自分で予約したにも拘わらず、また来てしまったとHaven of Restの前に立ちながら、ゼアリリューゼは扉を見つめて硬い唾を呑んだ。
そして、術法を練って自身の健全性を確認する。
精神的汚染ナシ。肉体的干渉ナシ。因果律を操作するような術法、ナシ。
普段ならば自分が全く以て健康なことに喜びを覚えて然るべきなのであるが、ゼアリリューゼは、やはりこれは純然たる自分の意志なのかと軽い絶望を覚えた。
自分は堕落した。堕してしまったと、貴種にして鋼の官僚である自尊心に小さな罅が入ったのだ。
どうしようか、無礼なのは分かっているが予約を無視して帰ってしまおうかなどと、自分の矜恃と暫く戦っていた吸血鬼の貴族であるが、その葛藤と覚悟は容易く打ち砕かれてしまった。
「ゼアリリューゼ様! よくいらしてくださいました!」
扉の前に気配があることを察知したのであろう。ヨシュアが満面の笑顔を浮かべて扉を開いたのだ。大型の種族に向けて大きく作られた扉を開けるべく、足をぴんと伸ばして高い位置にあるドアノブを捻る姿は、子供が頑張って背伸びをしているような得も言えぬ愛らしさを暴力的なまでに叩き付けてきた。
何よりも、この純粋な、自分が訪ねて来てくれたことを喜ぶ笑顔だ。これを浴びただけで、ゼアリリューゼの矜恃も覚悟も何もかもが駄目になってしまった。
「はうっ」
かっ、かわいい。思考はその一つに支配され、手指がわなわなと無意識に震える。
「今宵もHaven of Restをお尋ねいただき、真に嬉しく存じます。私めと楽しい時間をお過ごしいただけるよう、誠心誠意お仕えいたしますね」
そして、ヨシュアが扉を全開にして慇懃に礼をし、エスコートのために手を差し伸べると、心の城壁は一発で粉砕されて無意識に手を取ってしまっていた。それから幽鬼の如く定まらぬ足取りで空いた席に通され――何らかの結界が働いているのか、人の気配がある隣席は衝立もないのに見えないようになっていた――椅子を引かれると、もうそれだけで腰が砕けたように着座してしまう。
そして、笑顔で椅子を押したヨシュアは足音を立てない、そして下品にならない程度の小走りでカウンターの向こうに立つと、ベストのポケットから銀時計を取りだして竜頭を押した。
術法が練られる気配。ただ訪れた時間を確認する以上の仕草に蕩けていた脳味噌が再起動した。
彼女は十世紀以上生きてきた吸血鬼なのだ。間近で発動する術法には敏感で、自分を害する物でなくとも繊細に反応する。
そうしなければ生きてこられなかったのもあるが、一時は研究家でもあった本能がそうさせるのだ。
「今のは……」
「あれ? お分かりになりましたか?」
参ったな、と言わんばかりに頬を掻くヨシュアに――一々仕草が可愛らしくて気が散る――惑わされながらも、ゼアリリューゼは術法の名残を〝視て〟推察を立てた。
「時空間術式? 一体何を」
「ゼアリリューゼ様に隠し事はできないようですね。では、秘密ですよ?」
お耳を拝借したく、と願われて、彼女は自然と間合いを詰めていた。そして耳元で吐息が聞こえることに全身が粟立つような心地よさとゾクゾクした感覚を覚えながら、聞かされた内容に戦慄する。
「固有時制御術法です」
「固有時……半遺失技術ではないか!」
とんでもない単語に思わず驚いて身を引いた彼女は、大声を上げてしまったことを恥じて周りを見回すが、誰も声に反応した様子はない。
ここは高級会員制カフェ。会員の個人情報と店主のやり取りは完全に秘匿される。店を護る人工神格が結界を張り、声も物音も、姿までも隣の席に漏れぬようにしているのだ。
「そんな大層なものではありませんよ。世界の時間を弄っている訳ではありません。あくまで〝私自身の時間〟を時間軸から一時的に切り離しているんです」
「だとしても大それた物を……そんな術法具、一体どこで……」
「お客様に自慢話をするのもなんですが、私、こう見えてちゃんとした学校を出ておりまして」
言ってヨシュアは襟元を軽く緩め――何気ない仕草は酷く淫靡であった――首に吊してある一つの護符を引っ張り出した。
「大竜骸の学院紋! 三牙輪に竜鱗と竜眼……博士か、君は!」
「はい、いやしくも博士位をいただいております」
誇るように卒業生のみが身に付けることを許される、それも学位取得者以上でなければ授与されない証を揺らすヨシュアにゼアリリューゼは、人の身でその位階に辿り着いたのかと驚愕させられた。
「つまり、固有時制御は自前の術法だと?」
「仰る通りです。この時計は私の半身に近しいものですが、単なる術法中枢であって道具頼りではないのですよ」
血の一滴、緋茶に垂らされた僅かな血液だけで、あれほど芳醇な生命のエッセンスを感じたのもこれで得心が行く。
大竜骸の学院は学士位であれば竜鱗紋の簡素な飾りが、修士となればそれを飾る三本の牙が描く三角形の輪が。そして最高位たる博士位ともなれば竜眼の紋を刻むことが許されるのだが、中央大陸で最も高名な術法研究の学び舎だけあって詐称することは不可能なほどに防護術法が働いている。
つまり、下手をすると内務省に現役で合格するより難しい困難を達成したエリートが従僕服を着ていることに吸血種は純粋に驚いた。
何故こんなことを。それだけの地位があるならば、店などやらずとも欲しい物が何でも手に入るであろうに。これだけの身分ならば
いやさ、希少極まるヒト種というだけで十分過ぎるというのに、更なる付加価値を付けてどうするというのか。
「何故、そのような経歴で店を……」
「そこは秘めたる小さな野望、ということで」
立てた人差し指を唇に添える、これまた可愛らしい仕草を見せられれば、これ以上の追求は不可能だった。
ともあれ、確実なのは目の前に立っているのが卓越した術師であること。
そして、固有時間、絶えず流れる時間軸の中で認識も把握も困難なそれを捕まえて発動する術法と言えば……。
「では、君は……」
「同じ時間に併存することができます。といっても、意識は一つで、同じ時間を繰り返している感覚なんですけどね」
凄まじいまでの技術にゼアリリューゼは術師として舌を巻かされる思いであった。
時間を捕まえるのは本当に難しいことなのだ。花一輪の時を止めるだけでも困難だというのに、生きている人間が時間の流れから自分を一時的に切り離し、そこを支点に併存することができるなど、理論上可能であることは論文を読んで知っていても俄には信じがたい。
いや、だからこその四組までの予約制度なのだろう。
今、隔絶された隣の席では、少し前に時間を切り離したヨシュアが同じように接客をしているのだと悟り、同時に一つの真理に辿り着く。
「待て、つまり」
「ええ、私の今流れている時間は全てゼアリリューゼ様の御為に。今だけは貴女だけの私、というわけです」
その言葉に貴種は落雷に打たれたような衝撃を覚えた。
自分だけの、自分だけのために流れる彼の時間!
ああ、何と甘美で贅沢なことであろう。ただ閉じ込めて独占するのではなく、ヨシュアが進んで自分の時間を切り取って差しだしてくれているのだ。こんなもの、一刻五〇デナリオンでも安いどころの話ではない! その十倍、五十倍でも割に合う尊いものであろうに!
「私だけの……君か」
「はい、そうです、ゼアリリューゼ様」
にっこりと微笑んだヨシュアは、そっと体を離して体の前に手を添え、小さく頭を下げる。
ですので、お時間いっぱい、どうかご堪能くださいましと。
「そうか、そうか…………」
「まず、お茶は如何でしょう。今日は苺とオレンジの良い物が入っているので、フルーツティーなどお洒落で良いと思うのですが」
「じゃあ、貰おうか」
まだ体に甘い痺れを覚えたまま、ゼアリリューゼは言われるがままに注文をした。普通の茶より何倍も手が掛かるから、値段も数倍になると忠告されても金なんぞ全く惜しくないと頷いて。
沸騰寸前の湯で緋茶を煎れ、透き通ったガラスのポットには上品な飾り切りが施された果物の群れ。十分に余熱されているポットに茶が注がれると、熱と共に色とりどりの果物が躍るように揺れ、その果汁が緋茶に移って得も言えぬ甘く酸味のある芳香を華開かせた。
「……あ、そ、それとヨシュア、その…………」
「はい、弁えておりますよ」
震える言葉、最早哀願に近いそれを聞き届けたヒト種は笑顔で真っ白な手袋のボタンを外し、まるで見せ付けるように口で脱ぎ捨てながら小さな術法の針を用意する。
ぽたりと垂れる真っ赤な生命の雫。
今宵も鋼の令嬢は、ただただ自分がドロドロに溶けて堕ちていくのを舌上から滑り落ちていく緋茶の味から感じるのであった。
そして実感する。
堕落とは、斯くも甘く心地好いのかと…………。