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第29話 神格の思し召し

 ゼアリリューゼがHaven of Restを訪ねる気になったのは、失意の下に仕事をしていた折、ARデバイスを外すと何故かショップカードが机の上に置いてあったからだ。


 時刻は残業をしていたこともあって開店間近。部署には自分だけが残っている。他の者達は現場や他部署との折衝のために出ており、珍しく独りになっていた。


 「……妙だな」


 ショップカードを手に取って触ってみると、たしかに実体がある。しかし、自分が持っているカードはカードケースにしまってあるはずで、何があってもなくさないよう大事にしまってあるはずだった。


 しかし、不思議と机上に現れていたカードが自分の物であるという確信が彼女にはあった。懐のケースを探ってみるまでもなく、誰の物でもない自分のために用意された〝切符〟であるという強い認識。


 「……お許しが出たと言うことかな」


 ロウファを誘っての晩餐会が台無しになって以降、ゼアリリューゼは詫びを入れようと思って何度もHaven of Restに連絡したし、実際に訪ねてみようと足を伸ばした。


 しかし、不思議と術法伝声は届かず、通い慣れたはずの道は御者が迷い、ならば自分が歩いてと思って近くで降りても辿り着けない。


 そして、茶を飲みながらの他愛もない会話の中で、ヨシュアが言っていたことを思いだした。


 あの店は人造神格の加護によって護られていることを。


 つまり、自分は中に災いを持ち込んだが故、出禁を喰らったのだとゼアリリューゼはそれで理解し、怒りに限界が来て先の決闘騒ぎに乗った訳だ。


 「……もう、明日でもいいか」


 しかし、決闘に勝ってロウファにHaven of Restで無体を働かない、自分の価値観を店主に押しつけないという念書を書かせても連絡がつかなかったのに、何故今になって啓示の如くショップカードが現れたのかと不思議に思いつつ、彼女は人生で始めて〝今日できる仕事を明日に回す〟という不真面目に手を染めた。


 術法伝声は、今までの頑なさが嘘のようにするっと通じた。鉄面皮で抑揚のないしゃべり方をする侍女の声すら愛おしく感じる中、すぐおいでくださっても構いませんと言うのでゼアリリューゼは予約を取って立ち上がる。


 「今から馬車を用意させるよりは、自分で飛んだ方が早いか」


 彼女は退庁処理を済ませると内務省庁舎の屋上に向かい、外套のように体を包んでいた二対四枚の翼を大きく広げた。


 普段はこのようなことはしない。貴族は室内や庭園以外を自分の足で歩くなど〝余裕がない〟として嫌っており、どのような小用であっても馬車を使うのが優雅とされるから。吸血鬼が自らの翼で空を飛ぶなど、今の世にあっては遮二無二に全力疾走しているに等しい。


 他の貴族が見たならば、何と余裕のないことでと嗤っただろう。


 それに帝都は何時狙われるか分からないこともあって、飛行制限地域も多く高度及び速度制限など多数の枷が嵌められている。上空には警戒騎がブンブン飛び回っており、即応体制の部隊も郊外に数個飛行隊規模でスクランブル発進できるよう待機しているなど凄まじく護りが厚い。


 この規則は貴賤共に例外なく、国防上の重要事であるため破ることは許されていなかった。


 だが、その程度は古の吸血鬼にとってあってなきような物だ。彼女は小さく吐息すると、翼を大きく広げて一息に夜空へ飛び上がる。


 その初速は音の壁を悠々と破りながらにして、術法によって大気を揺らさぬ無音の飛翔。月を背景に夜空に溶け込んで翔る様は、電探にも術方探査にも捕らえきれぬ不可視の浸透。


 やろうと思えば自分と同格の存在を相手にしながら、帝都の半分を焼け野原にできる怪物。それに権威という飴を与え、同時に戒めた連邦帝国は実に賢かったと言えよう。事実として、今も真面目に政務を行っている貴族の中では、ゼアリリューゼに伍するほど古く強力な血筋も珍しくない。


 そんな物が私戦に走った途端どうなるかは、か弱き定命にとって不運以外の何物でもなかろう。


 「久し振りに翔ぶと、少し肩の付け根が変な気がするな」


 自力で空を飛んだのなど何十年ぶりであろうか、そう思いつつまたしても無音でHaven of Restの前に降り立った彼女は手早く居住まいを正すと、自分がちゃんと扉口に立てていることを安堵した。


 今までは何度やっても辿り着けなかったが、今日はきちんと招かれていると見てもいいのだろう。


 安心の息を吐いて、前髪をちょいちょいと直した後、彼女はゆっくりとドアノブに手をやった。


 弾かれたりはしない。嫌にしっくりくる手応えが、ほんの一週間も経っていないというのに酷く愛おしい。


 「……ゼアリリューゼ様?」


 「やぁ、久し振り」


 驚くヨシュアにゼアリリューゼは小さく手を振った。たったの七日、永劫を生きる吸血鬼にとっては須臾に等しい時間に過ぎないうのに、那由他の時を別れていたような気がするのだから不思議なものだ。


 奇妙なまでに心へ染み入ってくる安らぎ、常に気を張った体中から余計な力が抜けていく気安さ。自宅に戻っても得られない穏やかな気持ちを味わいながら、吸血鬼は驚きを一つ得る。


 この店で他人を目にするのは初めてであったからだ。


 普段は客同士が互いの姿を認識することがないように術法がかけられており、店を守護する人造神格がそれを助けているのだが、今日はそれが敢えて働いていないようだった。


 「あら~、オッペンハイム伯~去年の園遊会ぶりですね~」


 「グレンダイブ子爵? ええ、たしかに去年の大園遊会以来ですね」


 それはゼアリリューゼにアルテミシアの牽制をさせるため。人格と呼べるだけの物を持っていない曖昧な疑似神格が演繹した最善の答え。


 権力はより巨大な権力によって押し潰されるものだ。


 猫の蒼い目がすっと細くなった。常人にとっての一秒と彼女にとっての一秒は価値が全く違う。思考というよりも演算と呼んだ方が正しい膨大な情報が、瞬く間に脳内で組み上げられ最適解が何かを弾き出す。


 ゼアリリューゼが入店した時の仕草と顔付き、そしてヨシュアの反応は随分と慣れた物だった。昨日今日知り合ったばかりの客ではなく、上客、それも店を維持するための太客と見て良かろう。


 となると、当然のことながらヨシュアはゼアリリューゼのお気に入りであることは明白。さもなければ、斯様な鄙びたところにある店にオッペンハイム伯爵にしてキャリフォニア植民地伯でありワシントニア城伯が供もなく訪れることは有り得ない。


 しかも、開店からそう日が空いていないことを加味すれば、初期から訪れているヘビーユーザーであることが推察できる。


 となると、そのような御仁を前にして、大竜骸の学院に連れ戻そうとしていることがバレたらどうなるか。


 今をときめき、皇帝の寵愛厚き前帝国時代からの古豪が相手となっては、流石に柏葉杖付大宝珠勲章の威光も霞む。政治的に殺し合ったら、しょせんは子爵に過ぎず、自分の貴族閥も持っていないアルテミシアでは力量差が違いすぎて間違いなく勝てない。


 これは潮時かなぁと霊猫は内心で舌打ちを打って、しかし艶然とした微笑みは崩さない。


 ヨシュアは数いる教え子の中で、最も自分の核心に近づくことのできた愛し子だ。大半の学生が、面倒なのを堪えて態々図解にしてやっても〝現在とは常に過ぎ去る過去に過ぎない〟という真理を欠片ほども理解できない中、彼だけは時間の概念をするっと呑み込んだ。


 そして、大勢の生徒が、たった一輪の花を枯らせないようにする課題にすら難渋して諦めていく過程で、自分の固有時間軸を掴んで見せた才能は秀でているという言葉ですら足りない。


 誰もヨシュアの本当の価値を分かっていないとアルテミシアは考えていた。


 この子は可愛らしいし、放っておけない危なっかしさがあるけれど――しかも、今ではヒト種だと分かって愛らしさが更に増した――本質は研究者向きなのだ。


 彼が時間の概念にもっと深く指を掛ければ、世界はより豊かになるだろう。


 何より、彼がヒト種だということが分かった今、半神半人の非定命でなかったことを知ってしまったならば尚更研究をさせたい。


 この愛らしい種族が〝たかが時の流れ〟などに摩耗して消えていくのはあまりにも惜しかったから。


 そして、あわよくば、またその寝心地の良い腹の上で昼寝を……と思っていたアルテミシアであるが、手札が足りていないことは事実。


 「よかったね~ヨシュア、良いお客さんがついてくれて~」


 「え? あ、はい」


 「先生もちょくちょく遊びに来てあげるからね~」


 急な心変わりに困惑するヨシュアを余所に、ゼアリリューゼは社交辞令的に会話を始めた。


 そこで霊猫がヨシュアの恩師であることを知り、学生時代の彼のことを聞きたいですねと言いだして、ではゆっくり話ができるVIPルームを借りようという流れになる。


 アルテミシアは吸血鬼のことをどうにか出し抜かねばならない敵と認識し、一方でゼアリリューゼは自分が知らないもっと小さかった時分の情報源として見る。


 そして、当の本人は上客に失敗談やらポカやらを面白おかしく語られて、胃の痛い思いをしながら、当座の危機は去ったのかと内心で首を傾げるのであった…………。





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