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第5話 梔家七才媛

「ひと月であのじゃじゃ馬娘、いや、じゃじゃ竜娘をどうにかできるわけないじゃない……っ!」


 夜、離宮内にいただいた私室の文机に向かっていた慧芽は、とうとう頭を抱えて机に突っ伏した。ゆらりと燭台に灯る蝋燭の火が揺らめいて、慧芽の影を床に広く伸ばす。


 昼間の軒炎からの言葉を思いだすたびに、慧芽は自分の浅はかさと皇帝の無茶ぶりに頭を悩ませる。


 離宮に来てからというもの、慧芽は自分なりに竜の姫君と向き合い、できることを地道にやっていた。寝食を共にし、衣を着せ、人間の常識を教え、行動をたしなめ、姫君を皇帝が妃にふさわしい淑女にするべく尽力していたのは間違いない。


 だけど皇帝のこの無茶振りは想定外だった。決して手を抜いていたわけではないけれど、もし最初から期限が一ヶ月と知っていたら、この五日をもっと有効に使っていたはずだ。たった五日で衣を着せられたからといって、一ヶ月で十分な教育をヴェラに施すなんて絶対に無理。


「赤子に言葉を教えるよりは簡単だからと思ったのに、全然、そんなことないし! そもそも竜も生き物だからって、私に振るのがおかしくないかしら!?」


 化粧をすっかり落とし、ぬばたまの髪もほどいてしまう。寝衣に着替えた慧芽は、昼間かぶっていた猫の皮をごっそりとはぎ落として、年相応の少女の表情になった。


 勅命という大きな使命は、今さらながらに、慧芽へと重圧を与えてくる。一歩間違えれば皇帝の不興を買うかもしれないという恐怖が、慧芽の足元に横たわっているのだ。


 どうしてこんなことにと嘆く慧芽だが、すべては自分の有能さ故と自負はしている。


 梔家七才媛。

 軒炎も称したその言葉が、慧芽をひと言で十二分に表現する言葉だ。


 梔家七才媛とは、学問の一族である梔家一門のうち、その傘下の門下生に劣らぬ知識を蓄えた、非常に優秀とされる女性に与えられる称号。


 政、商、芸、文、医、天、地。


 各分野の博士と梔家当主に認められた才女にのみ与えられる称号は、七才媛と呼ばれるものの、初代七才媛より以降、七人もの才媛がそろうことは二度となかった。それほどに、得るのが難しい称号といわれている。


 女の知恵は鼻の先と言うように、ただの賢しい女性であれば敬遠されるものの、七才媛に名を連ねる女性は別格だった。称号を持つという意味はすなわち、間違いなくそこらの学生よりも知識を身につけている証だ。かつ歴史に名を残す女傑もこの梔家七才媛に名を連ねていることが多いという事実が、この称号の価値を示している。


 そもそも梔家が学問の一族だ。男はもちろん、たとえ女であっても、この称号を誇りとして、本家から分家に至るまで一度は何かの学を修めるように育てられる。


 かくいう慧芽も、齢十八にして動植物を含む生物を専門とする『地』の学問を修め、梔家の才媛の名を戴くほどの知識を身につけた。その分野における博識さは推して知るべしだ。


 とはいえ。


「ほぼ伝承伝説くらいでしか生態の分からない竜をしつけるなんて、頼む人間を間違えているでしょう! 礼儀作法に長けてる女官か、むしろ歴史学にも精通する『文』の人間を呼ぶべきじゃないっ」


 苛々とした声を散々上げた慧芽はここでひと息つくと、ようやく顔を上げて、机の上に置いてあるものに目を向けた。


 机の上には灯りと硯と筆、それからいつも持ち歩いている手鏡と、一冊の冊子がある。そのうちの冊子を少々乱暴に手繰り寄せると、表紙をめくり、自分の筆跡で書かれた文字を追っていく。


残花月ざんかのつき十三日。紫雲竜ヴェラと対面。紫の鱗は夜明けの色の如く。黒曜石のような艶と質感を持つ。年は三百。ヴェラ姫いわく、三百年を生きた竜は成体となり、番いを探す旅に出ると云う。ヴェラ姫の番いは軒炎皇帝陛下である。軒炎皇帝陛下は竜であるヴェラ姫を、権威の象徴として囲うべく勅令を出し――』


 これは慧芽が記す、ヴェラの観察記録だった。

 初日はヴェラとの出会いから始まり、どうしてヴェラが皇帝陛下に囲われているのか、第一印象、実際の性格や身体情報までが記されている。


 そこから一枚をめくれば、日々に気がつくヴェラの好みの食べ物や玩具、興味が引かれるもの、逆に苦手とするもの、さらに日常生活における習性までが、子細に書いてあって。


 皮肉なことに、古今東西の歴史書や地誌、獣の目録、字引を読んだとしても、ここまで鮮明で詳細な竜の記録など、ひとつもないだろう。


 つまりは、慧芽のこの観察記録こそが、紫雲竜の生態についてつぶさに述べられている資料になるわけで。これからの慧芽を助けてくれる字引になり得るものではあるのだけれど。


「でも、たとえ分析できても、しつけられるかどうかはまた別でしょうに……っ! 私は家畜の調教師じゃないのよ!?」


 あまりにも気が遠くなるような状況。

 慧芽は頭を抱えて、再びうめいた。


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