「ああ~…………」
私は目が覚めてしまったことに絶望して頭を抱えた。
「マスター、どうなさいました。こんなこと初めてですよ」
いつものように起こし気に来てくれたグルゼフォーンが私の醜態を見て、フェイスプレートを僅かに歪めた。これは困惑を意味しているのだろう。
「だって、師匠が、師匠が……来る……」
「本日の標準時で20時からご予約のお方ですね」
七合界は地球と違って公転しておらず、自転とメビウスの輪の形を描く世界の内側を周回する一つの恒星っぽいものと、三つの衛星によって照らされており、時間の尺度がめちゃくちゃだ。
それではあまりにやりづらいからと、当時一二進法を採用していた最も強大な国が、とりあえずコレに合わせようぜと制定したのが標準時。連邦帝国は今もこれに従っており、日本人が体に馴染んだ二四時間のサイクルで活動している。
やっぱみんな一二進法好きなんすねぇ……という現実逃避はさておき、師匠が来ることに私は悶えていた。
「その、マスターにとっては恩師にあたられる方なのですよね?」
「ああ、学士位取得以前からずっと見て貰った師匠だが……」
「何故そこまでお嫌なのですか? お世話になった方を歓待するだけでは」
「色々と面倒くさい人なんだよぉ。凄い人ではあるんだけどさぁ」
私の師、大竜骸の学院においても五指に入る達人にして、多方面で活躍する術法師たるお方を師匠としては単純に尊敬している。
専攻は時間軸研究なのだが、それに留まらず〝世界で初めて〟術法が負の時間軸に伝達させられることを発見した偉大な研究者で、学者が授与される中でも最も権威ある柏葉杖付大宝珠勲章を授与された一級の教授だ。
今、存命の研究者の中で、同じ勲章を持っている人間は国内にお師匠ただ一人。
「本物の偉人じゃないですか」
「ああ、教科書に載るような人だよ。というか大竜骸の学院には普通に銅像が建ってるよ」
それを授与された後でも限定的な過去視の方術などを操るのみならず、未来視に指を掛けた功績によって、本来は遺贈されることしか想定されていない柏葉杖突金剛宝珠賞を授与されることも噂されるマジモンの天才なのだが……。
ちょっとこう、学者じゃなくて人間として付き合うとしんどいんだよね。
「うぉあー、会いたくない……めっちゃイジられる、めっちゃ文句言われる……」
「マスターはそんなことをなさらないと思うのですが、何か問題でもあったのですか?」
「いや、その、結構不義理して出て来ちゃったもんでさ……」
私は師匠に学士位取得を目指している学生時代から面倒を見て貰っているのだが、何と言うかこう、研究以外には生きているのが不思議なくらい才能がない人で、お世話係がいないと社会生活に支障を来すような奇人であった。
具体的に言うと一人で朝起きられないし、時空間関係の研究をしているくせに時間の管理は凄まじくだらしないし、予定なんて耳の右から入ったら左の穴から出て行くような御仁だ。
その介護をやらされたせいもあって、私の細々とした場所に気が付く素養は磨かれたのであろうが、如何せんあの人が絡むと何事も面倒が避けられない。
そりゃ凄い人だからね。ちょっと出かけるだけで政治的な熱量が発生するのだ。
いや、動かないことでも熱量を発生させられるとも言い換えられる。
たとえば、とある学会が師匠を講演に招いたとしよう。その参加を渋ったならば、我が師の実力と権威を知っている人間はどう受け取るか。
主催者がそれだけの価値がないと言外に評価していると受け取るか、仲が悪いと考えて多方面の人間が色々な邪推をする。
ただただ面倒くさいとか、自分の研究を優先したいからというだけのクッッッソだらしない理由が根底にあるなどと知らず。
アレでいて外面が良いのが最悪なのだ。これが前世の大学で世話になったゼミ教授の如く、蓬髪に無精髭で吊るしのスーツを草臥れるまで着るタイプの人だったら、世捨て人属性なんだなぁと周りが理解してくれただろうに。
だのに当人は自分の外見的アドバンテージと能力を完全に理解してない……というよりも、興味がないせいで色んな所をゴタゴタに引っかき回してくれるから大変だった。
「凄まじいお方なのですね」
「才能も能力もあるけど、自分という生物に興味がなくて認識が甘い人でね。いわゆる魔性というやつさ」
そのせいで何度か刺されかけたことがある。師匠の世話を焼いて付き人の如く常にへばり付いていたせいで、勘違いしたファンが何かやらかしてくれたのだ。
ああ、そういえば、直弟子の座を巡って決闘を挑まれたこともあったなぁ……。
遠い目をしながら寝台の上で遠い目をして座っていると、今日はそういう日なのだろうと諦めたらしいグルゼフォーンは、そのまま顔の仕度をしてくれた。
「少し目元に隈がありますね」
「熟睡できなかったんだ」
「お化粧で隠しましょう」
普段は化粧水だけで終わりの顔にベースメイクが施され、その上でファンデーションで隈が丁寧に偽装される。しかし、私は男だというのに彼女はこれらの品々を何故購入したのだろうか。いや、こういう時助かるから有り難いんだけどね。死んだ顔でお客様の前にでる訳にもいかないし。
一度グルゼフォーンに退出してもらって着替えたが、これほどまでに体に馴染んだ従僕服の袖を重く感じたことはなかった。
ああ、嫌だ、面倒臭い、絶対だる絡みされる。最悪大竜骸の学院に引き戻される。
それだけは、それだけは何とか阻止せねば。
クソ、しかし本当に誰が報せたんだよ。私は師匠と伝手がある知人には黙っておいてねと釘を刺しておいたはずだぞ。今度時間に余裕がある時、因果律を辿る術法で犯人を捜し出さねば。
そいつは出禁、いや、何らかの報復をしてやる。飲み会に誘われて、酔っ払った拍子にポロっと喋っちゃったとか抜かしたら本気で脛を蹴ってやろう。
武装が完璧なことを確認して部屋を出た私は、店舗スペースに降りると術法でざっと掃除をした上、グルゼフォーンと二人がかりで丁寧な仕上げをした。埃の一片も落ちていることはなく、また窓硝子からシャンデリアのランプまで曇った物は一つもない。
普段から磨いている茶器と酒杯も角度を考えてキチッと配置し、どこに座っても見栄えが良いように気を付ける。
そして、予め師匠がお好きだった物を仕立て、万が一にも文句が出ないよう万全に用意した。
ここらは学生だった時からお世話をさせられていたこともあり、今でも完璧に覚えている。
茶はできれば北東大陸の南方にある亜大陸産の本場物で、ゴールデンチップを混ぜて爽やかな風味と甘みを出した物がお好みだが、時に黒茶も嗜まれるのでこれもフルーティーで甘い銘柄を用意。
そして忘れてはいけないのは、ものすっごい猫舌であらせられるので、抽出温度は保ちつつ急速冷凍して冷やさなければならない。
これが結構難易度が高いのだ。術法でやると私の法力が混じって雑味が出るし、茶本来の味を損ねるから、冷ましすぎないよう砕いた氷を用意しておかねば。
「マスター、普段は使わない茶器をご用意なさいましたね。随分広口というか……」
「あのお方の好みなんだ。というより普通の形だと……」
カランと澄んだ音が響いた。扉に据え付けている来客を報せるベルの音は、喫茶店に踏み入った時に雰囲気を一番最初に感じられるものだから拘って発注したのだが、それが鳴るにはあまりに早い。
私は真逆と思って壁掛け時計に目をやったが、時刻はまだ19時前。開業より早い時間帯なので表の表札はCLOSEDにしてあるはずだし、無遠慮に表玄関を開けてくる出入り業者などいるはずもない。
「おっ、お師様!?」
「や~暇だから~早く来ちゃった~六年と~三ヶ月に三日~それから九時間二二分五一秒ぶり~」
ふらふらと手を振って入って来たのは、バスティアンの美女であった。
まるで夜闇が形を持って歩いているような黒猫。長い被毛に余計な色が混じることは一切なく、睫や眉毛、髭までも黒いせいで大粒の蒼い瞳が月のように目立つ。
背はすらりと高くて180cm半ばほど。襟元がキュッと締まったフリフリの真っ白なブラウスを着ていることも相まって首元の鬣がぶわりと広がり、顔を彩ってゴージャスさが増している。
そして、しなやかな下半身を隠すのはサテン生地の体にぴったり張り付く脚絆なのもあいまって、猫特有の曲線美がありありと誇張されているではないか。
喩えるなら金持ちの家の猫。おいそれと猫じゃらしなんて取りだしたら怒られそうな雰囲気だが、本人の顔はあくまでのほほんとしており、とてもではないが技術官僚の中でも最上位に位置する殿上人だとは思えない。
それを証明するのは、帝国の国章たる鷹の紋と学院の紋が同時に刺繍された片外套なのだが……。
「師匠!? それ洗濯しちゃダメって、私かなりキツく言いませんでしたっけ!?」
「あ~? う~ん、折角会いに来るから身綺麗にしようと思って~適当にやったらしわくちゃになっちゃった~」
「アンタそれの価値分かってやってんのか!!」
挨拶もする前に私はキレた。彼女が大方粗雑に洗濯術法でじゃっと洗ってしまったであろう物は、皇帝から下賜された特別な外套で、勲章保持者の中でも特別に優秀であることを認められないと羽織ることができないものだ。
そこに学院の竜眼竜鱗紋を刻んでいるとあれば権威と価値は更に増し、もうこれだけで帝城がフリーパスになるような代物。
それを、それを洗濯術式で洗った!? 竜革製の世界に数枚とない物を!?
「いやね~? 君がいなくなってから~お部屋任せられる子がいなかったから~しっちゃかめっちゃかで~お洗濯ものの下でくちゃくちゃになってたから~」
私は膝から力が抜けて、思わず地面に頽れそうになった。
て、帝国と学院の権威を、あろうことかほったらかして場所を忘れ、あまつさえ他の洗濯物と混ぜて積み上げておいた……?
ああ、この人、マジで何も変わってねぇ…………。