慧芽が心機一転して、竜との向き合い方を改めて考えた日の翌日。
いつもは慧芽の怒声が響く離宮に、克宇の悲鳴が上がった。
「慧芽殿! 勘弁してください! 無理ですから! 無理ですからっ!」
「殿方のくせに情けない」
克宇が青ざめながら、厨の壁を背にあとずさりしていく。対する慧芽は、その腕ににょろにょろとした物を絡めながら、一歩、一歩、着実に克宇へと近づいた。
「これは姫様へのご褒美です。何事にも飴と鞭は必要でしょう。そのために協力をしていたただきたいだけですのに」
「いやいやいや無理ですって! 見るだけでも無理なんですって! 色が禍々し過ぎませんかソレっ! しかもそんなふっといの、どこから持ってきたんですかぁっ!」
一歩、また一歩と、慧芽は克宇に迫っていく。
慧芽が持っているのは一匹の蛇だ。離宮に連れてこられた、可哀想な蛇。
慧芽が一歩近づくたびに、一歩後退していた克宇は、とうとう壁際にまで追いつめられる。今にも泣きそうなくらいに情けない声でわめく克宇に、慧芽はすんと澄ました顔で、この蛇の出どころを答えた。
「姫様が夜の間に、寝台から抜け出して捕まえてきたようです。部屋に隠してひっそりと太らせてから食べようとなさっていたのを、取り上げました」
「取り上げ……っ!? えっ、いつの間にっ!?」
「おそらく、克宇様が見まわりで姫様の部屋を離れた隙に、抜け出したのでしょう」
克宇が蛇の出どころとヴェラの素行に、素っ頓狂な声を上げる。護衛であるのに、ヴェラが抜け出していたことに気づかなかったのは職務怠慢ではないだろうか。
とはいえ、二十四時間をたった一人で護衛するのは無理がある。克宇だって人間で、休息が必要だ。慧芽だってそう。この離宮は今、間違いなく人手が足りていない。
「やはり離宮の内側に、もう少し人を増やしていただくことはできないのですか? 私もそうですが、克宇様一人では、どうしてもまわらない部分がでてきているでしょう」
手もとでにょろにょろと蠢く蛇を握りしめて、慧芽は克宇に人員の増加を打診する。
克宇は顔を引きつらせながら、壁に背をぴったりと密着させるほどに後退した。
「じっ、人選は限られるのですがっ、打診はしてますっ! 今は夜だけですが、主上直下の隠密が一人、俺の就寝時に姫君の護衛についているそうですっ!」
「まぁ、そうだったんですか」
克宇一人で昼夜問わずにヴェラの護衛なんて、いつ体を休める暇があるのかと思っていたが、実は交代要員がいたらしい。それなら克宇の負担も、思っていたよりは低いはずだ。
だけど、そこでさらに慧芽は主張する。
「では、私にも交代の者をよこして欲しいものです。姫君に物事を教えながら、離宮の営みをまわすのは少々どころか、だいぶ骨が折れるものですから」
ため息をつきながらお願いをしてみれば、克宇は全力で首を縦に振って。
「打診しておきますから! しますからっ! あのっ、ソレを早くどこかへ――」
怖いものなしであろう国屈指の武官である克宇がこんなにも恐れるなんて。
慧芽の腕でにょろにょろと身をくゆらせている蛇は、凶悪ではあるが、さほど凶暴ではない。そこまでおびえずとも良いのにと思いながら、慧芽は自分の腕に巻きつく蛇を見下ろす。
赤と黒の斑な鱗に、赤い瞳。小さな顎は決して開かないように、慧芽の細い指先で一分の隙も与えることなく力を込められている。
慧芽は己の持つ蛇を再度認識すると、克宇と視線を合わせた。
「申し訳ないですが、今、私がこの手を離すと、確実にこの蛇の毒牙の餌食になります。この蛇は『やまかがち』というのですが、死に至る猛毒を持っております。ですので、克宇様にこの蛇を仕留めていただかないことには、私はこの蛇から手を離すことはできません」
慧芽はそう言って、自分の手に絡む蛇を掲げて見せた。
慧芽の右手は蛇の顎を掴んでいるが、蛇の頭から胴の半ばまでかけて、右の手首を一周している。さらにその胴の先から尾をかけて、蛇は慧芽の左の手首へ絡みつき、まるで罪人のような手枷となっていた。
その様子に克宇も何か思うところがあるのか、物言いたげな顔をするけれど、すぐに首を左右に振って、慧芽の頼みを拒否をする。
「いやもっ、本っ当にっ! 蛇だけは無理なんですって! 勘弁してください!」
「斬るだけでいいんです、斬るだけで。剣じゃなくとも、そこの包丁でスパッとやってくださっても結構ですので」
「それに使った包丁をどうする気ですか!? それで我々の食事を作るつもりですか!?」
「当たり前です。包丁はこの厨にそう何本もあるわけではないので」
毒蛇を手に巻きつけ、ひと欠片も動じた様子を見せずに克宇に蛇を仕留めるよう、慧芽はつめ寄る。
克宇は恐怖からくる冷や汗なのか、額に汗が滲み始め、しっとりと前髪を濡らしていた。
慧芽と克宇が対峙する。
慧芽の腕に絡む赤黒い蛇が身をうねらせる。
ごくりと克宇の喉が鳴った。
克宇がそろりと視線を下ろせば蛇の視線が合い、その視線を上げれば真顔でたたずむ慧芽と視線が合う。逃げられないことを悟った克宇は、とうとう観念したのか、懐から短刀を取り出した。
心に虚無をたずさえて、克宇は刀身を鞘から引き抜くと、おもむろに振りかぶる。
蛇の胴が、裂けた。