「それは買いかぶりすぎですよ。私は離宮に来るまで、お仕えする姫君が竜だとは、知らされていませんでしたから」
褒める克宇に、慧芽は首を振って否定する。でも克宇はそれを謙遜ととらえたらしく、にこやかに言葉を続けて。
「そんなふうには見えませんでしたよ。始めから竜の姿の姫君を前にしても、肝が座っていましたし。男でも気が弱い人は逃げ出したほどなんですよ」
「あんなもの、大きいだけの蜥蜴でしょう? 生き物であることに変わりありません」
慧芽が克宇の言葉をばっさりと切り捨てるように返すと、彼はぽかんと間抜けに口をあけ、まじまじと慧芽を見下ろした。
何度か言いあぐねるかのように口を開閉させると、ようやく言葉が見つかったのかぽつりとつぶやく。
「人々が恐れる竜を、慧芽殿は蜥蜴だと言うのです?」
「そうですよ。見た目は羽のはえた蜥蜴でしょう」
慧芽は憮然と返す。
とうとう克宇が肩を震わせた。
突然、顔をうつむかせて肩を震わせ始めた克宇に、慧芽は何事かとぎょっとする。
「克宇殿? 私、何かおかしなことを言いましたか?」
「ふっ……ははっ。おかしいですよ。竜を蜥蜴と言いきれるのは、この天峯国広しと言えど、きっと貴女くらいでしょう」
堪えるように顔を背けた克宇は、それでもにじみ出る笑いを我慢できなかったようで、とうとう声をあげて笑いだした。
呆気にとられた慧芽が克宇を見上げていると、目もとに笑みをたたえた克宇が、思いだしたように言う。
「そう言えば慧芽殿は、動物に詳しい学者殿でしたね。さすがの慧眼だ。竜と蜥蜴が同じだなんて」
ようやく笑いの収まったらしい克宇の言葉に、慧芽は半眼になる。
「馬鹿にしてます? それに私は、学者ではありません」
「梔家から七才媛の称号をもらってる人を馬鹿にできるほど、俺は頭がよくないですよ」
「……学生より物覚えが良かっただけですから」
慧芽はふいっとそっぽを向く。照れ隠しにも取れるその行動に、克宇が頬をゆるめると、穏やかな声音で慧芽に言葉をかけた。
「正直、主上の無茶振りに不安だとは思いますが。でもきっと慧芽殿ならどうにかできますよ。少なくとも姫君が主上のそばに現れてからずっと嫌がっていた衣を、たったの数日で着るようになってくれたんですから」
克宇がまたもや慧芽の手柄のように言う。だけど慧芽はそれを良しと頷くことはできなくて。
「ですが、まだ一刻も大人しくしていただけていません。すぐに衣を脱いでしまう現状では一ヶ月後の披露目はおろか、後宮に居を移すことすらままなりません」
「いやいや、十分な進歩だと思いますけど」
慧芽が落ち込むように肩を落とせば、すかさず克宇が否定する。それから、思い出すように離宮へと来る前に見てきたものを教えてくれた。
「最初の頃は与える衣をビリビリに破くその様に、女官が恐れて近づけなかったんです。その上、すぐ暴れて手がつけられなかったので、被害を抑えるためにも、頑丈な自分が護衛につけられたんですよ。それが、慧芽殿が来てたった数日で改善されました。大丈夫、慧芽殿ならきっとできますよ」
克宇はそう言って屈託なく笑う。だけど、慧芽の胸の内には、果たして克宇の言うとおりにうまく行くものだろうか、という思いがよぎっていて。
漠然とした気持ちで克宇の持つ手燭の明かりを見つめていると、慧芽の不安を表すかのように蝋燭の火が風に揺れた。
「……やはり買いかぶりすぎです。私は、そんな大層な人間ではありません」
「七才媛と名高い人がそんな謙遜をすると、嫌味に取られますよ」
「でも事実ですから。普通の学生より、要領よく学べただけのことです」
「そこは歴史に残る七才媛のようになると、意気込むところでしょう。現状に満足せず、高みを目指すべきです。俺だって、いつかは禁軍の将軍になれるように、鍛練してるんですから」
腰に佩いた剣をなでる克宇のまなざしは、まるで何かに憧れているような少年のよう。自分より年上の青年が無邪気にそう憧れるのを、慧芽は素直に羨ましいと思う。
「今でも十分お強いのに、さらに上をと望むのは、欲張りでは?」
「目指して損するものではありませんし、そのほうが人生にも張り合いが生まれますよ」
からりと笑う克宇の笑顔が、暗闇の中で、蝋燭の灯りよりも輝いて見えた。
慧芽が人懐こい克宇の顔を不思議な気持ちで見上げていると、彼は部屋の奥へと視線を向ける。
「書き物をされていたんでしょう? 何を記されていたのか聞いても?」
慧芽は答えても良いものかと逡巡した。けれど、克宇に知られてたところで困るものでもないかと思い直す。
「紫雲竜の生態や習性についてまとめておりました。竜はその姿以上のことを記してある書物がないので、どんなことでも知り得たことは残しておこうかと」
「それはすごい。きっと歴史に残りますね。後世の人のためにもぜひ、やり遂げるべきですよ。慧芽殿のお立場だからこそ、できることなんですから」
なんてことのないように話した克宇の言葉。
まるで光明が差したかのように、慧芽は視界が開けたような気がした。