(最悪だ)
――春先輩に、キスをしてしまった。
ずーんと重い雰囲気を背中に乗せ、机に突っ伏す。罪悪感と自己嫌悪が綯い交ぜになって、自分に襲い掛かってくる。
(どうして俺はこう……)
思い出されるのは告白した日の事。あれだけ先輩に迷惑をかけた上、「もう二度としない」とか誓っておきながら、気が付けばまた同じことを繰り返している。
(……先輩の唇、柔らかかったな)
昨日の感触がまだ残っている気がする。先輩の唇は俺のよりちょっとだけ分厚くて、まるでマシュマロみたいだった。
(食べてしまいたい)
そう思いかけたところで、俺はハッとして自ら机に額を打ち付けた。なんで後悔してるくせに思い出してんだ俺!
ゴッと音が響き、周りの席の人たちの視線が突き刺さるのを感じる。しかし、自分のしぶとい煩悩を殺すには仕方ないのだ。
「おーい。朝から何やってんだよ、甘利」
「……百瀬」
コツンと頭を叩かれ、ゆっくりと顔を上げる。視界にピンク色の髪が目に映り、突然の蛍光色に目を細めた。相変わらず目に痛い奴だな。
――百瀬桃李。同じクラスで前後の席。高校に入ってから知り合った奴で、何故か俺に話しかけて来る不思議な奴。ピンクの髪に複数のピアスが付いた耳は、見ているだけで光が反射され、眩しい。規定の制服は早々に改造されており、よく先生に注意されているのを見かける。
入学当初からよくない意味で目立っていたこいつと席が前後だと気づいた時は、最初は身構えたものの「フルーツ仲間じゃん! よろしく!」と笑う百瀬に、警戒するのも馬鹿らしくなって早々にやめた。
「何か用か?」
「いや、用っつーか。自習もせずに悩んでいる友達が心配だなーって思って?」
「……トモダチ?」
「そっ、友達っ☆」
にこりと笑う百瀬。きょろきょろと周囲を見回せば、「お前のことだよ」と指摘され、俺は首を傾げた。
(いつから俺はコイツと友達になったんだ……?)
そんな記憶は残念ながら、ない。しかしそれを言うと後々面倒なことになりそうなので、俺は知らないふりをした。息を吐き出して、思考を戻す。百瀬が「おーい、無視かー?」と呼びかけてくるが、応える義理はないので放置することにした。今はこいつに構っている場合じゃない。
(……今朝、先輩のこと見つけられなかったんだよな)
――部活中。
校門から入ってくる生徒の中から先輩の姿を探すのが、俺の日課になっている。意外と先輩はわかりやすいし、時間さえ把握していれば目にすることは簡単だ。しかし、昨日までほとんど見つけられていたのに、今日に限って見つけることが出来なかった。
(眠そうにあくびをする先輩を見られるのは、朝だけなのに……!)
握った拳を震わせる。昨日、やらかしてしまったから今日は会えないかもしれないと思って、朝の時間をいつも以上に楽しみにしてたというのに、酷い仕打ちだ。
(いや、そもそも俺がやらかしたのが悪いんであって、先輩は悪くないっていうか、全面的に俺が悪いんだけど!)
再び消沈していた罪悪感と自己嫌悪が一気に膨らむ。無意識だったとはいえ、キスはダメだろう、キスは!
(可愛かったからって、無断でキスとか……!)
ナシだろう、普通に考えて。
先輩の蔑んだ視線を思い浮かべ、その鋭さに俺は心臓を掴む。想像なのにすごく痛い。ちょっと泣きそうになって来た。
(でも先輩はもう、俺の声も聞きたくないかもしれない。顔も……合わせない方がいいのかも)
嫌だって、気持ち悪いって拒否されたら。
「……余裕で死ねる」
「なんて?」
「うるさい。入って来るな」
「ひど!?」
百瀬の声を無視して、先輩の事を考える。
俺と先輩の関係なんて細くてちっぽけで、いつでも切れてしまえることはわかっていたのに。どうして止められなかったのか。
(……春先輩、もう来ないのかな)
昼休みだって、最初は迷惑をかけてしまったけど、あの時一人で帰されなかったのはとても嬉しかった。先輩が嫌なら次の日からは来ないようにしようと思っていたのに、「明日も来んの? 来るなら開けておくけど?」と言われてしまっては乗っかるしかない。――それも、もしかしたら今日で終わりかもしれないけれど。
「……俺だって、本当ならもっと段階を踏んでいきたかった」
「段階?」
「先輩の信頼を得てから、好きになってもらって。そしたらギューって抱きしめて、先輩のして欲しいこと全部叶えて。最終的には俺がいないと生きていけないくらいに、どろどろに甘やかして溶かしてやろうって思ってたのに」
「うわー。えげつなっ」
「わかってる。しないし」
「本当かよ」
本当だよ、たぶん。
つんと口を尖らせて、俺は百瀬を睨みつける。ケラケラと笑っているこいつは、やっぱり何を考えているんだかよくわからない。
(……こんなことなら春先輩に近づかなければよかった)
そうすれば、先輩に不快な思いをさせることも、先輩に嫌われることもなかったのに。
「なあ、百瀬。懺悔ってどこですればいいいと思う?」
「えっ? さあ。教会とかじゃね?」
「そもそも俺許されるのか? 先輩に近づいた罪で斬首刑とか……いや、全然あるな」
「情緒不安定すぎん? マジで何やらかしたん?」
百瀬の本気で困惑した声が聞こえる。百瀬を困らせたところで別に構いはしないが、相談に乗ってくれるなら話は別だ。
(相談……)
中学の頃は考えたこともなかったな。そういえば恋愛相談とかって前はよくされたけど、毎回よくわからなくて適当に答えていたらいつの間にか相談されなくなってたな。
じっと百瀬を見る。スマホを弄りながら「相談なら乗るぜー」と軽く言ってのける。……本気か嘘かはわからないが、頼れる友人もいない中、この自称友達に尋ねるしかないだろう。しかし、信じられるのか。言いふらしたり茶化されたらどうする。
(……なんて考えてる余裕もないか)
先輩に嫌われるよりはよっぽどましだ。俺は大きく息を吐き出すと、頬杖をついたままポツリと呟くように言葉を零した。
「……俺、好きな人がいて」
「あー、うん。知ってる」
「告白、した」
「うん、知ってる。つーか噂になってる」
「昼飯一緒に食ってて、この前一緒に出掛けた」
「へー。良かったじゃん」
「それで、キス、した」
「はい?」
百瀬の視線が俺を見る。鳩が豆鉄砲を食ったような顔だ。
「わり、もう一回言ってくんね?」
「キスした。無断で」
「はいアウトー。ガチアウトー」
「アウトじゃないですかパイセンー」と騒ぐ百瀬。その軽いノリに俺はイラッとしつつも、言い返せなかった。だって百瀬の言う通りだから。
(そうだ。俺はアウトなことをしたんだ)
無意識だからっていいわけじゃない。ついしてしまったとか、単なる言い訳だ。
「だーから懺悔とか変な事言ってたのね、なるほどなるほど」
「っ……わかったら教えてくれ。どうしたらいいと思う」
「んー? そんなの謝りゃいい話じゃね?」
「は?」
百瀬の言葉に、俺は素っ頓狂な声が出てしまった。まさかそんな普通の事を当然のように言われるとは思ってもいなかった。
(そりゃあ、謝った方がいいとは思う、けど……)
吹っ飛んだ俺の声にケラケラと笑う百瀬を横目に、俺は思考を巡らせる。こいつがどういう意図で言ったのか、全くわからない。
「あはははは!」
「おい。笑ってないで説明しろっ」
「わりーわりー」
催促するように椅子の足を蹴り飛ばせば、笑い過ぎて浮かんだ涙を拭う百瀬。説明してくれるのかと思いきや、「悪いことしたんだったら謝るのが当然だろ?」と言い出す。だから、それはわかっているんだって。
「そうじゃなくて、もっとなんかこう……」
「つっても、出来る事っつったらそんなもんじゃね? それに、その〝簡単なこと〟も出来ない人間ってのは、結構多くいるんだぜ」
「……」
「まあ、甘利は違うと思うけど」
「お前、真面目ちゃんだし?」と言う彼に、俺はムッとする。真面目と言われるのが嫌なわけじゃないが、コイツの場合、大抵がからかいを含んでいるのだ。言葉を真に受けたりなんかしたら、とんでもないことになるのは目に見えている。
「つーかお前、あの先輩の前だとキャラ違いすぎるよなー。疲れね?」
「は?」
「ほら、例の告白した先輩。あの人といる時もっとこう……人懐っこい犬みたいだったじゃん? 今なんか警戒した虎みたいな顔してっけど」
「それは知らないが……先輩以外の人に愛想振り撒く理由がないからかな」
「ははっ。マジでなんでお前みたいなやつがモテんのかわかんねー」
ははは、とから笑いをあまりに、俺は首を傾げる。俺は自分がモテているとは、今まで一度も思ったことがない。むしろ百瀬の方が、休み時間の度にあっちこっち引っ張りだこでモテているだろうに。
そう告げれば「ほとんど助っ人に呼びたい奴らか、合コン行きたいだけの奴しかいねーよ」と苦笑いをされた。合コン……はわからないが、確かに助っ人にはよく呼ばれているのを見かける。
(この前は隣のサッカー部にも来てたな)
グラウンドを見渡せばどこかしらにいるピンク頭は、先輩の次に見つけやすい。
(でも俺は、先輩に興味を持ってもらえなかったら意味がない)
「まあでも、相手は一個上の先輩なんだろ?」
「ああ……うん」
「なら、会えるうちに会っといた方がいいんでねーの?」
百瀬の言葉にハッとする。顔を上げれば百瀬は真面目な言葉とは裏腹に、シャーペンを指に乗せ、バランスを取る遊びをしている。「お、新記録」と呟いた声がむかつくが、なんだかんだ相談に乗ってくれているのがわかる。俺は百瀬の言葉を頭の中で反芻した。
(会えるうちに……)
そうだった。春先輩は俺よりひとつ上で、俺より先に学校を卒業してしまう。また、置いていかれるんだ。
ばっと時計を見る。もうすぐで授業の時間は終わりだ。昼休みほどながくはないけど、休憩時間に先輩の教室へ向かおう。少しでも長く先輩の隣にいられるなら、迷わずこんな気まずさ、吹っ飛ばしてしまった方がいい。
「……百瀬」
「んー?」
「俺と先輩の式には呼んでやるからな」
「は?」
響くチャイムと同時に椅子を引いて、駆けだす。挨拶をしに来た先生とすれ違うが、この衝動は止めることは出来ない。制止の声を振り切るように、俺は廊下を駆け抜けた。一分もあれば先輩のクラスまで十分たどり着ける。問題はその後だ。
(待っていてください、春先輩っ)
俺は全速力で二年のクラスに続く階段を駆け上がった。