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1-7 夢の中なら素直になれる

 薄暗い視界に浮かんだのは、心配そうに眉をしかめるサリーの綺麗な顔だった。

 幼いサリーの姿はどこにもない。


「……夢……?」

「モーリス、聞こえてる?」

「……愛翔まなと?」

「サリーだっていってるでしょ。ほら、水枕作ってきたから。ちゃんと横になりなさいな」


 目を開けたモーリスにほっとしたのか、サリーは口角を少し上げて笑う。


「なんだ、よ。夜這いなら、もうちっと色気ある誘い方が……」

「あんたはそんな高熱出しても、バカなこと言えるのね」

「悪いな、バカで」

「ほんとバカ……不本意だけど、今夜は看病してあげるから」


 サリーの意外な台詞に言葉を失ったモーリスは、ぼやける視界の中で彼の動きをただ追った。


 たらいすすがれたタオルが固く絞られ、落ちる水滴がピチャッと小さな音を奏でる。それが妙に心地よく、モーリスは充てられたタオルの冷たさに瞳を閉じた。


 額、顔、首筋と汗ばんだ肌がぬぐわれていく。一瞬の清涼感が首筋を抜けた。

 力の入らない武骨な指を伸ばし、サリーの手に触れた。タオルをすすいだ指は冷えていて心地よく、モーリスは無意識に指を絡める。


 離したくない。側にいて欲しい。

 指先の熱さから思いが伝わったのだろうか。サリーは目を細めて息をついた。


「ほら、寝なさい。ここにいるから」

「……ありがとう、愛翔」


 ひやりとするサリーの指先に安堵したのか、うっすらと開いていた青灰色せいかいしょくの瞳は数秒と待たずに閉ざされた。


 サリーは呆れる様に「サリーだって言ってるのに」とため息交じりに呟き、熱を持つモーリスの頬に触れる。そこには金糸のような髪がぺったりと貼りついていた。

 絞りなおしたタオルで頬を拭い、肩で息をする辛そうな様子を見つめる。その瞳には後悔の色が揺らいでいた。


「……迎えに行くの遅れて、ごめん」


 すでに意識を手放している彼に、その言葉が届いていないことは百も承知であったが、サリーはごめんと繰り返した。


 ◇◇◇


 発熱と意識混濁から幾日が過ぎた。

 カーテンの隙間から差し込む陽射しが顔に降りかかり、眩しさでモーリスは目を覚ました。気怠さは残っていたものの、いい加減寝ているのも飽きていた彼は体を起こし、ベッドの横にあるサイドテーブルの上を見た。


 時計の針はすでに、いつもの起床時間を過ぎている。

 すぐさま洗面所に向かうと汗にまみれたシャツを脱ぎ捨て、べたつく頭のてっ辺から熱いシャワーをかけた。そこではたと気付く。


「ああ……外出許可、出てなかったな」


 シャワーの栓を閉め、腕の傷痕に指を沿わせた。

 しっかりと縫合されたそこはだいぶ調子が良さそうに見えた。昨夜、回診に訪れた黒須も、もう数日もすれば基礎トレーニングの許可も下ろせると言っていた。

 しかし、すっかり寝るのに飽きてしまったモーリスは、暇であることに限界を感じていた。


 足は無事なのだから、せめてランニングくらいいだろうに。──熱にうなされた事など綺麗さっぱりシャワーと共に流してしまったのか。モーリスは大きなため息をついた。


 傷痕に軟膏を湿布して手早く包帯を巻き終え、下着姿のままで部屋に戻ると、その片隅にあるトレーニング器具が目に入った。

 濡れたままの髪を雑にタオルでがしがしと拭きながらそれを見る。


 片手懸垂けんすいくらいなら問題ないだろう。そんな軽い気持ちで右腕一本でぶら下がり、広背筋に力を込めようとした時だった。


「入るわよ。そろそろ暇してると思って──何してんのよ!?」


 朝食が載った朝食とファイルを持って入ってきたサリーが、金切り声を上げた。


「何って、暇だから片手懸垂」

「バカモーリス! まだ基礎トレーニングの許可、下りてないでしょう!」

「右腕は怪我してないんだから良いだろう」

「落ちてぶつけるかもしれないでしょ! 傷が開いたらどうするの」


 簡素なテーブルに、ばんっとファイルが叩きつけられた。

 そんなヘマはしない。と出かかった反論を飲み込んだモーリスはしぶしぶと降りると、椅子に腰を下ろした。


 ぱたぱたと、髪から水が滴り、簡素なテーブルを濡らした。それを目ざとく見たサリーが、ほらと言って指をさす。


「髪も乾かさないで! そんな恰好でバカやって風邪ひいても、あたしは知らないからね」

「俺が悪うございました」

「反省してないでしょ」


 バンバンっとファイルでテーブルを叩いたサリーは、モーリスが湯気を立てたカップに手を伸ばすと深いため息をついた。

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