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第8話 後世のためにも

「ありがとうございます、克宇様。そう言われますと、確かにやりがいが生まれますね」


 すぅっと春風が空へ吹き抜けていくのにも似た、心の変化。

 慧芽はその口もとを小さくゆるめる。なんだか今まで蟠っていたものが、克宇の言葉で浄化されてしまった。


「でしょう。それに、もし貴女が本当に歴史に残る女性になれたなら、それをそばで見ていたと、子々孫々まで語れる自慢にもなります」


 慧芽の表情がにわかに和らいだのを見て、どやっと胸を張った克宇に、とうとう慧芽も肩を震わせた。はしたなく見えないように、口元に袖を添えて、小さく笑う。


「お上手なこと。そういう克宇様こそ、左右大将軍様を目指されるのでしょう?」

「あっ、いやっ、そのっ! さすがに俺なんかがその座を狙うのは、不敬というか、下克上というか……!」


 言われるばかりだった慧芽が、ここぞとばかりに克宇に言い返すと、彼は視線を左右にせわしなく移してたじろぐ。それが面白くて、克宇という人物に対して、もう少しだけ心を許してもいいいかしらと思えてきた。


 慧芽は言葉を重ねてみる。自分も褒められたのだからと、克宇の経歴を並べ立てて、褒めちぎってみた。


「国屈指の武官が何を言っているのです。聞きましたよ。昨年の武闘大会で、三番を勝ち取ったと。その上、主上からの覚えもめでたい武官ともなれば、側近としての抜擢も近いことでしょう。克宇様こそ謙遜が過ぎます」

「あ、いやぁ……」


 克宇だって実力のある武官だ。今回のお役目にあたり、仕事で関わることになる相手のことは慧芽も聞いている。竜であるヴェラにつけられる武官は並大抵の腕前では刃が立たないことも、克宇がその水準に到達していることも、だから今回のお役目に任命されたのも。慧芽は離宮に来る前、父から話を聞いていた。


 慧芽がそれらをあげ連ねれば、克宇がたじたじになって、あわあわと視線を右往左往させている。お互い褒められ慣れない人種らしい。慧芽と同じでうまく言い返せなくなった克宇がとうとう、白旗を振はる。


「……やっぱり慧芽殿に誉められると調子が狂います。この話、やめませんか?」

「自分から話しておいて、何を今さら」


 やっぱりとはどういう意味だろうか。

 それこそやはり、一度克宇とはちゃんと腹を割って話すべきなのだろうか。


 慧芽が半眼になっていると、克宇が眉をへにょりと垂れ下げて、「勘弁してください」と言う。慧芽は仕方なく、克宇の言葉を水に流すことにした。


 話の区切りも着いたところで、克宇が視線を回廊の奥へと向ける。


「長話をしてしまいましたね。淑女の部屋に長居は禁物だというのを、失念していました」

「そうですね。姫様の教育にもよろしくないので、普段でしたら叱っているところですよ」

「それはちょっとご遠慮させてください。慧芽殿の叱責は、見てるだけでも怖いので」


 すすっと一歩下がって、克宇は嫌がる素振りを見せる。ぴくり、と慧芽の整った眉が跳ねる。本当ならここで小言の一つや二つを言いたいところだが、今回ばかりは見逃すことにした。


 なぜなら。


「色々と言いたいことはありますが。体が資本である武官様の貴重な睡眠時間を削ってまで、お引き留めすることではありません。さぁ、そろそろお部屋にお戻りくださいませ。私も書き物を終えたら、眠りますので」


 そう言って、慧芽は克宇を追い立てる。

 克宇も回廊から見える月の位置が、だいぶ高くなっていたのを見て、肩をすくめた。


「それでは失礼しました。おやすみなさい、慧芽殿」

「おやすみなさいませ、克宇様」


 どうぞ、と部屋に入るのをうながされ、慧芽は素直に従った。


 克宇が閉めた扉に内から鍵をかけながら、擦り硝子の嵌められた格子の向こうの影を見送る。克宇が離れていったのを認めると、慧芽は再び文机に向かった。


 ふと、卓上に置かれた手鏡をのぞく。

 そこには自信に満ちた、いつもの慧芽がいた。


「考えもしなかったわ。この記録をもとに紫雲竜の生態を解明できたら、七才媛として私の名が歴史に残るなんて」


 自分の残すものが将来どうなるかなんて、普通は考えない。捨てるか、朽ちるか、そのどちらかだ。でも確かに、今の時代に貴重な資料と呼ばれているものは、誰かが何らかの意図で残してきたものばかりで。


「これは、後世のためにも残さないといけないのね。私ならやれる。きっとできるわ。だって私だもの。七才媛で、勅命が下されるくらいに優秀な私よ」


 下向きに走っていた思考が上向いた。

 克宇のお陰だとは認めたくはないけれど、ようやく自信家であり、自尊心の高い慧芽が戻ってきたのは確かだった。


 むくりと起き上がってきた七才媛としての慧芽に、挫けかけていた観察記録への筆を手に取る力がわいてくる。


「さぁ、頑張りましょう」


 慧芽は口もとをゆるめながら硯箱の蓋をあけると、手早く墨をすり始める。


 たっぷりの墨をすると、今日あった出来事を質のいい白の料紙が墨に染まるほどに、つぶさに書き記し始めた。


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