いよいよ開店日を明日に控えて、大変興奮してきた。普段より一時間も早く起床してしまうくらい。
「マスター、おはようございます。お身繕いにあがりました」
「ああ、よろしく頼むよ」
ワクワクしつつ自室で朝仕度を始めようとしていると、音もなく扉を開けてグルゼフォーンがやってきた。もう仕え始めた翌日からこの調子なので、流石に慣れた、というより諦めてきた。
いやだって、断ると凄く悲しそうな顔をするんだよ。仕方がないじゃないか。
自然に受け容れられたのが嬉しそうな彼女の手には、店に訪れた時から携えていた大型で革張りという、妙に古風なトランクケースが握られている。
あれには様々な道具が入っていることを、私は我が身を以て体験済みである。
「では、お顔から失礼いたします」
トランクが開くと中は何らかの未来技術が使われているのか、底なしの闇が広がっているように見えて酷く不気味だ。侍女の指が沈み込むと、洗面桶とタオル、そしてシャワーノズルが生えてくるのが原理不明過ぎてちょっと怖い。
洗面桶に湯を張った彼女は、私の顔を優しく湯で濡らしたタオルで拭った後、帝都の大店で見かけたことのある高級そうな洗顔料を掌に塗り広げ――またお給金で私の物を買ったな、この子は……――髪に当たらぬよう丁寧に丁寧に塗り込んだ後、汚れが十分に浮いたことを確認して洗い流してくれる。
そして、また何処かで買い求めてきた、如何にもお高そうな蜂蜜の香りがする化粧水を掌に取ると、そのまま頬を優しく包み込んできた。
私のイメージではパンパンとはたき込む物なのだが、どうやらそれは肌にダメージがあるようで、人肌でじんわりと塗り込むのが一番良いらしい。十分ほどかけて丁寧に化粧水で肌を保湿されたあと、更に美肌クリームまで塗り込まれてつやっつやになった私の顔は、自分で触っても心地好いくらいもちもちであった。
野郎の面がここまで触り心地がよくても仕方ないと思うのだが、従僕が楽しそうなら仕方ないか。
「しかし、マスターはお髭がお生えにならないですね」
「ああ、探索者時代にいいものを貰ってね」
見るかい? と少しテンションを上げながら問うと、グルゼフォーンは首肯したので、身繕い用の三面鏡にしまってあったとっておきの逸品を手に取った。
「ふふふ、どうだい。西方大陸の神工が打った剃刀だ。概念付与がしてあって、髭が生えるのを阻害する力を持っているから、半年に一度そればいいんだよ」
「それはよい品を手に入れられましたねマスター」
あれ? 言葉尻では褒めてくれているのだけど、ほんの僅かに表情が険しいのはあれだろうか。ひげ剃りもしたかったのかな?
でも私、肌が弱い方だからあんまり毎日はやりたくないんだよな。丁寧にケアしてもヒリヒリしちゃうから。
そんなことを考えている間に手入れは髪に移り、これまた高額そうな洗い流さないリンスミストが吹きかけられ、櫛が三段階に分けて通されていく。目の粗い大雑把に形を整える櫛、普通くらいの抜け毛を取り払う櫛、そして艶を出すための眼の細かな櫛と野郎の髪にするには過剰な手入れを黙って受け容れた。
「マスターの御髪は長いし綺麗でございますね」
「術法的な意味があってね。使い勝手がいいのさ」
「術法ですか。成機大陸では使われないので、当機にはさっぱりでございます」
私が髪を鬱陶しいくらいのロン毛にしているのには訳がある。術法的に触媒になったり、デコイに使えたりと大変便利な上、〝鋏を入れたことのない髪〟は妖精や精霊系の種族にとって黄金にも等しい価値があるようで、色んな交渉の種に便利なのだ。
なので、私は髪の毛を手入れするときは、よく研いだ黒曜石のナイフで削ぐように梳くことにしている。これは父から教わったことで、彼は困った時に専ら妖精や精霊の助けを受けて世俗から隠れていたようだ。
そういえば、私の人生を成立させている〝無貌の仮面〟も、遠い祖先が〝妖精女王〟とやらから貰った品だったな。私を産んで死んでしまった母と出会うまで、沢山助けて貰ったと懐かしげに語っていた父のことを今になって思えば、私の血筋には術法とは違う才能があったのかもしれない。
祈祷術、精霊術と呼ばれる概念的上位存在に希って超常現象を引き起こす技は、術法全盛の中央大陸ではマイナーな技術だ。祈る存在の気分次第で出力が変わる上、技術として体系化が難しいとかで好かれなかったようだが……依怙贔屓を受けられれば強力であることに違いはない。
やはり父は偉大だったのだなぁと感慨に耽っていると、髪の毛の手入れが済み、丁寧に襟足のあたりで組紐を使い優しく結わえられたのが分かった。
「お着替えを失礼いたします」
「そこまでしてくれなくていいんだってば」
こればかりは恥ずかしいので、どれだけ当人がやりたがっても背中をぐいぐい押して部屋から追い出し――くそっ、術法で出力を最大にしても重いとかどんだけ非力なんだヒト種は――ようやっと落ち着いて着替えができた。
「よし、今日も完璧」
皺一つない従僕服を身に纏い、精神感応系の術法から身を守るための片眼鏡を装着。そしてベストのポケットに中枢術具である、自らの術法的な片割れに近い銀時計を仕舞い込み、ベルトにチェーンで留めている。
これで高級会員制カフェの店主に相応しい、落ち着いて威厳あるナリになったはずだ。
私は一人満足し、一階の店舗スペースに降りると明日の開店準備に備えてグルゼフォーンと一緒に最終チェックを行った。
グラス、茶器、酒類の瓶は完璧に並んでおり、設置してある家具の角度も完璧に鋭角。板張りの床にはワックスをかけ直してピッカピカに光るまで掃除してあって、吊してあるシャンデリアは照明一つ一つを手作業で磨き上げたので曇り一つない。
うんうん、我が城は今日もケチの付けようがないお洒落喫茶店だ。前世で祖父から引き継いだ時のような、時間だけが醸し出せる独得の〝味〟はないけれど、高級志向の上品さは十分に醸し出せていることだろう。
出来映えに納得していると、勝手口のドアノッカーが鳴らされた。少し乱暴な仕草のそれは、仕入業者が時間通りにやって来た報せだ。
「マスター」
「いや、私が行くよ。大事な開店初日の仕入だ。品質は信頼しているけど、ちゃんと自分で見ておきたいからね」
グルゼフォーンに断って勝手口に行くと、そこには幾つかの木箱を足下に置いた長身の異種族が立っていた。
「どうも、こんにちは。時間通りですね」
「よぉ、どうした。今日も可愛いな」
上背が2.3mばかしある長身の全身が白と銀の被毛に覆われ、伸びた口吻と尖った耳が特徴の彼女はカニスィアンと呼ばれる犬科の人類だ。凜々しい顔付きに眼を縁取る黒い毛がハスキー犬を思わせる姿は、少しおっかないがつき合ってみればとても優しい女性なのでもう慣れた。
帝国の服飾文化に馴染むためにホットパンツのようなズボンと、胸の前で編み上げるチューブトップめいた上衣を着た彼女の名はデイジー。ここから少し離れた一般人向けの朝市で店を出している商店の長女で、宅配担当なのもあって懇意にさせてもらっている。
「注文通り、林檎一箱、苺一箱に檸檬一箱、それと香草詰め合わせだ」
今日運んできてくれたのは大量の林檎と檸檬、そしてハーブティーや御菓子に使う香草類。どれも艶々と見栄えがよく、痛んでいる物は一つも見当たらない。季節外れの品もあるけれど、温室がある営業先から仕入れてきてくれるのが本当に助かるよ。前世みたいにスーパーに行けば、真冬でも苺が売っているような便利な世界ではないからなぁ。
「ああ、どれも良い品だ。朝摘みですね」
「ウチのは新鮮さが売りだからな」
一つ手に取って鼻を寄せれば皮を剥いてもいないのに爽やかな匂いがして、林檎の甘さが想像できるようだった。一等良いのをお願いしたので、これは蜜もたっぷり入っているだろうな。あとで朝食に一個いただこう。
「ありがとうございます。お代はこちらに」
「おう、ガンバレよ。小さいのに関心だ」
肉球の備わった手で頭を撫でられて、少し気恥ずかしいが素直に受け容れる。これがカニスティアンのコミュニケーションらしいので、嫌がるのは失礼だからな。
「んー、カワイイカワイイ、今日も良い子だなー」
「ははは、どうも。またお願いしますね」
わしわしと頭と顔を一頻り撫でたあと、デイジーは他の配達もあるからかリヤカーを引っ張って去って行った。
「いやぁ、良い仕事をしてくれる。これで林檎の薔薇飾り切りや、アップルティーのいい仕込みが……」
ほくほく顔で術法にて箱を浮かばせながら戻ると、グルゼフォーンが少し表情を硬くして立っているのが見えた。
何事かと思って首を傾げると、彼女は袖から暗器を取り出すような勢いで櫛を取りだし、決断的に宣言した。
「御髪を直させていただきます」
「え? いや、そこまで乱れては……」
「直させていただきます」
「……お願いするよ」
私は、その強い宣言に抵抗することができず、大人しく座って髪の毛を梳られるのであった。
それも、そんなに丁寧にやる必要があるのか? というくらい偏執的に、たっぷりと四半刻ほどもかけて…………。