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第11話 堕落のススメ

 ゼアリリューゼ・オッペンハイム=キャリフォニア=ワシントニアは、1,200年に渡る人生の中で数えるほどしかない、公務中であるというのに気もそぞろという心地を味わっていた。


 昨夜のめくるめく恍惚の半刻は、果たして本当に現実であったのか。


 室長席に座って淀みなく書類を裁き、ARデバイスに届く短波術法通信に眼を通しながらも、どこかぼんやりした気持ちを拭えずにいた。


 あの緋茶。アルブレヒトの子ヨシュアが饗する一滴の血が垂らされた茶の味は格別で、今も舌上に濃密な味が残っているような錯覚をするほどだ。


 試しに舌を蠢かせて、口蓋を舐めてみても伝わるのはざらりとした口腔のひだと尖った牙ばかり。得も言えぬ濃密な生気と法力、そして〝魂〟の味は伝わってこなかった。


 「…………」


 やはり多忙過ぎて夢でも見たか、政敵から幻覚術法の攻撃を受けたのではなかろうかと、ゼアリリューゼは机を探って名刺を整理しているフリをしながらショップカードを探る。


 よくあることなのだ。彼女くらいの権力者ともなるとハニートラップも高度になってきて、あれやこれやと手法を捻りに捻り、よくぞここまで考えたものだと、逆に褒めてやりたくなるくらい手の込んだネタが涌いてくることも珍しくないのだから。


 だが、やはりある。真っ白で汚れのない余計な装飾が施されぬ紙に流暢な筆記体でHaven of Restと描かれた、強力な術法が籠もった一枚が。


 結局、あの晩は夢見心地で一刻楽しんだだけで、緊急の呼び出しが入ってしまったので紅茶を一杯味わうだけの時間しかなかったのだが、人生で味わったことのない蕩けるように甘い一時が過ぎたことだけは覚えている。


 「もう行ってしまわれるのですか? 寂しいですが、仕方ありませんね」


 そう送り出された時は、後ろ髪が全部引きちぎられそうな思いであったが、公人としてのプライドが辛うじて自分を支えてくれた。


 「……そういえば、アレもよかったな」


 ぽつりと呟き、去り際にしてくれたさりげない見送りにもゼアリリューゼは悦びを覚えたことを思い出す。


 うんと背を伸ばして外套を着させてくれた仕草のカワイさは言うまでもないが、その後、懐からオイル式の発火具を取りだして二度打ち鳴らしてくれたのだ。


 ちぃんと澄んだ音は、太古より続く厄除けの護法が現代に至って変質していったもので、昔は燧石で行っていた。その時代を生きていたこともあるゼアリリューゼからすると、昔が懐かしくなるのと同時、自分の出立を心から按じてくれていると思えて心が温かくなったのである。


 頭から端まで気遣いと優しさ、そして可愛さが詰まったような生物との一時に、また思いを馳せてしまった彼女はいかんいかんと頭を振って決済に戻る。


 仕事とは、ただ機械的に判子を突いて回れば終わる行為ではない。自分より上から降ってきた物でも無為に賛同するのではなく、瑕疵があれば容赦なく突っ返す。自分を除いて既に二人がチェックしていようとも、訂正すべき場所があれば差し戻す。


 メンツを慮る必要はあるにせよ、何事も完璧に熟さねばならないのが官僚という生物だ。見通しが立ちそうもない、見栄えだけは良い箱物を建てる案件に対して迂遠に中指を立てながら、こういう頭の悪い私欲混じりの公務を上げてくる馬鹿が減れば、もっと簡単に時間を作れるのにとゼアリリューゼは無意識に溜息を吐いていた。


 そして思う。自分は今、何を考えたのかと。


 貴族が広く愛好する狩猟や庭球テニス孔球ゴルフはゼアリリューゼにとってマナーや技術に過ぎず、斯様な物のために仕事をさっさと終わらせて時間を作りたいなどと宣う連中の言うことが今まで分からなかった。


 しかし、今まさか、自分はその理解不能だと思っていた連中と同じことを考えてしまっていたのかと。


 休憩など、労働効率を上げるための一時休止に過ぎないと思っていた己が?


 非定命の時間感覚と物の尺度は大きく違う。特に古い吸血鬼は実質的な不死であり、同時に時間によって積み上げてきた莫大な富が立場をも高くすることもあり、極端に享楽的な生き方を望むか、強固な目的意識の塊となって自己が希薄化するかの二択化が激しい。


 官僚でもあり、前帝国時代からの貴族でもあるゼアリリューゼは後者の個体として、それが特に顕著であった。


 物心ついた時から自分が生きるために民を食わせてやっていかねばならず、必要とあらば最前線に立って民兵を鼓舞して死兵に変え、いっそ無情なまでに敵国を必要に応じて荒らしてきた彼女は正しく義務感の結晶とでも呼ぶが相応しい生き方をしてきた。


 それが始めて、自分の享楽のために時間を捻出しようとしたのだ。


 これは余人には気付けない、それでいて中々凄まじい変化である。


 一瞬落ち着こう。そう思ってARデバイスを外した手は、間近で観察せねば分からない程度に震えていた。


 辛うじて音を立てぬよう執務机にバイザーを置いたゼアリリューゼの血色をした瞳は、Haven of Restを紹介し、今は外務がやらかしたポカの尻拭いで出張に出ているウィルウィエイラの主人不在な机に向いた。


 あの小娘、よく考えもせず凄絶な劇薬を盛ってくれたものだと。


 完璧主義者でもあるゼアリリューゼは自分に弱点があることが我慢ならない。


 斯様な性分であるからこそ前帝国崩壊時のゴタゴタに呑み込まれず名門の貴族であり続けることができ、内務省での重要ポストに就けているのだから当然とも言えるのだが、徹底的に悪徳から遠ざかり汚職に耽ることがなかったが故に政敵に攻め手を打たせ難くしていたのも決め手の一つであった。


 だが、だがだ、そんな彼女が路地裏の怪しい店に足繁く通っていると噂になればどうだろう。火のない所に煙は立たないなどと人は言うが、それは嘘だ。火を付けたいヤツは態々油を撒いてでも煙を立てる。


 つまり、これは自分の大いなる弱点となりうる。


 冷静な部分の思考が、さっさと破いて棄てろと叫びを上げる。


 しかし。


 「是非、またお目にかかりたく存じます。いつでもお待ちしていますね」


 そう健気に笑う、自分の胸元までしか上背のない、小さくて儚い、何ともポワポワして可愛い生命体からの懇願が脳髄から消えなかった。


 二度、三度とショップカードを握る手に力を込めようとするが、ちっぽけな紙切れ一枚が何故か破れない。ゼアリリューゼの力であれば、それが術法鍛造した上で堅牢化、靱性強化の術法を施した大楯であろうとねじ切れるのに、今はヨシュアとの唯一の形になったつながりであると思うと当たり前のことに失敗し続けてしまう。


 彼女は数分、机の下で誰にも見られないようにしつつ格闘したが、やがて諦めた。


 この形容しがたい、自分でも納得のいかぬ感情と無理に戦っても、今は答えなど出まいと。


 そして、心の穏やかならざる部分が嘯くのだ。


 あの店に通いさえすれば分かるかもしれないと。


 合理的だろう? 間違ってはいるまい? と心の弱い部分が自分を納得させようとしてあげる囁きに負けた彼女は、時刻が良いこともあって昼食を摂ってくると部屋を後にした。


 それから携帯用の術法伝声機を取りだし――この大きさのそれは、国家機密の塊であるため本来軽々に使って良いものではない――ショップカードの裏に記してあった番号をプッシュしていた。


 『はい、Haven of Restでございます』


 「……昨日訪ねたゼアリリューゼだが」


 少しの期待を裏切って、僅か一コールで取り上げられた伝声術法の向こうで、無機質なアンドロニアンの声が響く。


 「その、あー……予約をお願いしたいのだが。今晩」


 『今晩でございますね。少々お待ちを……』


 何か確認しているのか暫しの沈黙の後、申し訳なさそうに――少なくとも、そう聞こえるように装って――機械仕掛けの侍女は、既に三件の予約が入っていると言った。


 「では、次に空いている日は……」


 『いえ、ワシントニア様。当店は少々特殊な予約制を取っておりまして、予約権さえご購入いただければお時間を問わず、我が主と楽しい一時を過ごしていただくことが可能です』


 侍女の提案にゼアリリューゼは首を傾げた。確かにあの店には複数人を歓待することができるスペースがあったが、店主は一人きりのはずだ。そして、忙しく目の前をパタパタと往き来して、流れ作業の如く応対するような無礼はするまい。


 であるならば、同じ夜に予約が取れる道理はどうなっているのか。


 「ん? だが、彼は彼一人だろう」


 『そこは企業秘密でございますが、通常予約権、かけることの既存人数でご予約が可能です。最大四枠までで、残り一枠となりますので決断はお急ぎいただいた方がよいかと存じますが、如何いたしましょう』


 「……では、お願いしよう」


 『承知いたしました。では、心よりお待ち申し上げております』


 理屈が気になったが、それ以上に国家的に重要な術法具を至極個人的な通話に使い――別にゼアリリューゼの私物でもあるから問題ないといえばないのだが――挙げ句の果てに上乗せ料金まで払って予約?


 これは果たして本当に自分がやった所業なのかと苦悩しつつ、人気のない中庭の壁に背を預け小さく呟く。


 やってしまったと…………。



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