ロウファ・イースタシア・ニューバーニー・ネグローニカは天が二物も三物も与え賜うた本物の天才である。
国力三十倍以上の差がある前帝国に、たった一領地で七年にも及ぶ遅滞戦闘を成功させた軍略。その艱難辛苦の時を民にも軍にも耐えさせる圧倒的カリスマ。敵将をおいて、あのお方に討たれるなら本望と言わしめる個人的武威。
その上、異国でも通用する圧倒的美貌を持つ上、幼少期より叩き込まれた所作は連邦帝国の様式美然とした物とはことなる優雅さで見る者を魅了し、龍族の中でも生まれながらに〝宝珠〟を持つ特別な龍神種という生まれが存在で他種を圧倒する。
「あの、ネグローニカ伯。本当に大丈夫ですか?」
「ああ、心配されとる……ごめんな、ごめんなぁ、なんともないでぇ、ありがとなぁ」
そんな最大の政敵とも言える相手のこんな姿、正直見たくなかったな、とゼアリリューゼ・オッペンハイム=キャリフォニア=ワシントニアは遠い目で天井を見つめていた。
彼女の思惑としては、貴族にありがちな「私はこんな名店を知ってるけどお前は?」というマウント合戦の一環に過ぎなかったのであるが、真逆そこに逆鱗を穿つ攻城弓が潜んでいるなどと予想できるはずもないではないか。
「ああ、ハンカチがびちゃびちゃに。どうぞ、私めのでよろしければ」
「ええのん? やさしいなぁ、ありがとうなぁ……ああ、でも悪いわぁ、ヒトの子から貰ってまうなんて……」
「どうか気軽に使い捨てください。拙い物で恥ずかしいですが、進呈致しますので」
「なにっ!?」
反射的にゼアリリューゼは声を上げていた。
何故なら、今もボロボロ涙が止まらないロウファにヨシュアが渡した清楚な白いハンカチには、刺繍が施してあったからだ。
「ぜ、ゼアリリューゼ様?」
「よ、ヨシュア、それはもしかして自分で刺繍したのか……?」
「え? あ、まぁ、はい。簡素ですが、幸運を祈ってシロツメグサを。染み避けの術法も少々……」
ガタンと音を立てて椅子に崩れ落ち、机に頭をぶつけるゼアリリューゼ。もう対面のヤツが凄まじい醜態を晒しているのだから、自分も少しは良いだろうと思って気が抜けたのやもしないが、何にせよヨシュアが驚愕したことに代わりはない。
ただ、彼女にも矜恃があった。
魂の底から捻る出すような、そんなもの自分も貰ったことないのに! という、あまりに情けない絶叫を喉の奥に留めておくだけのやっすい物が。
二人を眺めて、ヨシュアはどうすんだよ、もうこれ、マジで、と投げ出してお部屋に帰りたい気持ちになっていた。
片や来店したと思ったら膝を突いて号泣する龍神種、片や気を遣っただけで何故か顎に良いのを貰ったように轟沈したお得意様。
何かもう、何をしても今日は碌でもない日になりそうだった。
「あ、あー、えーと、では、本日のコースをお出しいたしますね」
故に店主は、知ったことか、淡々と全て見なかったことにして仕事をしてしまおうと腹を括った。
小さなハンドベルを鳴らすと配膳カートを運んできたグルゼフォーンが呼び出され――彼女も一瞬硬直した。陽電子頭脳が自体を上手く呑み込めなかったのだろう――ヨシュアの前まで来ると、その上に置かれていた瓶を手渡した。
「まず食前酒です。裏側の双頭鷲帝国産、アウスレーゼのアイスワインをご用意いたしました」
自分に落ち着けと言い聞かせ、彼はセラーから持ってきた秘蔵の逸品を披露する。連邦帝国がある方を表と定義した場合、裏側に位置している大陸のアウスレーゼという葡萄の産地で作られたアイスワインで、非常に希少な一本であった。
そもそもアイスワインが熟し切った葡萄を冬の寒さで凍らせ、糖度を凝結させた上で作る非常に手が掛かる物なのだが、これは選ばれた畑でのみ作られる特別な一本である。
麗しい黄金色の液体には蕩けるような蜂蜜めいた甘さがあり、その中に芳醇な葡萄の芳香が燻る最高級品で、予約しなければ現地の貴族であっても中々手に入らない代物をヨシュアが持っているのは、探索者としての報酬で貰ったからである。
自分で飲むのは何か勿体ないなと、開ける切っ掛けを失っていた物が日の目を見るのは嬉しいと、彼は封蝋を切るためにコルク抜きのナイフを引っ張り出したのだが……。
「あきまへん!!」
「ファッ!?」
「そんな尖った物持って、怪我したらどないしますのん! ヒトの子は脆いし、取り返しがつきませんのやで!?」
「え、いや、でもこれが仕事……」
言い切るか言い切らないかの間にヨシュアの手からコルク抜きは優しく奪い取られ、あろうことか歓待される側であるはずのロウファが爪で封を斬り割き、そのまま自分で抜いてしまったではないか。
力を込めて関節を痛めたらどうするのだと。
そこまでひ弱じゃねぇよ舐めてんのか、なんて罵言が一瞬でかかったヨシュアであるが、理性で必死に押し止め、せめて注ぐ栄誉だけは取り上げないでくださいと懇願して瓶を取り返すことに成功した。
マナーに従って注ぎ口付近にナプキンを持って、しかし雫を一滴も溢すことなく注いだヨシュアであるが、欲しかった反応は帰って来なかった。
「あー、偉いなぁ、上手上手、どこで覚えたんかな~?」
注いだ食前酒を飲みはしたが、上手に入れられたことに褒めるので夢中のロウファから味の感想が出てくることはなく、ゼアリリューゼは場の空気の奇妙さに味覚が死んだのか至上の逸品に言葉一つこぼさない。
美味しいと褒めて貰えたら、このアイスワインの解説をしたかったところであるが、そういう雰囲気ではとてもではなかった。しかし、折角用意したのにこの様では、このワインを作った職人も、大事にとっておいたヨシュアもイマイチ報われない。
本当に希少で、味も極上のはずであるのに。それとも貴種は飲み慣れていて、今更なのだろうか。
「……お褒めにあずかり、恐悦至極に存じます」
捻り出すような言葉の後にも似たようなことが続いた。オードブルの皿を持てば重い物を持つ必要はないと引ったくられ、スープの皿を持とうとしたら火傷したどうすると取り上げられて、もう色々面倒になったヨシュアはポワソンからはグルゼフォーンに配膳させた。
ヒト種が手ずから給仕するというサービスが台無しだ。
彼はたしかに自分を仔猫にたとえ、ここが猫が滅んだ世界の猫カフェみたいなものだと認識して商売をしているが、本当に目も開いていない仔猫のように扱われては困る。
猫ベットから脱走しようとする度に、だめでちゅよーと元に戻される仔猫はこんな気持ちなのだろうなぁと思いつつも、最後の逸品、食後の緋茶を煎れるのだけは譲れなかったので、妨害されないようカウンターに引っ込んで煎れてきたのだが、そこでまた一悶着が起こる。
「ゼアリリューゼ様、いつものサービスはどうなさいますか?」
「ああ、頼む……あ」
言い終えた後で、ヤバイとゼアリリューゼは己の失態に気が付いた。
ヨシュアがいつものことなのでと手慣れた様子で手袋を脱いで血を入れようとしたところ、術法で針を生成した瞬間にロウファが手を掴んで止めようとしたのだ。
そこに人造神格から待ったが入って掌がバチンと弾かれ、弾みで刺さった血の玉がぷくりと浮かぶ。
「よ、ヨシュアきゅん、今、何したん……?」
いや、きゅんて、と当人は初めてされる呼ばれ方に当惑を隠せず、ついいつも通りのサービスでございますがと応えてしまった。
すると刹那、龍神の目が見開かれ、瞳孔が拡大し圧倒的な存在感が室内を支配した。
竜の心臓は方術の炉。その炉が全力で稼働し様々な身体強化術法が全力で稼働し始めたのだ。
「オッペンハイム伯?」
「い、いや、これはヨシュアから言いだしたことでだな! というか、貴様が言うほどヒト種は脆くない……」
「こんなにキャワいいヨシュアきゅんに毎回血ぃ流させとったんかワレェ!!」
卓を回り込んでゼアリリューゼの胸ぐらを掴み上げるロウファ。それに反応してグルゼフォーンは「いけませんマスター! 私の背後に!!」と主人を庇って右腕を伸ばしたかと思うと、腕部装甲が展開して超小型の陽電子砲が砲身を延ばす。
一触即発の空気。このまま殴り合いにでも発生するのではと懸念した瞬間……二人の姿がパッとかき消えた。
そして、ひらひらと一枚の紙が舞い落ちる。
そこには達筆の日本語で
「……しばらく出禁?」
と至極当たり前のことが書き付けてあったという。
そう、この店の中限定といえど神格は神格。世界を操る力を持ち、信徒を護る義務を負った存在は正しく仕事を果たしたのだ。
店の害となり得る者、ともすれば余波でヨシュアを害しかねない者を追い出して、心なしか店の中の空気は満足そうであった。
「マスター、これは」
「人造神格のご加護、かな。というかグルゼフォーン、君こそなんだいそのくっっそ格好良いギミック」
「これですか? 半戦闘用自動人形のメイン攻撃オプションの陽電子砲ですが」
「なんて?」
ですから陽電子砲ですと言われて、ヨシュアは奉仕用自動人形になんて物騒なモン突っ込みやがる、と成機大陸の造物主に怒鳴りつけてやりたい気になった。搭載されているのが散弾や敵弾発射筒くらいならバトルメイドだ! とキャッキャしたところころであるが、陽電子砲は明らかにやりすぎである。むしろ、一体何と戦うつもりで成機大陸の上位個体達はグルゼフォーンモデルを設計したのだろうか。
「……しかし参った。上客を紹介してもらえればいいと思っていたけど、あんな過激派が隠れているとは」
「あのお方、一体何があったのでしょうね。しばらく出禁だそうですが、却って厄介なことになるのでは?」
「店の前をウロウロされても困るしなぁ……あのクラスの使い手なら、人避けの術法くらい軽く無視してきそうだし……」
取り残された主従は、とりあえず食事の後を片付けて、神棚に祈りに行くことに決めた…………。