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第2話 紫雲竜ヴェラ

 父を通じて内密の勅命が慧芽けいめいにくだされたのは、ほんの五日前の出来事。


 勅命は、離宮に隠されている姫君の〝世話役兼教育係〟になること。


 父の話では、最近市井をにぎわす大問題の、まさに中心にあるいわく付きの姫君だとか。


 その大問題とは、皇帝のお膝もとである天峯国てんぽうこくの上空に、雷の化身と謳われる紫雲竜しうんりゅうが現れたこと。


 宵闇を思わせる暗い紫の鱗に、満月のように煌々と輝く金色の瞳。雷の花を散らす雄々しい翼。のぼりのように長い尾を風にたなびかせながら、彼の竜は雲の隙間を縫うように都の空を旋回した。


 竜に関してこの国の史書を紐解くと、数十年に一度、雷の化身である紫雲竜を筆頭に、炎を吐く白灯竜はくとうりゅうや氷柱のような六花竜りっかりゅうなどの存在が見受けられる。だが竜という存在は災禍の象徴であり、その名の刻まれた時代は必ずと言っても良いほど厄災がもたらされてきた。


 決して身近ではないが、いにしえの記録より竜の狂暴性は伝わっている。これらを知る人々は、現れた紫雲竜がいつその厄災をふりまくのかと恐れおののいた。不安がる人々のために、皇帝が何よりも最優先で竜退治に乗りかかるのは当然の流れだっただろう。


 そんな国を上げての大問題が起きる中、お忙しいはずの皇帝がひそかに匿っているという、素性不明の姫君。


 これは何か裏があるだろうと読んでいた慧芽だったが、案の定だった。


 仕える姫君には、世間一般的な人間の常識が赤子以上に通用しなかった。


 衣が窮屈だとそこらで脱ぎ出すし、お腹がすけば庭にいる蜥蜴を捕まえて丸飲みにしようとする。眠くなれば寝台に上がらず冷ややかな石の床で丸くなり、刺繍や雅楽などはそっちのけ。日がな一日宝石をうっとり眺め、気がつくとぺろぺろと舐めていたりすることもある。そして極めつけは「ダンナサマに会いたいの!」と言って、素っ裸のまま離宮を飛び出そうとする。


 離宮に来てまだ五日だというのに、一日が慌ただしすぎて、屋敷で父の蔵書を読みふけっていた日々がもう懐かしい。片時も気の休まる暇などない状況に、とんだ貧乏くじを引かされたと思わずにはいられない。


 つらつらとそんなことを思い返した慧芽は自嘲しながら、今日も元気に逃げ出した姫君を追って小走りで駆けた。


 そうして宮の外へと出た瞬間、頭を抱えたくなって。


 本来なら日当たりの良い庭のはずなのに、草花の代わりに、宮のように大きなモノがどっしりと構えられている。慧芽は艶やかな紫の壁を前に現実から目をそらしたくなった。


 だけど、悠長にそんなことをしてられないと一歩を踏み出す。


 慧芽が美しい紫の壁を伝っていくと、その端できょろりとしたどことなく愛らしい満月を見つけた。


 金色に輝く満月が、慧芽の姿を鏡のように映しだす。

 慧芽は怖じ気づくことなく、その満月に話しかけた。


「姫様、中へ戻りますよ」


 満月が紫の壁に塗りつぶされる。

 聞く意思のないらしい素振りに、慧芽はさらにおおげさにため息をついた。


「仕方ありません。本日は主上がいらっしゃるご予定でしたが、このままでは主上にお目見えなど到底できませんね」


 ぴくりと紫の壁が震えた気がした。

 慧芽は焦らないように言葉を連ねて、姫君の興味をこちらに引いていく。


「本日のおやつはお砂糖を贅沢に使った蜜菓子でしたのに。桃、杏、柑子……この日のためにと南より特別に取り寄せた鳳梨の蜜菓子もございましたが、すべて主上に召し上がっていただきましょうか」

『そんなぁっ! ヴェラもオヤツ食べるぅー!』


 轟っと旋風が巻き起こる。

 慧芽が舞い上がった土埃からとっさに目鼻をかばうと、それまで陰っていたこの場所に日が差した。


 やれやれと胸をなで下ろして目蓋を持ち上げれば、紫の壁は消え、代わりに慧芽と同じくらいの年頃の少女が立っている。


 ふんわりと大胆にうねる紫の髪はまろやかな尻まで覆うほどに長く、愛嬌のある真ん丸の金の瞳は先ほど見つけた満月と同じ色合い。

 白くてしなやかな肢体を惜しげもなくさらしたまま、紫の姫君・ヴェラは年不相応なぶすっとした表情をした。


 機嫌は悪いがなんとか衣を着せられそうだ。安堵した慧芽が手に持つ衣を広げると、不意に背後から人の笑う声が聞こえて。


 慧芽が振り返るよりも早く、ヴェラがみるみるうちに表情を輝かせ、一糸まとわぬままで慧芽の横をすり抜けていく。


「ダンナサマー! おかえりなのー!」

「ああ、ヴェラ。ただいま」


 慧芽はこめかみの辺りが痛むのを抑えたくなった。


 振り返った先で、一人の男が面白そうに目を細めて笑っている。最上級の絹と繊細でかつ豪奢な刺繍の施された龍袍をまとい、頭上には冕冠べんかんを戴く。名を軒炎けんえんというこの青年は、言わずもがなこの国の皇帝陛下だ。


「お出迎えもなしに大変失礼いたしました。主上におかれましては誠にご機嫌麗しく――」

「挨拶は不要だ。顔もあげよ。中々苦労しているようだな」

「いえ、それほどでは……」


 臣下の礼を取ろうとした慧芽は、恐縮しながらも顔を上げ、引きつらせた。

 百歩譲って、素っ裸の姫君が皇帝に抱き上げられているのは許そう。だが。


「ダンナサマ、このじゃらじゃら、ジャマなの」

「すまないな。すぐ仕事に戻らないといけないから、はずせないんだ」

「う~」


 冕冠の端に連なって、顔の前へと簾のように垂れているりゅうを手で乱暴にはね除ける少女に、慧芽は青くなる。


 慌てて口を開こうとする慧芽に気づいた軒炎が、それを空いた手で制しつつ、ヴェラを抱き上げたまま身をひるがえした。


「さぁ、ヴェラ。衣を着せてもらってこい。このままでは目の毒だからな。悪い狼が、そなたを食べてしまうぞ」

「う? ヴェラが食べられるの? ヴェラ、狼なら丸飲みできるよ!」

「そういう意味じゃないんだがな」


 くつくつと喉の奥で笑いながらゆったりと歩きだした軒炎と、荷物のように抱えられているヴェラを追いかけようとした慧芽は、ふと足りないものに気がついて視線を巡らせる。


 少し離れた場所から、とぼとぼとこちらに歩いてくる克宇を見つけた。克宇は慧芽と目が合うと、ばつが悪そうに肩をすくめる。


「……一応、聞いたほうがよろしいですか?」

「……ぜひ聞いてください」

「何故そんなところに? 姫様を追いかけていましたよね」

「慧芽殿が姫様の肌を見るなと言うので、目をつむって気配を追いかけました。結果、急に竜体化した姫の尾に跳ねられました」


 器用なのか不器用なのか。真顔でそうのたまった克宇に、慧芽はあきれてしまった。


「……跳ねられたわりには無傷のようですね。さすがは天峯国屈指の武官様といったところでしょうか」

「急に誉めないでください。怖いです」


 ここ数日、離宮に響いていた慧芽の怒声にすっかり恐縮してしまっているらしい克宇の言葉に、慧芽は半眼になる。本来の慧芽はこんなに怒りっぽくはないし、好きで怒っているわけじゃない。克宇の言葉は心外だった。


 それでも慧芽は言いたいことをぐっと飲み込んで踵を返す。


 暴走する竜の姫君をしつけるには、この程度の言葉なんて気にしてはいられないのだ。


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