壁にかけられたレインコートから、ぽたぽたと雨水が滴り落ちた。
振り返ると、俯いたシェリーの肩をライサが支えているのが目に映った。二人の足元は雨水で濡れて、素足のままの白い指先を泥が汚していた。
モーリスはそこから視線を逸らし、精一杯いつものように笑顔を顔に浮かべた。
「あー、母さん、落ち着いたら連絡くれよな」
「分かってるわよ。愛翔君、うちのバカ息子、存分にこき使ってね!」
「はーい! おばさんも、無理しないでね。行ってらっしゃい」
「おい、こき使うってなんだよ!」
「仲良くしようってことでしょ? ほら、上がってよ」
騒ぎながら愛翔に手を引かれて家に上がった。
そのまま数歩、廊下を進むと、背後で小さな嗚咽が響いた。どうしても気になったモーリスは足を止め、ちらりと振り返ると、シェリーが必死に声を堪えてライサに縋りつく姿を盗み見た。
(何が起きているんだ……?)
父と母の慌ただしい招集だけでも、不安は大きかった。それに加えて、幼馴染の母が見せる動揺を見たのだ。不安になるなと言う方が、到底無理な話だろう。
不安に息苦しさを覚えたその時、モーリスは自分の手を強く握りしめた愛翔の横顔を振り返った。
そこにあったのは、今にも泣き出しそうな潤んだ瞳。
いつもなら、愛くるしく「どうしたの?」と小首を傾げたり、揶揄って「寂しいの?」と笑いかけてくる
モーリスの手から力が抜け、無意識に握っていた手を放していた。
白い指が、するりと離れていく。
前を歩く愛翔はリビングに入りって数歩進むと、すとんとその場にしゃがみ込んだ。そして、まるで糸の切れた操り人形のように、微動だにしなくなった。
「……何があったんだよ、愛翔」
彼の目の前に腰を下ろし、その愛らしい顔を覗き込む。その綺麗な
先ほどの陽気な会話は、空元気だったのだろうか。無理に笑っていたのか。
モーリスの不安がさらに膨れ上がった。
白い指がぎこちなく動き、戸惑い気味にモーリスの両腕を掴んだ。そして、
ドクンっとモーリスの鼓動が大きく跳ねた。
「シン叔父さん?」
背筋を伝ったのは髪を濡らした雨水だろうか。聞き直しながら、嫌なものを感じていたモーリスは息を飲んだ。
脳裏に浮かんだのは、目を細めて笑う男。愛翔が『おにいちゃん』と呼んで懐いているが、母シェリーの実弟だ。歳の離れた姉弟ということもあり、愛翔だけでなくモーリスから見ても、彼はオジサンと呼ぶには若かった。
その叔父は軍人となり、今年の春から海沿いのイサゴ基地に赴任となったことを、モーリスも知っていた。
「イサゴで、何かあったのかよ」
「……わから、ない……分からないよ」
「なんだよ、それ」
「……だって、だって」
そう言って、ポケットから小さな情報端末を引っ張り出した愛翔は、動画を画面に映し出した。
暗い画面には何も映っていない。だが、そこにゼイゼイと荒い息遣いが入り込んでいた。誰かがいることだけが伝わるその異様さに、モーリスは背中が冷えていくのを感じた。
『マナ……冬休みの約束、守れそうに、ない。すまないな……姉さんを、頼むぞ』
モーリスも聞き覚えのある声は、途切れとぎれに響いてきた。しばらくして「またな」と言葉を残し、動画は終わった。
真っ暗な画面を見つめていたモーリスはぎこちなく顔を上げる。そこには、涙をこぼす愛翔がいた。
手から端末が落ち、ごとりと音を立てた。
言葉が出ず、滑り落ちた端末を拾い上げることも忘れて、モーリスは震える愛翔を見つめた。
「……おにいちゃん……生きてる、よね?」
その問いに、頷くことは出来なかった。
息をすることを忘れたように、モーリスは愛翔を凝視するだけだ。ぼろぼろと零れる涙を止めることが出来ず、気休めの言葉すら思いつかない。
頭を中を埋め尽くすのは、最悪の結末ばかりだった。
「生きてるって、言ってよ……」
必死に訴える愛翔の小さな手が胸を叩く。
モーリスは、それを受け止めることしか出来ず、やっと動いた手で小さな肩を抱きしめた。
(そうか。父さんは、イサゴに向かったのか……)
平穏な首都で生活をしていて、自分達がどこにいるのか忘れていたことに気づく。
ここは魔物の
強くなければ、大切なものは守れない。戦えなければ、大切な人を残して
この夜、モーリスは
「──俺が、守る」
「モーリス?」
「俺が、お前も、お前の母さんも守る。だから……泣くな!」
上げられた愛らしい泣き顔を、モーリスは脳裏に焼き付けた。そして、誓った。
大切な人が泣かないように、笑って過ごせるために、武器を手に取ろう。必ず軍人になる──と。