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第13話 報酬と奉仕

 報酬の支払いにおいて、私は儲けている自覚があるので――何せ二時間で大卒平均月収並の席料だ――従業員に惜しむつもりは全くないのだが、如何せん〝これが給金です〟と言われても些か納得が行かない部分がある。


 「ああ、マスターのお手……本当につやつやしておいでです」


 「君には負けると思うんだけどね」


 硝子の瓶や酒杯、茶器を曇らせぬよう常に身に付けている白い革手袋を脱いだ手を、グルゼフォーンが美術品でも持つような慎重さで包んでいた。


 形を確かめたいのか細く陶器めいた艶のある指が撫でさする度、背筋がぞわりとする官能的な甘い痺れが走るのは、振れるか振れないかのソフトタッチが幾度も往復するからであろう。


 声を出さないよう我慢していると、彼女はようやく満足したのか、例の不思議なスーツケースから幾つもの道具を取りだした。


 「では、失礼いたしますね」


 「任せるよ」


 用意されたのはネイルケア用具の一式だ。上品な象牙の持ち手が備わった爪用の鑢は、貴人に使うために作られた物であると一目で分かるので成機大陸製ではなかろう。


 まったく、この子はまたお給金で私のための道具を買ったな。少しは自分のために使えばよかろうに。


 顔が手にじぃっと寄せられ、カメラアイが収縮しているのは爪の寸法を具に測っているからだろうか。やがてデータの収集が終わったらしい彼女は、最も目が粗い大きな鑢を人差し指の爪に当てると丁寧に往復させ始める。


 懐紙の上に研磨された爪の粉が落ちていき、少しだけ伸びつつあった爪がジワジワと短くなる。細かな動きは正しく機械の如く正確で忙しないのに、鑢が皮膚に触れて不快な痛みを伝えてくることは一切なかった。


 鑢が指から離れると、私も測距術法で測ってみれば、爪は丁度3mmの長さに整えられていた。日常生活に不便することはないが、清潔感ある完璧な短さ。人の肌に触れても爪の感覚を伝えないだろう深爪寸前の調整は、流石アンドロニアンというべきか。


 残りの手指も丁寧に鑢をかけられて同じ長さに整えるに留まらず、彼女は次の鑢を手に取った。


 目が細かい、爪の触感を優しくするための物だ。これより更に細かな仕上げ用が一本残っているので、爪は更に滑らかに、一切の引っかかりがなく整えられるのだろうけども、貴族の婦女でもあるまいに、ここまでやる必要は果たしてあるのか。


 まぁ、グルゼフォーンが楽しそうだから構わないのだけどね。


 「長さを整え終えました」


 「ありがとう」


 「次は甘皮の処理に入ります」


 これまた何処かの大店で仕入れてきた上品な小瓶を持ち出すと、彼女は丁寧に爪に刷毛で塗っていく。爪の表面にある薄い皮、古くなった甘皮を痛みなく剥がすためのリムーバーであろう。


 馴染むまでの数分間、彼女は私に暇をさせることがないよう、爪の表面に触れぬ繊細なハンドマッサージを始めた。


 「あー……効くね」


 「マスターは細かな手仕事が多いですから、手の筋肉に疲労が蓄積しがちかと」


 繊細な指が筋繊維をぎゅっぎゅと揉みほぐしてくれるのが気持ちよくて、椅子の背に預ける背中が無意識に沈み込んだ。肘あたりまでじーんとする感覚が伝わると同時、掌が温もって疲労が抜けて行くのが体感できる。


 気持ちが良いと浸っていると時間はあっと言う間に過ぎていき、次いでグルゼフォーンはぬるま湯を張った洗面桶を用意した。


 そこで更に爪を柔らかくし、甘皮を剥がしやすくするのだ。


 湯の中でもハンドマッサージは続けられ、指先から体全体がぽかぽかしていく気持ちよさを堪能していると、いつの間にやら甘皮の処理は終わっていた。見れば、自分の指はマニキュアを塗った訳でもないのに上品な桜色に染まり、照明を反射して艶々と輝いているではないか。


 桜貝のように綺麗に整った爪を見て、男の無骨な物でも気合いをいれればここまで行くのだなぁと感心していれば、まだですと手を掴まれた。


 優しく湯を拭った後、また幾つか小瓶が用意される。


 「それは?」


 「爪用の保湿剤とハンドクリームです。マスターは御菓子を手作りなさるので、マニキュアはお嫌いかと思い、せめて保湿だけでもと」


 「男の手にそこまでする必要はないと思うんだけどね」


 「そんなことはありません。マスターの可愛らしい手にあかぎれができてしまった日には、当機は悔しくて自裁してしまうやもしれませぬ」


 「最低限の保護術法は使っているから、そんなことにはならないよ」


 とはいえ、一日二時間、彼女がやりたいという奉仕につき合うのも報酬の内だ。私はやりたいようにやらせてやることにした。


 ……しかし、なんだ。グルゼフォーンは自分の手に塗り広げたハンドクリームを、まるで恋人繋ぎでもするように塗り広げてくるから、ちょっと色々と精神的にクるものがあるな。鉄面皮のセメント美女が、こうやって一心に奉仕してくれているというのは、得も言えぬ満足感がある。


 皮膚にクリームが吸収されて、気持ち悪いベトベトした触感がサラサラの気持ちよい感覚に変わるまでの数分間、奇妙な葛藤、そして心地よさと戦いながら過ごした私は「仕上がりました」の一言でやっと心が落ち着いた。


 いかんね、耐性を付けているつもりであっても、こうも美しい存在と至近距離で接しているとドキドキしてしまう。


 やっぱりこれ、ヒト種が減ったの私達も悪いって。確かに異種族には整った人の方が多いけど、どうせ堪え性がなくて自分から飼われにいったヤツが一杯いたんじゃなかろうか。


 それこそ前世の私だったら、わーいと諸手を挙げて何もかもをグルゼフォーンの好きにさせていたぞ。


 内心で胸を撫で下ろしながら、乙女も羨むに艶々でぷにぷにになった手に手袋を身に付けながら立ち上がろうとすると、彼女はまだですといって押し止めてきた。


 「は? え、ちょっと」


 「爪は全部で20枚あるのですよマスター」


 また座らされたかと思うと、グルゼフォーンは私の足を取って半長靴の紐を緩めて引っこ抜き、靴下を脱がせて素足を空気に晒した。


 「いや、そこは自分でやるから!」


 「いけません。足の指は特に手入れに気を付けなければ、巻き爪や肥厚爪になってしまうのですから。マスターは身綺麗にしていらっしゃるので心配はないと思いますが、水虫の可能性も摘み取っておかねばなりません」


 柔らかで弾力のある、しかしひんやりと冷たい膝に足を載せられている蠱惑的な感触。それと同時に人から触られることのない足に振れられている感覚に背中が粟立った。


 気持ちいいのとこそばゆいの、それと恥ずかしいのが混じり合って止めて欲しい。


 「ぐ、グルゼフォーン!」


 「ああ、やはり……マスターは立ち仕事が長すぎて、少し巻き爪になっていますね……矯正してさしあげなければ」


 爪切りと、爪用の彫刻刀めいた器機を取りだした彼女の顔は、微動だにしていないように見えて、反面私には嬉々としているように思えた。


 仕え甲斐のある部分を見つけた時の顔なのだ。


 「ひゃっ、くすぐった……」


 「我慢してください、マスター。御身の健康がためでございます」


 「んっ……足の裏には、あまり触らないで…………」


 「安定のためです」


 両のムチムチした太股に挟まれると足の裏が柔らかく刺激されて、くすぐったいのと同時に妙な気分になるから困る。術法的に〝清い身〟でいた方が便利な私は、何と言うか今生では〝そういうこと〟を一切してこなかったから、抵抗力がないのだ。


 そこをこんな完璧な美人の太股に足で触れるなんて背徳的なことをさせられたら……。


 手より太い爪がパチンパチンと爪切りで斬り落とされ、皮膚に嵌入した余計な爪が刮がれていくのは痛くはないがこそばゆく、同時に面映ゆい。体の中でも汚い部分を余人に任せている恥ずかしさや、足だけとはいえ女体の柔らかさに溺れているのが何とも精神を擽ってくるのだ。


 早く済んでくれという懊悩を余所に、あくまでグルゼフォーンの手付きは慎重で、間違っても痛みを与えることあがってはならぬというように緩やかだった。


 「ん……あっ……」


 「マスター、どうかおたえください」


 分かっている、分かっているんだけども……。


 今まででもっとも永く感じる報酬の時間が終わった後、私は心の平静を取り戻すために四半刻ばかし瞑想が必要になった…………。



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