「ほぇ~すごくしっかりしてる~」
「頼むから二度とやらないでください。下手すると不敬罪で首が飛びますよ」
私は茶より先に、不敬にもほどがある師匠から片外套を引っ剥がして、洗濯されたせいで油分がぶっ飛んでゴワッゴワのしわくちゃになっていたそれを何とか復活させた。
旅先で色々と自分でやる必要があったこと、そして竜革のここまで無体に扱われても悼みきらない堅牢性のおかげで、何とか人前に出せるようになってくれて助かった。
流石の私も恩師が不敬罪で高い所に送られたら寝覚めの一つも悪くなる。
「それはこまるな~」
きゃらきゃらとまったく困った様子などなく笑っていらっしゃるが、本当に自分の命が結構ヤバかったことを自覚していないあたり、どこまでも変わっていない。いや、変わらないにも程度がある。もう少しこう、私がいなくなってからしっかりなってくれはしないのか。
いやまぁ、しなかったから、この様で現れたのだろうけど。
「……おほん。では改めてお師様、我が城、Haven of Restへようこそいらっしゃいました」
「はいは~い、お邪魔しちゃいま~す」
一応は名誉爵位じゃないちゃんとした爵位持ちのはずなのに、礼儀作法など知ったことかとカウンターに頬杖を突いて我が師、アルテミシア・トリエグル・シュパリュ=グレンダイブ子爵は大粒の垂れ目を笑みの形に歪めた。
まぁ、この態度は今更だ。
というよりも、彼女にはそれが許される。許されるだけの圧倒的な法力、研究成果、それに裏打ちされた個体戦闘能力と溢れんばかりの権力がある。
何せ〝過去視〟だ。前世では法的捜査の証拠として認められていなかった胡乱な霊視やらと違って、方術による捜査はこの世界では揺るぎなく合法で適法で完全に根拠として成立する。
大竜骸の学院教授に留まらず、連邦帝国内務省隷下国家公共安全委員会外部委員にして司法警察庁特別助言顧問。この肩書きだけで後ろ暗いところのある貴族は震え上がって逃げ出す。
犯罪現場に立っただけで、極めて精度の高い過去視を行える師は、総ての悪徳に対する鬼札だ。斯様な存在が今ものうのうと卒業生のやっている喫茶店で茶をしばけている理由はただ一つ。
絶対に殺されないくらい強いから、の一点に尽きる。
「いや~しかし~色んなポスト用意してあげたのに~逃げた先でこんなことやってるなんてね~」
私が茶の用意を慌ててしている中、お冷やの椀、その縁を指でなぞりながら仰る師の背中で影が揺れた。
長い尻尾の陰影は二つある。ブレているとか光源の加減で二つに見えるとかではなく、本当に二本あるからだ。
師はただのバスティアンではない。同種族の中でも跳びきり法力に優れた個体が、凄まじい自己研鑽の末に至る猫又、あるいは霊猫と呼ばれる存在。その寿命は観測されていないくらい長い、実質的に非定命と言えるもので、半ば神格に近い物として扱われるほどだ。
「何が不満だったのかな~司法警察庁~公安員会~そして何より大竜骸の学院の教授~選り取り見取りだったのに~」
「私に官僚や
今日は緋茶の気分らしいので熱湯を注いで抽出しながら、責めるように私が卒業した時に備えて用意していてくれたポストを並び立てる霊猫。
ただ、色々と提示しておいて何だが、その選択肢は多様なようでいて実質一択に近しい。
師匠は私が学生の頃から、本当に良いように便利使いしてくれたものだ。
「え~? でも~助教はお似合いだったと思うなぁ~」
「私は人に物を教えられるほど立派な人間ではありません」
やれ混沌の坩堝である大書庫から――史書連ですら遭難者が出る魔窟だ――資料を漁って来いだの、学会の仕度があるからと宣って荷物の用意から旅程まで全部放り投げてくるわ、腐海もかくやの汚部屋を週三で掃除させるだの、そりゃあもう何だってやらされた。
恩恵がなかった訳ではない。他の教授への顔つなぎをしてくれたし、教えは至極真面目かつ熱心に付けてくれた。私の力量が今の段階にあるのは、全てお師匠様のおかげと言っても過言ではない。
「折角~他の教授にも口利きして~推薦枠も取ってあげたのに~」
「ご厚意真に痛み入りますが、私にも将来の夢というものがありまして」
ただ、あまりに忙しすぎた。殆ど付き人として師匠の部屋に半ば住み込む勢いで雑事をやって、その傍ら言い付けられる用事を熟しながら自分の研究をやるのは凄まじく大変で、固有時制御があの頃にできていたならば、肉体年齢は更に三年ほど余計に歳を取っていただろう。
そして、そんな使い勝手の良い私を大竜骸の学院の留め置くべく、師匠が私を教授にしようとしていたことは、透けて見えるように分かっていた。
彼の学院において教えを授ける立場になるのは並大抵の努力では足りない。博士課程を終えているのは必要最低条件で、更にその中でも優等な成績と広く論壇に受け容れられた論文を認めている必要があり、その上で教授の下について助教として五年から十年の下積み期間を必要とする。
幸いにも大竜骸の学院はケチ臭くないので、助教授の給料が雀の涙でバイトを掛け持ちしながら研究をしなくてはいけないほどではないものの、お賃金が発生する以上義務も同じ位重い物がのし掛かってくる。
「でも~碌に挨拶もせず出て行くのは~先生傷付いたな~」
「ちゃんと送別会には最後までいたじゃありませんか。急ぎの旅だったので、終わり次第部屋を引き払ったのは性急だったやもしれませんが」
それ故に私はこのままだと人生を師匠に仕えることで終わることになる! と考え、大望を果たすべく半ば出奔する形で卒業式当日に学院を跳びだしたのだ。
コトが露見すると慰留という形で監禁される可能性もあったので、私は持てる限りの物を持って慌てて学院を後にしている。その時に持ちきれなくて諦めた荷物も多かったが、あの広大な古い古い巨竜の頭骨に囚われて生涯を終えるよりマシだと思って諦めた。
だが、そのツケが今になって襲いかかってこようとは……。
「あ~でも先生ショックだな~カワイイカワイイ弟子から嘘を吐かれてたなんて~」
「……身分を偽っていたことは、心よりお詫びします。ですが、此の身の危うさもご理解いただければと」
「だよね~ヒト種なんて珍しすぎて、ぷらぷら歩いてたら何されるか分かんないもんね~」
ほんわかした人好きのする笑顔を浮かべているように見えて、師匠の目はあんまり笑っていなかった。蒼い目が笑みの形をしたまま冷たい光を宿して、刺すように私を見ている。
これは怒り半分、見抜けなかった自分への至らなさでの葛藤半分ってところか。
「だけど酷いなぁ~先生にくらい~ほんとのこと教えてくれても良かったのに~」
「どこで余人の目が光っているか分かりませんので」
やんわり咎めてくる言葉を上手くいなして、私は人肌程度に温めた茶を広口のカップにゆっくり注いだ。
そして、師匠の前に出すと、彼女は真っ黒い鼻をひくつかせて匂いをよく嗅いだ後、両手で捧げ持つように茶器を持ち上げると、舌を伸ばして音を立てないよう器用に掬い上げるように呑んだ。
猫頭人特有の仕草だ。唇と口腔の形状から、彼女達は啜るという行為ができないため、飲み物を飲む際は自然とこうなる。この仕草はカニスィアンのような種族とも同じで、連邦帝国ではマナー違反という訳ではない。
多国籍国家だからね。この種族ならこのように振る舞いなさいと、肉体的な制約を慮った決まりがあるのだ。
「うん~ごうかく~はなまる~」
「ありがとうございます」
師匠は緋茶に五月蠅い人なので、満足して貰えて本当に良かった。未熟な頃は、それはもうけちょんけちょんに文句を言われて、手落ちがある度に課題を増やされて大変な思いをした。
いや、術式陣の写経で腱鞘炎になりかけたのはトラウマだよ。
「こちら、本日の御菓子です」
「わぁ~落雁だ~わざわざ作ってくれたの~?」
落雁は東から渡ってくる砂糖を少量のねき水と混ぜて型に嵌めて整形したものだが、その見た目の風雅さと優しい味わい、あと一時期〝砂糖を沢山使っていると贅沢〟という風潮から前帝国で流行し土着化した御菓子だ。
我が師はこれをカリカリとキャットフードの如く囓って召し上がるのがお気に入りで、たまに味変のつもりか緋茶や黒茶に落として蕩かすこともある。
きちんと好みは忘れていませんよと彼女の好み通りに振る舞うと、ご納得頂けたのかこちらもはなまるを頂戴した。
「う~ん、ねぇ、ヨシュア~」
「はい、何でしょうかお師様」
本気を出されたら逆立ちしても勝てない上、未熟だった頃の醜聞を両手の指を足して、更に自乗してもちょっと足りないくらい知られている相手には何もできない。姿勢を正し、顎を引いて粛々とお言葉に耳を傾けるだけ。
「出して~?」
「……畏まりました」
私は渋々と懐から術式中枢を取りだした。カチコチと音を立てて時を刻む試作型は良質な素材が手に入る度に改修を続けてはいるが、未だ完成品には程遠い習作。
そうであることを師匠の目から誤魔化すことはできない。
「うん~研鑽のあとが見えるね~撥条動力から水晶動力に変えた~?」
「ご賢察、流石でございます。古い亜竜、その左の竜眼に入っていた水晶体を使っています」
「うんうん、やっぱりセンスあるよヨシュア~。時経た竜、それも過去を現す左の目を使っているあたり、ちゃんと覚えの基礎は守ってるし、モーメント部分も相当イジったね~」
分解もせず、ただ見ただけで内部機構を完全に当てられてしまったのは、やはり師匠恐るべしということか。かつては自分の法力で撥条を巻くことを発動トリガとしていたが、今は常に自分の時間軸を観測するためクォーツ式に換装し、電気の代わりに術法で稼働させていることを一発で見抜かれた。
ただ、それでも師匠からするとオモチャの域を出ないのだろう。時計という時間を司る概念そのものを使っておいて、しかも形ある物質を自分の半身にするというリスクを背負って不完全な時間軸の複製しかできていないことを笑われているような気がした。
彼女は時計を矯めつ眇めつ観察した後に返してくれたが、頬杖を突いて何気ないことのように言った。
「やっぱりさ~学院に戻ってこない~?」
「は、はい?」
「新しく助教にした子が長続きしなくてさ~やっぱりヨシュアじゃなきゃだめだな~って」
また応えに窮する提案をしてくる師に、私は冷や汗を一滴垂らす。
「人手が足りないのは困るし~ヨシュアも最先端の論文読みたいでしょ~?」
この人、何もかもが上手く行きすぎて、世界は自分の物と思っている節があるからやりづらいんだよな。
まぁ、そのワールドイズマインなところは猫らしいなと思うんだけど、巻き込まれる側からすると大変困る。
「それに~まだ研鑽続けてるんだから~もったいな~い」
そして、隠していても法力、そして私の術法から成るHaven of Restの有様から全てを悟られてしまったか。
私は軽く冷や汗を掻きながら、どうやって師匠を撃退すればいいのか、ない頭を必死に捻る。
言葉で言いくるめるのは難しい。弁士としても腕が立つ師匠は――あくまで煙に巻く詭弁めいたものだが――決して私程度の口車に言いくるめられることはないだろう。
況してや実力行使は以ての外。それこそ未来視に指を掛けた存在とタイマン張って勝てるヤツがいるなら、是非とも面を拝んでみたいものだ。
そして、彼女は自分のワガママを通すと決めたら引いたことがない。その対象が弟子であり、世話を焼いてやった私であるとすれば尚のこと遠慮はなかろう。
何か、何か盤面をひっくり返す妙手が何処かにないかと脳細胞を回していると、不意に扉が開いた。
「……ゼアリリューゼ様?」
「やぁ、久し振り」
そこには、出禁になっていたはずの吸血鬼が涼しい顔をして立っていた…………。