「みみ……かき……?」
異国語をそのまま帝国語で発音したたため、全く耳馴染みのない言葉を聞いたゼアリリューゼは首を傾げた。
恐らくあの道具を使うのであろうが――よく見れば、枝の尻にはふさふさの綿毛のようなものがついている――全く用途が想像できなかった。
こちらは客、言うまでもなくサービスはされる側なのでヨシュアがアレを使って何かしてくれるのだろうが、1,200年の経験値を以てしても全く理解が及ばぬ。
猫の血を汲む種族であれば、あやされれば喜んでじゃれつくやもしれないが、吸血鬼にそのような本能はないし、況してやそれを知らぬヨシュアでもなかろう。
こうなるとお手上げなので、永きを生きた彼女も世の中にはまだまだ自分が知らぬことが存在するのだなと降参した。
「これで耳を掃除するのです、ゼアリリューゼ様」
「み、耳を? 掃除?」
あまりに突飛な発想にゼアリリューゼは上擦った声を出してしまった。
さて、前世が日本人であるヨシュアにとって耳かきとは日常的な行為であり、快感を伴うソレであることを理解しているが、この世界の人間、いや、前世でも極東以外では外耳道を手入れするという行為は一般的ではなかった。
専ら痒い時に棒状の物で軽く擦るのが一般的で、溜まった老廃物を取り出そうという発想があるのは、変わったことに一部東アジアのにのみ習慣として根付いた風習である。
それに高位の種族となれば極めて高度な代謝能力、ないしは不死性によって老廃物など出ないのが普通だ。吸血種は後者によって冷や汗を掻くことはあれど垢などが分泌されることはないため、風呂など専ら煤や塵を払うため、ないしは温浴という一種の娯楽に過ぎない。
「その、ヨシュア、此の身は不死でね。清掃の必要は……」
「いえいえゼアリリューゼ様、耳かきとは奥深い物でして、ただ綺麗にすることだけが目的ではないのですよ」
斯様な種族のゼアリリューゼに耳かきの概念を説明しても上手く受け容れられるはずがないのだが、ヨシュアは巧みに気持ちが良いことであるとだけ説明して納得させた。
事実、外耳道には迷走神経が密集しており、ここを刺激されることは快感をもたらす作用が認められていて――中には咳が出る人もいるが――中毒になる者も珍しくない。それこそ弄りすぎて血が出る者もいるくらいだ。
「もしお嫌でしたら直ぐに止めますし、お代は勿論いただきません。どうです? ダマされたと思って試してみませんか?」
「き、君がそこまで言うなら信用しても良いけど……それは、ヒト種でも気持ちが良い物なのかい?」
「そうですねぇ、私にとっては無上の快楽に通じると言っても等しいかと」
かなり大仰にして過剰な物言いであったが、どうにもこの可愛らしい生物の主張を否定する気になれなかった吸血鬼は、それほどの行為なのかと唾を呑んでしまった。
「で、では、頼もうかな」
「畏まりました。では、こちらへどうぞ」
「ん?」
一体どんな気持ちよさを味わえるのかと期待したゼアリリューゼは、寝台にヨシュアが腰掛けたことに訝って首を傾げた。
そして、あろうことか彼は誘うように膝をポンポン叩いてみせるのだ。
……やはりエッチなお店では?
一瞬、何度か振り払った思考が甦ったゼアリリューゼに店主は微笑みかけながら、膝に頭を預けてくださいと言ったではないか。
エッチなお店だった!!
稲妻に打たれたように衝撃を受ける吸血鬼。
これはアレではなかろうか。艶本でたまに見られる〝膝に縋り付いて甘える〟という行為の名目で、専ら淫靡で淫らな行為の暗喩とされる高度な詩的表現ではなかろうか。
「そ、それはどういう……」
「そのまま、私の膝に頭を乗せていただくだけですよ。そうしないとお耳が見えないので」
エッチなお店じゃないのか……。
なるほど、親が子をあやすように、子が親に甘えるように行うそれの延長かと納得が行ったゼアリリューゼは、嬉しいような、残念なような、何とも自分の中で咀嚼し難い感情を抱えて寝台に歩み寄る。
だが、その足は腰を下ろそうとして止まってしまった。
「ゼアリリューゼ様?」
「そ、その……私が頭を乗せて平気なものなのかな? そんなに小さな足に」
ヨシュアとゼアリリューゼの体格差は身長だけを加味しても80cm以上。体積は高さに比して三乗ともなるため、乙女の秘密として具体的な数値は出さないが、重量はヨシュアのそれを軽く上回る。
そんな重みをこんな柔らかそうでほっそりした膝に乗せては折れてしまうのではと、心から心配になったのだが、店主は替わらず微笑んで膝を叩いている。
その誘惑に心配が負けたゼアリリューゼは、寝台に寝転んでおずおずと――多少の遠慮があったのか、顔は外側を向いていた――膝に頭を乗せた。
こ、これは……!!
服に覆われているため上品な肌触りの下にぷにぷにとした皮膚と皮下脂肪の柔らかさがあるのだが、鍛え上げられて固く寄り合わされた大腿筋の硬さを感じる得も言えぬ感触!
そこにヒト種特有の高い体温と、彼が微かに香る程度にふった香水の香りが合わさって、天上の雲にでも体を預けたのではないかと錯覚する心地よさが頭を打って、全身を貫いていく。
「ゼアリリューゼ様、余計な力が掛かっていますよ。もっと安心して身を委ねてください」
「あ、ああ……」
力を緩めて全身を預ければ言葉にもできぬ安らぎが去来し、思わず吸血鬼は片手を太股の上に添えていた。
この店を護っている何らかの力に弾かれないということは、ヨシュアがそれを受け容れてくれているということに喜びを感じていると、蕩け掛かった自我が更に熱されるような蠱惑的な現象が起きた。
「では、始めますね」
「ひぅ!?」
ヨシュアが耳元で囁いてきたのだ! そして、その直後、どこから取りだしたか分からないが、熱すぎない程度に温められた濡れタオルが耳の縁をなぞるように拭った。
これには溜まらず甲高い声を漏らしてしまう古き吸血鬼。
今の声は誰が? 自分が? 馬鹿なと冷静な官僚の部分が驚愕するが、体の芯から力が抜けきって最早抵抗する気も湧いてこぬ。そのままなすがままに耳の縁のみならず裏側、そして繊細に襞まで丁寧に清掃されるたびに体が跳ねた。
「では、本番行きますね。危ないから動かないようにしていただければと」
「わ、わかったぁ……」
耳を優しく拭われるだけでこれなのに、まだ序の口だというのかと戦慄するゼアリリューゼ。動くなと言われても、体が跳ねないようにするのは本能的に困難だと悟った彼女は、術法を自らにかけて動かないよう固定する。
かり……。
「んぅ……!?」
「ああ、やはりお綺麗な耳ですね」
耳かきが振れるか振れないかの繊細なタッチで外耳道を一撫ですると、ゼアリリューゼは口を押さえるのが一瞬遅れて、また妙な声を出してしまった。
ちょっと待ってくれと制止する暇もなく、耳かきはありもしない垢を求めて優しく這い回る。
かり、かりかり、かり。
その心地は体がぞわぞわするような、脳味噌が蕩けて眠りに誘われるような名状しがたき物であり、体から全ての力が液体になって流れ落ちていくような感覚を味わった。
これはヨシュアが無上の快楽と呼ぶのも頷ける。
吸血行為とも異なる、味わったことのない気持ちよさに身を任せることにした欲望は止めどなく、体は既に脱力しきって膝に全体重を預けていた。
だがヨシュアはそれを慈母の如き微笑みで受け止めて、傷みを感じさせない浅い領域を身長に撫でていく。
「あ、ああ……あー……」
ふさふさした部分が突き込まれた時には、根っこから虚脱した声が次々と口の端から溢れ出していき――涎が出るのだけは貴種の意地にて辛うじて堪えた――波のように襲い来る快感は無限のように感じられるが、一瞬のようでもあって、自分がくしゃくしゃに丸められた後に広げられたかのような倒錯した錯覚の海に溺れる。
この世にこんな快感があったのかと、これが拷問であったら耐えられただろうかと考え始めた頃、不意に永劫のように思えた快感の波はぷつりと止んだ。
「はい、ここまでです」
「え? あ、そんな……」
「外耳道は繊細ですから、あまり弄りすぎては傷付いてしまいますから」
無上にも快楽を打ちきったとは信じられない笑顔を湛え、ヨシュアはタオルで耳かきを拭うと、もうお終いだと宣言してしまった。
いやだ、もっと、そう無意識に求めて膝を掴んでいた手に力が入るが、彼女は忘れているのだろうか。
耳は二つあることを。
「では、逆さを向いてください。左耳もやりましょう」
「左……耳……」
そのことを思い出さされたゼアリリューゼであったが、ふと辛うじて、ほんとティースプーン一本分くらい残っていた正気の部分が囁いた。
外を向いてやっていてコレなのに、あのほっそいお腹に顔を、いや、角度的に股にも埋められる姿勢でやったらどうなってしまうんだろう? と。
「い、いや、ここまでにしておこう……私には刺激が強すぎた……」
「そうですか? 残念です。何か不手際がございましたか?」
心配そうに問うてくる店主に君は何も悪くない、至福の一時だったと留め、起き上がったゼアリリューゼは脳味噌が半分天界に飛んでいる状態で言った。
「で、このサービスは
「百デナリオンですよ!? 五千タラントンって騎士の年俸くらいあるじゃないですか!!」
いやだが、この悦楽に金貨をこれくらい積まねば割りには合うまいと小切手を取り出そうとするゼアリリューゼを宥めるのに、ヨシュアは万言と半刻ほどの手間を要したという…………。