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2-5 引き下がらない男

 季節の果物を入れた紙袋を片手に、宿舎へと戻ったモーリスはサリーの部屋の前に立った。

 飾り気のないスチール製のドアからは、どんよりとした空気がだだ洩れだ。


「おい、いるんだろ? いい加減、出てくれないか?」


 いくら呼び鈴を鳴らし、ノックをくり返しても反応はない。そんな状況が五分も過ぎれば、いい加減、苛立ちがつのるというものだ。

 誰もいない廊下で、人当たりの良い笑顔を維持するのもバカらしくなったモーリスは深々と息を吐いた。眉間を揉みほぐしながら、低く「いい加減にしろよ」と告げる。


 柔和な声音は作り物だったのか。周囲に人がいればそう思われるくらいには、低く怒気をはらんだ声は冷ややかだった。


「俺は、少将ちゃんの優しさを無駄にしたくないんだ。さっさとこのドアを開けろ。聞こえてるだろう」


 眉間にシワを寄せたモーリスは、苛立ちが溜まった足の爪先を上げた。

 ドアをガンッと蹴り上げて「俺が大人しい内にここを開けろ」と声をかけるが、扉の向こうにいるはずのサリーは、やはり無言だ。

 引き下がるという選択肢のないモーリスは、ますます青筋を立てた。


「あー、やだやだ。酒に飲まれてぐだぐだで少将ちゃんに迷惑かけるとか。なーにが、あたしが少将ちゃんを一人前にする、だ? 酒に溺れて迷惑かけてちゃ、世話ないよな!」


 ドアに靴底の跡がつくほど何度も蹴り上げ続けた。

 すると、やっと一言「煩いわね」とガサガサの声が返ってきた。どうやらドアを挟んだすぐそこにいるらしい。


「聞いてんなら、開けろ」

「いやよ」

「開けろ」

「放っといて」


 薄く形の良いモーリスの唇がひくひくと小刻みに震えた。日頃、他人には穏和な顔を見せているが、この時ばかりは苛立ちが極限に達したようで、といったようだ。

 一度深く息を吸うと──


「いい加減にしろ、愛翔まなと!」


 ここが宿舎内の通路だということも忘れ、モーリスは声を荒げた。


「若いやつに迷惑かけてんじゃねぇ。お前が泣こうが吐こうが俺には関係ねぇが、いい歳して私情を持ち込むな。何年軍人やってんだ!」


 ひと際激しくドアを蹴り上げて「聞いてんのか、愛翔!」と怒鳴れば、鈍い音を立ててドアがうっすら開いた。すかさずその隙間に足を捩じ込んで開ければ、憂鬱ゆううつそうな二日酔いの顔と対面することになった。


「本名で呼ばないでよ」


 力なくそう言ったサリーの顔には、うっすらと無精ひげが見えた。

 いつもなら丁寧に巻かれている豊かなピンクブロンドの髪はぐしゃぐしゃで、つけ睫毛がそのままの眼はうっすらとアイシャドウも残ったまま。さらに、一晩泣きはらしたのがよく分かるほど腫れぼったかった。

 身綺麗にしている彼しか知らない候補生たちがこの荒れた姿を見たら、なんて言うだろうか。そんなことを考えながら、モーリスはため息をつく。


「こんなん顔で出られるわけないでしょ」

「そこは同意してやるが……」


 のそのそと部屋に戻る後ろ姿は、いつもの自信に満ちた立ち姿からかけ離れていた。

 付き合いの長いモーリスでさえ、ここまで憔悴しょうすいしきった姿を見るのは久々だった。


 ずいぶん昔、それこそ軍人になったばかりの頃に、泣きわめいて手が付けられなかったこともあったにはあったが。と、古い記憶を掘り起こしながら部屋に上がったモーリスは、呆れ果てて頭を抱えた。

 そこには蒸留酒の瓶が散乱していた。


「飲みすぎだ」


 散らかったテーブルに袋を置き、締め切った窓を大きく開け放てば、冷たい秋風が吹き込んできた。それに身をすくめたサリーはごそごそとベッドにもぐりこむ。


「明日にはいつも通りに戻るから……少将ちゃんにも、ちゃんと謝るから」


 丸められた背を見て呆れながら、モーリスは散らかった空瓶を拾い上げてゴミ袋に放っていった。


 ガチャンガチャンとぶつかり合う瓶の音がむなしく響く。

 ひとまず己の座る場所を確保したモーリスは、ミニキッチンから皿とナイフを取り出すと、買ってきた柿を剥き始めた。


「おい、愛翔」

「サリーよ」

「軍人じゃねぇお前をその名で呼ぶ気はない」


 サリーは士官学校に上がった頃から、その名前を呼ばれることを嫌っている。当然ながら、幼馴染であるモーリスは百も承知だ。しかし、周囲がすっかりサリー呼びに馴染んでいることに違和感しかなく、モーリスだけは頑なに彼を本名で呼んでいる。

 それが気に入らないと言うように、サリーはいつもを見せるのだが、今はすっぽりと毛布を被ってしまい、その表情は伺えなかった。


「なんで、あんたはいつまでもその名前で呼ぶのよ」

「お前は愛翔だからだよ」


 呆れたように、だけどいつくしむように優しい声音がそう告げた。

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