甘利と一緒に飯を食うようになって、早くも一ヶ月が過ぎた。
季節は春を終え、梅雨となった。今年は風の影響で梅雨前線が例年よりも長く停滞しているようで、今日も今日とて雨が降り注いでいる。
――カシャ。
「うーん……」
「どうしたんですか、春先輩」
昼休み。早々に飯を食い終えた俺は、スマートフォンを外に向けながら唸る。甘利の不思議そうな声に振り返らないまま、俺は呟いた。
「実は今度、部活で写真を三枚提出しなきゃいけねーんだけど……どういうのがいいか、まだ決まってねーんだよ」
「じゃあ俺を撮ってください」
「それは却下」
「なんでですか!」
わっと叫び、抱きついてこようとする甘利を押し退け、俺はカメラロールを見る。既に数枚撮っているが、どれもこれもピンとこない。
(適当に出してもいいけど、それじゃあ先生納得しねーだろうしなぁ……)
――発端は先週に行われた部活での事だった。
俺の入っている写真部はほとんどが幽霊部員で、いつも集まるのは二人か三人程度。しかしその日は珍しく部長以外の部員が集まったのだ。とはいえ、活動することもないので自分たちの課題をしたり、最近ハマっているアニメや漫画の話をしたりと過ごしていただけなのだが。
そんな中、顧問の先生が部員が揃っていることを耳にした顧問の先生がやって来たのだ。感動した顧問は涙目になり、「よし! 課題を出そう!」と言い出した。
もちろん何人かが反発したものの、勢いに乗った先生は止まらず「それじゃあ、来週の木曜日までに写真を一人三枚提出してね! いい写真を待ってるよ!」と言って逃げ出したのだ。
そして本日は提出予定の週の、火曜日。そろそろ提出する写真を決めなければならないのだが、生憎決めるどころかほとんど撮れてすらいない。
(よりによって梅雨時にだすなよなー)
ばしゃばしゃと降り続ける雨に眉を寄せる。そもそも課題なんて今まで出したことねーのに。せめて夏とかに出してくれれば、まだ撮るものはたくさんあったはずだ。
「あー、めんど過ぎてやる気でねー」
「でも先輩、コンクールにはいつも写真出してますよね。それも結構こまめに」
「まあな。つーか、なんでお前が知ってんだよ」
「春先輩が撮った写真、全部見てますので」
「怖っ」
(怖っ)
あまりの事につい思ったことが口から零れてしまった。理解できないのか、甘利がキョトンとした顔で首を傾げている。
(やっぱりこいつ、ストーカーなんじゃ)
静かにひっそりと甘利と距離を取ろうとすれば、「どこ行くんですか、先輩」と声をかけられた。さっきだったら何とも思わなかったのだろうが、今じゃ引き留められるのも少し怖い。
「やりにくいテーマなんですか?」
「え? あー、いや。今回はテーマ無しで、普通に撮ってくるだけ」
「なし? なんでもいいってことですか?」
「そ。出せれば何でもいい」
だから困ってる。俺はそう告げると、小さく息を吐いた。
そもそも、活動が少なくてバイトができるからってこの部活を選んだのだ。――つまるところ、撮りたいものなんかない。でも、適当なものを出すと先生がすっごい悲しそうな顔をするから、何だか申し訳なくなるのだ。
(まあ、それで詰まってるわけなんだけど)
ス、と写真をスライドして一枚ずつ見比べていく。甘利が手元を覗き込んできたので、見やすいように少しだけスマホを傾けてやった。
「うーん……?」
「な。イマイチだろ?」
甘利は何も言わなかった。しかし、反応が薄いということは、それだけ印象も薄いということ。
「原因はわかってんだけど、どうしようもねーしなぁ」
俺は窓の外を見る。
ここ一週間、梅雨前線のせいでずっと雨続きになっている。そのせいでどれも同じような写真に見えてしまうのだ。風景を撮る俺としては、もっとパッとしたものを撮りたいんだけど、それが中々叶わない。
(こういう時、カメラが違ければ見える景色が違うんだろうなぁ)
流行のシンメトリー写真でも撮れればいいんだろうけど、怖くて雨の中でスマホなんか触れねーし。
「しゃーね。数うちゃ当たるってことで、もうちょっとだけ撮――」
「先輩っ!」
「うおっ!?」
ガタンッと激しい音が響き、甘利が立ち上がる。掴まれた肩に体が後ろに傾きかけた。慌ててサッシを掴んだお陰で転ぶことはなかったが、心臓は見事にバクバク言っている。
「おまっ、あっぶねーだろ!」
「すみません。でも、俺も先輩の力になりたくて……!」
「はあ?」
突然何を言い出すのかと思えば。「別にいい。必要ない」と言ってみたものの、甘利は引く気はないようで「俺の話、最後まで聞いてください」と言われてしまった。嫌な予感が過る。
「俺、先輩が良い写真撮れるまで付き合います!」
「ほらやっぱな!」
「言い出すと思った!」と半ば叫べば、甘利が真剣な目をして俺を見つめる。期待の籠った視線はむず痒いが、生憎甘利の手は借りないと決めているのだ。
「俺、何でもしますよ。少しくらいなら踊れますし」
「踊れるのかよ。つーか、別に要らねーよ。人間撮らないし」
「ガーン」
ガーン、って。口で言うやつ初めて見たぞ。
ショックで真っ白になる甘利がへなへなと崩れ落ちる。断られるとは思っていなかったのだろうか。涙目になっているのが何とも罪悪感を掻き立てて来る。それでも、いらないものはいらない。
「な、なんでですか」
「なんでって。お前に手伝ってもらうほど、真面目にやってるわけじゃねーし。無かったら無かったでいいかなって」
「うぅうう……春先輩とのデート計画が……」
「でーと? あっ!」
(そういうことか!)
こいつ、手伝うとか言っておきながら、それを狙っていたのか!
泣き真似をしていた甘利がさっと視線を逸らす。誤魔化そうとしたってそうはいかない。
「おっ、ま……! 油断も隙もねえな!」
「好きはありますよ。春先輩にだけですけど」
「そっちの〝すき〟じゃねーよ!」
バシッと甘利の頭を軽く叩く。痛みに呻くが、そもそも騙そうとした奴が悪い。机に突っ伏した甘利が潤んだ瞳でこちらを見つめてくる。……顔がいいだけに破壊力も抜群だ。
(ったく、そんな目で見るなよな)
調子狂うだろーが。
「そんな顔しても、デートはしねーよ」
「……でも、一緒に出かけたらもしかしたらいいの撮れるかもしれませんよ?」
「はあ? んなわけ……」
「ほら。俺の身長なら、春先輩が普段撮れない高いところとかも撮れますし」
「あ?」
「今日なら俺も部活休みですし、放課後、どうですか?」
ね、と言われ、甘利が顔を覗き込んでくる。一瞬身長マウントを取られたことにイラッとしたが、覗き込んでくる甘利が捨て犬のような顔で見て来るので、つい溜飲を下げてしまった。
(こ、いつ……!)
わざとやってんだろ、その顔……! じゃなかったらもはやテロだ、テロ!
(俺はそんなに安い男じゃねーぞ!)
「っ、嗚呼もう、わかったっつーの! 一緒に行ってやるよ!」
「本当ですか?!」
「ただし! お前は絶対に撮らねーからな!」
「はい!」
「あと、デートじゃねえから」
「ええっ!?」
声を上げる甘利に「そこは〝はい〟だろうが」と突っ込めば、寂しそうに俯く。また似たような表情をし出したが、今回は折れるつもりはない。ふんとそっぽを向いていれば、甘利はしばらくの間無言になると、「……わかりました」と小さく頷いた。
「それでいいです。俺が春先輩ともっと一緒にいたいだけなので」
甘利の言葉に、俺は口を尖らせる。なんというか、こういうのはちょっと、むず痒い。
「本当に、撮るのは俺じゃなくて大丈夫なので」
「何だよ、突然」
「春先輩なら、無理でも撮ろうとしそうなので」
「そんなことしねーよ」
(……たぶん)
自分の言葉に、内心自分で付け加える。やらないとは言い張れない。実際、ちょっとは撮ってやろうと思っていたし。
「空でも猫でも木でも建物でも草でも石でも、先輩ならきっと素敵に撮るだろうから。俺はそれを傍で見られるって特権があれば十分です」
「……お前、それ自分で言ってて恥ずかしくねーの?」
「まあ、わりと」
「だろうな」
くす、と笑えば、甘利も笑う。頬よりも耳が赤くなっているところは、ちょっとだけ可愛いと思った。もちろん、後輩に対する〝可愛い〟だ。
「でも、先輩のことで意地張っても意味ないですから」
「そ、そうかよ」
「それに、俺がデートだって思ってる分には、先輩の迷惑にならないですから」
へら、とだらしない笑みを浮かべる甘利に、俺は数秒考え――言葉の意味に一気に顔が熱くなる。
(こいつ、懲りずにまたそういうこと……!)
「先輩、楽しみですね」
「っ~~~! 俺は楽しみじゃない!」
満面の笑みで告げる甘利に、俺はバッと立ち上がった。一発殴って目を覚まさせてやろうかと思ってしまうくらい、盲目過ぎて恐ろしい。
俺は込み上げて来る羞恥を振り切るように、部屋を出た。廊下をズンズンと進んで、途中で明日の放課後の事を何も決めていないことに気が付いた。
(すれ違うのも嫌だし、さすがに決めておいた方がいい……よな)
自分から戻るのはむかつくけど、仕方ない。
進んできた廊下を戻り、俺は教室を覗き見る。机にうつ伏せになっている甘利は、未だ耳が赤くなっていた。
(こんなに恥ずかしがるんだったら、あんなこと言わなきゃいいのに)
馬鹿だよな、本当。でも変な手を使ってこられるより、こうして真っ向勝負を仕掛けて来るところは、中々気に入っている。もちろん、後輩として、だが。
(明日、飯くらい一緒に行ってやってもいいかもな)
なんて。
「あま……」
「あーもう先輩可愛すぎでしょ。これいつか絶対理性飛ぶ……やべー……はあ……」
(やべーのはお前だよ)
感心した気持ちを返して欲しい。俺は甘利の弁当を引っ掴むと、その頭に叩き落した。「痛い!? アレっ!? 先輩!?」と騒いでいる甘利にベッと舌を付き出してやる。
「せいぜい理性飛ばねーようにちゃんと見張ってろよなバーカ!」
「うえええっ?! ま、まさか聞いて……!」
「ヘンタイ野郎!」
俺は吐き捨てると勢いよく教室の扉を閉めた。けたたましい音が周囲に響くが、知ったこっちゃない。
(くそっ! 戻らなきゃよかった!)
苛立ちと羞恥に顔を真っ赤にしながら、俺は最初よりも早足で廊下を進んだ。
次の時間、甘利の事を振り切るように授業に励んだ結果、俺は小テストで生まれて初めての初めての満点を叩き出した。
「本当にすみませんでした」
「……」
次の日。昼飯の時間になって早々、教室まで乗り込んできた甘利はその場で土下座し始めた。クラス中が突然のことに沸き立つが、俺としてはこんなところでこんなことをして、女子に刺されないかという不安しかなかった。話を聞いた秋人がゲラゲラと笑っている。夏生は甘利に「順序は大切だ」と念を押されている。
(なんで当事者の俺よりも目立ってんだ、この二人)
まあ、お陰で刺される可能性が少しでも下がるなら、別に構わないが。
じとっとした目で甘利を見れば、びくりと肩を震わせる。
「本当にすみませんでした。あれはちょっと本音が漏れちゃっただけと言いますか……」
「本音なのか」
「すみません」
甘利の謝罪が光の速さで差し込まれる。顔を上げない甘利に、俺は大きくため息を吐いた。
(別に、それに関しては怒ってはねーんだけど)
本音も何も、いなくなったと思っていた人が帰ってきたら、そりゃあびっくりするだろう。その時、タイミング悪く甘利の本音が聞こえてしまっただけで。
(でもなんつーか……ああいうの聞かされて〝まじでそういうことで好きなんだ〟と再認識したのが気まずいっつーか……)
いや、うん。考えないようにしておこう。これ以上考えるのはダメな気がする。
踏み込みそうになったガードの下から抜け出し、俺は甘利を見る。いつの間に顔を上げていた甘利と目が合った。
「春先輩と目が合った……可愛い……」
「通報していいか?」
それ、最早珍獣扱いだろ。俺は男で人間だ。可愛くもないし、目が合うのも珍しくはない。
再び差し込まれる光の如き謝罪。それを最早流し聞きつつ、俺は今日の予定を確認する。
(最後の授業は数Aか。あの先生なら長くなることはないよな)
せっかく今日は朝から晴れているのだ。写真を撮る撮らないは別にしても、時間は多い方がいい。俺は甘利のおにぎりを一つ弁当袋から盗んだ。昨日今日の迷惑料だ。別に、うっかり飯を買いに行き忘れたわけでは断じてない。
足を組む。甘利が不思議そうな顔で俺を見上げた。
「LHRが終わったらでいいよな。待ち合わせ場所は校門……いや、やっぱ昇降口で」
「えっ」
「何だよ、行かねーの?」
手作りのおにぎりをもぐりと食む。いつも食べているおにぎりよりも随分と大きいが、その分中身は特別だ。もう一口噛めば、白い米に染みている焼き肉の味に目を輝かせる。中から出てきたのは、なんとカルビだった。
(さすが贅沢おにぎりだな!)
仕方ない、カルビに免じて許してやろう。甘利は夏生と秋人に言われ、隣の席に腰を下ろした。今日はその席の住人も来ているが、いつも友達と中庭で食べているらしいから問題はないだろう。甘利の重箱に驚くクラスメイトを横目に、俺は「んじゃ決まりな」と口にした。
「遅れる時は連絡するわ」
「う……」
「甘利?」
「っ、春先輩とデートに行けるなんて……! 俺っ、幸せ過ぎて……!」
「ばっ、! 離せこらっ! 抱きついてくんな! つーかそもそもデートじゃねーし!」
「それでもいいです。俺が勝手に思ってるだけなので! はあ……春先輩いい匂いする……」
「ヒィッ! わ、わかった! わかったから離せ馬鹿っ!」
ぎゅううううっと甘利の馬鹿力で抱きしめられる。見ていた秋人が「あははは! マジでラブラブじゃん!」と笑い転げている。あいつは本気で痛い目見せないと気が済まなくなってくる。夏生が「あんまり騒いでやるな」と擁護しているが、それが余計に痛いのに気づいているのだろうか。否、絶対に気付いていない。
すんすんと服を嗅がれる。その瞬間、全身に鳥肌が立った。
(こいつッ、まじで一発ぶん殴っていいか!?)
「離せ変態クソ野郎っ!」
「嫌です。もう少し……」
「っ、あと三秒で離れなかったらお前のこと本気で嫌いになるからな!」
途端、甘利の手が離れた。解放される身体に思わず詰めていた息を吐き出す。
両手を降参するように掲げている甘利を、ちらりと伺う。どこか拗ねているようにも泣きそうになっているようにも見えるのは、気のせいだろか。甘利は視線を彷徨わせると、しゅんと肩を下げる。
「離しました……ので、その……嫌いになるのは、勘弁してください」
「~~っ、ぷはっ!」
渋々と言わんばかりの顔で言う甘利に、俺はつい吹き出してしまった。
(こいつ、素直過ぎんだろっ!)
ぷるぷると震える甘利。本当に俺に嫌われるのが嫌なのだろう。
(可愛い奴だなー)
まじで犬みたいだ。うちの犬よりも従順かもしれない。込み上げる笑いを堪えていれば、甘利の不安そうな顔が俺を見上げる。その反応がよりうちの犬を思い出させて、俺は甘利の頭をぐしゃぐしゃに撫でた。
「わっ」
「言うこと聞けてえらいなーお前は」
「ちょっ、何するんですかっ」
「何って、別に後輩可愛がってるだけだろー?」
わしゃわしゃと黒い癖っ毛を撫でていれば、甘利の呻く声が聞こえる。耳を真っ赤にして、頬まで染めた甘利はかなりの羞恥を感じているらしい。「や、やめてください」と涙目で懇願する様子に、周りの女子たちが卒倒していた。これ以上は周りに被害がでると手を離せば、むすっとした顔で見つめられる。
(こいつ、こんなんでも見栄えいいのかよ)
髪もぼさぼさだし、顔も茹でだこになってる癖に。
「……ずるいですよ、春先輩」
「? 何が?」
「なんでもないです」
ふるりと首を振って、髪を整える甘利。何の話だと秋人と夏生を見れば、「うわ。こっち見んな」と心底嫌そうな顔であしらわれた。つーかうわってなんだ、うわって。
(ひっでーやつら)
はあ、と大きくため息を吐く。もういい。さっさと飯食って昼寝でもしよう。食べかけのおにぎりを再び手にすれば、甘利がキョロキョロと所在なさげに周囲を見回している。「そこで食っていーよ」と告げれば、甘利は逡巡した後、「いえ、今日は自分の教室で食べます」と立ち上がった。
「そ? んじゃ、午後も頑張れよ」
「はい。先輩も」
甘利の声に軽く手を振って見送る。ふと、出入り口で甘利が振り返った。
「春先輩」
「なんだよ、お前も早くしねーと遅刻――」
「デート、楽しみにしてますね」
そう言って笑う甘利に、クラスはシンと静まり返る。数秒してどっと押し寄せて来る喧騒に、教室内は阿鼻叫喚に包まれた。
「イケメンの威力パネェ!」
「キュン死にするぅううう!」
「一瞬自分の事かと勘違いしそうになったわ! 恐ろしい子……!」
「いやマジ、男でも惚れそうになったわ……」
「青井! アンタ甘利君のこと幸せにしてやんなさいよ!」
「いや。なんで俺が……」
(そもそも付き合ってもいないのに)
何言ってるんだという目で見つめていれば、「いいから! わかったわね!?」と詰め寄って来る女子に、俺は静かに頷くしかできなかった。