、ともかく担当ゼミ教授と生徒であっても全員が仲良しこよしではない訳だ。
ヨシュアのようにベッタリになっても困るが、疎遠すぎても困る。まこと人付き合いとは難しい物だ。
そこまで考えた後で、店主は不意に心配になった。
将来お嫁さんを見つけたとしても、上手く旦那さんとお父さんをやれるかが。あの場で、ともすれば自分の将来が左右されかねなかった場所で、師にハッキリと否を継げることもできなかったのに、私にちゃんと務まるのかと。
それこそヒト種の子供なんて愛玩動物として引く手数多。這い寄る魔の手を全て打ち払って、更に立派な人間に育て上げる難事を理解して、今からちょっと押し潰されそうな気分になったヨシュア。
貴種身分を手に入れるのも楽ではないが、その後も楽ではない。血筋を絶やさないためには、自分の子供達にもヒト種の相手を宛がわねばならないのだ。待ち受けている困難の度合いは並ではない。
であるならば、まずは師匠くらい何とかできずしてどうするのか。
あの教授は一度諦めたような素振りを見せたが、その内に何かやりだすのは経験則からして想像に難くなかった。
それこそ、ヨシュアが自発的に大竜骸の学院へ戻ろうとするような策を。
「あの雌猫……」
「お客様、お口が少々悪うございますよ」
ぼそりと憎々しげに呟く彼女を軽く窘めて、店主は今日も手作業を見たいと注文された黒茶を差しだした。
「でも、あの諦めの悪い先生が退くような人がいるなんて珍しいね……」
「教授といってもしょせんは技術官僚だからね。上には上がいるのさ」
大竜骸の学院においては並ぶ者の少ない権力者であろうとも、論壇と違って成したこと、見つけ出したことだけで全てが決まる訳ではない世界に視線をやるとアルテミシアとて無敵ではない。
それに近いだけの立場ではあるものの、やはり絶対というものはないものだ。
となると、もう少し心強いパトロンが一人二人いても良さそうだなと彼は顎に手をやって客の顔を思い浮かべた。
ここはロウファ様の出禁を解いて貰うべく、人造人格に祈るべきやもしれないと一考する。
ゼアリリューゼ様曰く、過日のような扱いをしないと一筆書いて貰ったらしいし、変なことはされないだろう。
前に使った術法でコンタクトを取る筋自体は見つけてあるから、招待状を送れば訪ねてくる公算は高いだろう。
「柵というのは、中々に振り払えない物だねぇ。必要だと思って学院に入ったけども、そこの因果が卒業してから六年経っても断てないとは」
「そこは仕方ないよヨシュア……僕だって未だにゼミ時代の人間と会ったら色々お世辞を言ったり言われたりしてるんだし……」
アルテミシア教授はネームバリューもさることながら、名誉職として就いている職業が強力なこともあり、そのお零れに預かろうとして入って来たゼミ生が多いので、学生同士の紐帯が卒業後も中々に固い。
何と言っても同窓生にして同僚や繋がりのある省庁勤務なんてのが珍しくないので、貴族閥ほどではないが小規模閥と呼べるくらいには大きな物になってしまっているのだから。
ヨシュアの方にも未だに〝教授を囲む会〟などの卒業生が催すイベントの誘いがどうやってか届くのだが、かなり不義理をして逐電した覚えがある当人なので参加したことはない。
ただ、美味しそうに黒茶を啜っているイライザは、コミュ障特有の〝自分が知らないところで悪口を言われている〟ことに凄まじい恐怖を覚えているようで、人が集まる所が嫌いなのに参加しているところに人間強度が低い彼女の悲哀を感じざるを得なかった。
まぁ、ボソボソと発表して「聞こえませーん」なんて煽られていた彼女も、今や国防関係の花形である先術研の所属だ。肖りたいと思われることはあっても、馬鹿にされることなんてなかろう。
基本的に術師はプライドが高いものだ。自分より上を行く人間の陰口を集団で叩くなどと言う、本質的には〝持たざる者〟がやるような行為を何より嫌う。
それでも彼女は怖いから、行きたくもない宴会に行かざるを得ないのだろう。
その疲れをせめてここでくらい癒やせて貰えたら何よりと思い、ヨシュアは師匠に卿した物と同じ落雁をそっと指しだした。
「これも懐かしいね……ヨシュア、凝り出して木型から作り出すんだもん……」
「仕方ないじゃないか、いつも同じ形じゃ飽きるって、どっかの誰かが愚痴るんだから」
精巧な砂糖菓子はひたすらに甘いのに拘った帝都菓子屋の品ではなく、優しい和三盆の味が忘れられなくて店主が自作したものだ。それが立場的に上等過ぎる、甘ったるさが天元突破した菓子ばかりが饗される立場に辟易していた師匠に気に入られたのもあって、何度も自作させられていた。
その上、自分の見栄えにはとんと興味がないくせして、指先で摘まめる御菓子のバリエーションには拘るんだから困ったものだと過去の苦労に溜息を漏らしかけるヨシュア。まるでカリカリの種類に五月蠅い猫のようだ。
術式中枢を〝時計〟にすると決めてから加工には拘ってきたこともあり、木型の一個や二個作るのは苦でもなかったが、和菓子なんて物は前世でも今生でも作ったことないから形になるまで随分と難儀したものだ。
ねき水を――少量の砂糖と寒天を練った物――使うという基礎を知る由もない彼であるので、古い製菓指南書を大書庫から発掘してくるまでは、何度作っても「なんか違う……」と菓子職人でもないのに大量の失敗作を前に頭を抱えた日もあった。
それよりも何故、あんな本が大竜骸の学院にあったんだろうかと、今更になって本当に謎と思いつつヨシュアは皿の上に盛った落雁を見て小首を傾げた。
「でも、よかったね、戻らなくてすんで」
「ああ、師匠がいらした時に訪ねて来たお客の一人がね、たまたま師匠より格上でね」
「え? あの雌猫より……?」
「こら」
そんな客がいるのかと、そしてもう斯様な太客を掴んでいるのかと軽く戦慄しているエリザベスを余所にヨシュアはゼアリリューゼ様々だと神棚を拝んだ。
やはり政治的な力を持っている人間は強い。その場に現れて挨拶を交わすだけで絶大な力を発揮し、無言のままに言いたいことを察させることができるのだ。
あの時はヨシュアも焦っていて分からなかったが、きっと師が引いたのはゼアリリューゼが気に入っている店の店主を引き抜き、畳ませたとあってはどんな目に遭うか分からないと思ったからだろう。
彼女は自分のことに興味がとんとないが、流石は猫というべきか身の置き方と危険には敏感だ。ヤバいと思ったらあっと言う間に逃げてしまうカンの良さがある。なればこそ、今の地位があったのだろうが。
「しかし、君も気を付けたまえよイライザ。お師様と出くわしたらえらいことになる」
「そだね……でも、そう言うなら嘘つきくんも懇親会とか同窓会に参加してくれればいいのに……僕、的にならないよう端っこでサラダ突っついて一刻近くも気配消してるのしんどい」
「……そんな君の楯になる私がしんどくないとでも思ってるのかな?」
ちょっと嫌な光景を想像してヨシュアは珍しく客前で表情を顰めた。
自分がエリザベス以外の旧友に顔を見せるのは実時間で六年ぶりとなれば、それはもう大歓迎を受けるだろう。生きとったんかワレェ! と囲まれて、何をしていたのか、何をしているのか根掘り葉掘り聞かれる。
そして、こんな所で自分の大望のために鄙びたカフェをしていると言えば、多分めっちゃ笑われるか煽られるかどっちかするだろう。
無論、ヨシュアとしては言い返すだけの度量があるし理論武装もしており、何なら「それで内務省の重役と太いパイプがあるけどお前は?」と煽り返す余裕さえあったが、その時間が到底楽しいとは思えない。
元来、彼は政治的な闘争心とは無縁な気質なのだ。
「でも、一緒に来てくれたら大分気が楽だもん……」
「……ま、一回くらい顔を出すよ。義理もあるしね」
言うまでもなく、その時はちゃんと〝無貌の仮面〟を被っての登場となるが、同窓生の中では一番チビであったため、子供扱いされた昔と扱いは然して変わることもなかろうが。
店の宣伝になればいいなと暢気に思っている店主を余所に、客は甘いはずの落雁から味を感じていなかった。
「しかし、イライザは大変だよね。仕事の都合で古馴染みとは一応会っておかないと微妙なところもあるだろうし」
「まぁ、ね」
気もそぞろな返事をした舌の上に広がるのは焦燥だ。
まだ理論に指先すら掛かっていないが、完成させないと手遅れになるかも知れない。
自分の計画は、ある意味で究極の〝後出しじゃんけん〟を成立させるようなものだが、先が決まりすぎていると変更できない点もある。
幼馴染みという不動の地位を手にい入れて、小さな時のヨシュアを堪能した上、更にお嫁さんになる積年の夢を叶えるためのタイムリミットは、思ったよりも短いのかもしれない。
「……仕事、やめちゃおっかな」
「急にどうした!?」
仕事が多忙なのもあって自分の研究時間を確保するのが難しいが、かといって職場の機材を自分の研究に流用していることも事実。どちらを天秤にかけるか悩んだ末に、何となく口にした言葉は、大出世を果たしている同窓生を密かに誇っていた店主を大いに困惑させたのであった…………。