エリザベスには幼少期の記憶という物が殆どない。
それはウィッチリングという種族が半ば〝自然発生〟するものであって、緩く形成される家族という集団が偶然同種を発見して構築されるからだ。
故にこそ、エリザベスは生まれながらに運が悪かった方と言えるだろう。
彼女は霊峰の頂、よく風が吹く小さな湖の畔に発生したがため、家族となるウィッチリングの先達に見つけられるのが遅かった。
大凡八十年弱、彼女は誰にも見つけられることなく、一人で風や花と戯れ、目まぐるしく姿を変える山々を眺めて生きてきたがため、ダンバース集団に迎え入れられるまでに精神成長の機会を著しく欠いてしまったがばかりに、怖ろしく対人能力に劣っていた。
それは師にして親たるアマリーリエに見つけ出され、アビゲイルという洗礼名を――家族に迎え入れるにあたって名付けられるもの――授かって十一人のウィッチリング集団、その十二人目になっても変わらなかった。
肯定や否定の言葉を発するのにも数分の時間が掛かるのをアマリーリエは長い目で受け容れたが、他の親達は、このままだと生きて行くのに苦労するだろうと判断した。
そして、喧々囂々の家族会議の末、彼女はウィッチリングであればまず取らない選択肢。学び舎に放り込まれることとなる。
本来、ウィッチリングは生まれながらに発生した場所に由来する強力な術方の才能を持つため、制御さえ覚えれば態々学校になど通う必要はない。精々、親達から応用を教わって、あとは流浪の民である生き方に合わせて覚えていくだけであり、これといって特別な教育を必要としないのが本来の生き方なのだ。
なのでエリザベスは最初、大いに泣いて大勢の見知らぬ人間がいる場所に放り込まれることを嫌がった。
それに話に聞けば、親達の伝手があるという大竜骸の学院、かつて世界を覆い尽くすほど大きかった竜の頭骨に築かれた学園に通うのは、既に成熟して大人の姿であった彼女と違って子供ばかりだというではないか。
そんな中に放り込まれては死んでしまうと拒みに拒んだが、スパルタな親達はそれを受け容れなかった。ただ一人、アマリーリエのみが可哀想では? と声を上げたが、甘すぎては今後の永い永い人生で苦労するとの意見が勝って黙殺されてしまった。
そして彼女は中央大陸、メビウスの円環を描く世界で暫定的に〝表面〟と定義されている地域に一人で取り残されることとなった。
竜骸の学院は広く、技術官僚主義が発展している連邦帝国において五指に入る学び舎である。
その間口は広く、術方を用いない理論や技術も教えていることはあり教員数は五百を優に超え、生徒数は万に達するという。
学び舎は熾烈な競争の場でもある。入ったからといって栄達が約束されるのではなく、学びの中で認めた論文、築き上げた技術、達成した課題、そして構築したコネクションによって進路が決まる激戦地。決してモラトリアムを楽しむような場所ではないこともあって、能力はあってもエリザベスは大変に苦労した。
講義は山ほどあり、座って板書しているだけで済むようなものではなく、教授勢から抉るように質問が飛んでくる。
その上で膨大な講座と数多の教授からカリキュラムを自分で選んで形にせねばならぬため、彼女は心底苦労した。
それこそ、講座選択の〆切り最終日になっても、上手く学生科に入れないでいることくらい。
「何か困ったことでもあるのかい?」
このまま石畳の間から生えた草のように佇んでしまいたい気分になっていたエリザベスを救ったのが、教務課に用事があってぶらりと訪れたヨシュアであった。
彼は二年早く入学していたこともあって学園には既に馴染んでおり、新入生特有の〝熟れていない〟雰囲気を纏うエリザベスが困りかねている様を見かねて先輩として助け船をだしてやったのだ。
銀の縁取りがされただけの白地の仮面、〝無貌の仮面〟を被ったヨシュアは、それはもう怪しい風体であったが、身長が随分と小さく、また身に纏う穏やかな雰囲気から自分を害する存在ではないと本能的に感じ取った彼女は、十数分、下手をすれば一時間近い逡巡の後に助けを求めた。
それは、永い永い沈黙を黙って受け容れてくれた先輩の優しさもあってこそだろう。ヨシュアは即座に言葉を返されなくても、もごもごと口を動かして話そうとする仕草、ああでもないこうでもないと目線を左右にやる様を見て、彼女が喋ることが得意ではないことを見抜いて合わせてあげたのだ。
「なら話は簡単だ。私が付き添ってあげよう。困っている後輩を見捨てて、気持ちいい寝覚めができるほど酷い男ではないつもりだからね」
ヨシュアは一時間も悩んでやっと勇気を出したエリザベスに対して真摯に接した。カリキュラム願書の書き方を根気よく教えてやり、ためになる講義、息抜きになる講義なども交えて半年の予定を立てる手助けを学生課が閉まる寸前まで手助けした。
それからヨシュアとエリザベスの学生生活が始まる。
彼女は寮から出たらフラフラと銀縁の仮面を探し、方々を移動している彼を見つけると〝刷り込み〟をされたひな鳥のようにくっついて周り、講義の受け方などを教えて貰う日々を過ごす。
すると彼女は元々術法に才能がある種族だ。才覚はあっと言う間に華開き、言葉を紡ぐのが苦手でも実技は文句の付けようがないということも相まって、あっと言う間に高等課程に進んでしまった。
それは、飛び級をしているヨシュアを更に追い抜く速度で、正しく凄まじい速度で同じ教授のゼミに参加することになるほどだったのだが、原動力ができるだけ一緒にいたかったということである点に疑いの余地はないだろう。
その後、エリザベスは幸せな数年間を過ごすこととなる。同じ教授に師事しているため研究室でヨシュアと毎日顔を合わせ――まぁ、彼は仮面を一度たりとて外したことはないのだが――共同作業をする日々はとても楽しかった。
しかし、無情にも流れて行く時間は二人を引き裂く。
ウィッチリングという種の特異性が強く働き、適性に合ったゼミナール研究の成果が高く評価されて博士課程を予定より早く終わらせてしまったのだ。
その時点でヨシュアは博士論文に取りかかった段階で卒業までまだ時間が掛かっているので――当人曰く、自分と向き合う必要があるので大変な時間が必要だったそうだ――久方ぶりにエリザベスは大泣きして卒業を嫌がったが、手抜きして自分の価値を下げるものじゃないという一晩がかりの説得で大竜骸の学院を卒業した。
ただ、予想外であったのは、殊更有能であったはずのヨシュアが官の道を選ばず、何を思ったか探索者というヤクザな職業について姿を眩ませてしまったことであった。
彼は在学中に西方大陸の半神半人種族であり、貌に醜い傷があるからと仮面を被りっぱなしで生活していたが、種族差や美醜で進路が左右されるほど連邦帝国は狭量な国家ではない。
将来を嘱望されていたこともあって、必ず同じ道に来てくれると思っていた期待を大きく裏切られたエリザベスは、やっぱり彼は〝嘘つきくん〟だと涙と共に酒杯を舐めたという。
元より半神半人族ではないことは雰囲気から彼女だけが察していたが、学生時代に言った「まぁ、泣き虫の君を一人にしたりはしないさ」という言葉まで嘘にするとは思っていなかった。
故にエリザベスは臍を曲げて手紙を中々返さなかったが、日課の未来視をしていると再開の突端を掴むことになるとは思ってもみなかった。
あっちこっちへ忙しかった彼が店を開きに戻ってくる。その手紙を受け取る未来を視た直後に彼女は行動を開始していた。
ヨシュアが喜びそうな開店祝いを用意し、誰よりも早く、それでいて迷惑になりすぎない時に訪ねる。
その大望を果たした日、彼女は大いに驚くこととなった。
よもや、あの優しくて年下の先輩、しかも自分より後に卒業した彼がヒト種であったなど。
元々、小さくて所作の全てにどこか放っておけない可愛さがあると思っていたが、まさか絶滅を危惧されている〝この世で最もカワイイ人種〟であるなど、彼女の未来視を以てしても彼が表舞台に素顔を晒すまで見抜くことはできなかった。
しかも、店を開いてヒト種とふれあえるカフェをやるなどと言いだしたのだ。
もし許されるなら、いや、正確には可能であれば彼女は直ぐにヨシュアを攫っていたかも知れない。
だが、何処からか引っ張ってきた人造神格の加護によって術法は通らず、当人の赦しがなければ触れることもできない状況を打破する術がないのでエリザベスは諦めるしかなかった。
そして、学生時代からの大望を寄り強く叶えようと意気を上げるのだった。
まずここの常連となり、ヨシュアの〝固有時間軸〟をより強固に把握し、自分が彼の〝結婚の約束をした幼馴染み〟という盤石の地位に過去を改変してやるのだと強く強く…………。