「半年ほど前のことだ」
諜報部のバルシアは、芝居がかった抑揚と
城塞都市国家シュタークとガルス共和国の外交官のトップ同士による会談はのっけから波瀾含みだった。
ガルス共和国の外交官が切り出したのはラクーアの
「返還」という言葉にシュターク側の外交代表たちは色めき立った。しかし、ガルス側は意に介さない。地理的見地からも歴史的見地からも元来、ラクーアはガルスに属するのがあるべき姿である。現在、シュタークは、そのラクーアを不当に占拠している。即刻、「返還」せよ。それがガルス共和国の主張だった。しかし、地理的見地、歴史的見地について言うならば、シュターク側にも、ラクーアをシュタークの領土と主張するだけの論拠はある。どちらかというと、ガルス側の主張の方が難癖と言って良いものだった。その上、あくまで平和的解決を望むと言いながら、言下に武力行使をも辞さないことを匂わせて、その会談は終わった。
以降、度々会談の場が設けられた。その五回目。並行線で解決の糸口が掴めず、ガルス側は、いよいよ武力行使に踏み切り兼ねないという状況。その状況打開のために、シュタークからはクレダイン王の名代としてリルム王女が、ガルスからは宰相ミルガスがそれぞれ主座についた。
その席上でリルム王女が「月の石」の話を持ち出したのだ。建前とはいえ、
この話に乗るか反るかでガルス共和国の真意を測ることができる。
平和的解決に乗らず、建前を捨てて武力行使に出ようものなら、シュタークとガルス、どちらに義があるかは第三者にも明白となる。義だけで他国は動かせまいが、利だけでもなかなか動かない。義と利が揃って初めて他の近隣諸国に支援を仰ぐことも可能だ。そうなるとガルスが孤立する可能性も無くはない。
逆に話に乗るならば、互いに準備不足なミッション。シュタークにとっては、貴重な時間が稼げる。第三国への根回しや防衛手段の構築。いま、シュタークに必要なのは、時間だった。
その意図は、宰相ミルガスにも明らかだったのだろう。彼の顔が青ざめ、次にどす黒くなり、最後に真っ赤になって怒り出した。
果たして。
一時間の休憩ののち、外交長官と共に議場に戻ってきた宰相ミルガスは、先ほどの顔色はどこへやら。条件付きで話に乗っても良いと切り出した。
「平和裏に事を進め、国民に憂いを与えまいとするリルム王女殿のお心使い、大変感銘を受けました。我がガルス共和国としても、同じ気持ちでございます。是非とも月の石を掛けた競争で勝敗を付けようじゃないですか。ただし」
「ガルス共和国が先に月の石を持ち帰った暁には、勝利の印としてリルム王女、あなたを私の三番目の妻に迎えることにいたしましょう。それが条件だ」
ミルガスがそばに控える外交長官に耳打ちする。
「ふん。たかが十五の小娘の浅知恵なんぞに遅れをとるか。まして不具の者になど」
「左様で」
敢えてリルム王女に聞こえるように言う性根の悪い態度に、リルム王女は顔を真っ赤に染めて拳を震わせた。
ミルガスは、リルム王女に個人的な興味は一切ないとも言い放った。だが、その舌なめずりせんばかりの
しかも、リルム王女と婚姻関係を結ぶということは。勝てばラクーア地方どころか、シュターク全土を掌握するための足がかりを与えてしまうことになる。
ミルガスはその打算から、この勝負を受けると言っているのだ。
しかし、この話を持ちかけたのはシュターク側だ。引くに引けない。
外務省の面々がこの条件に不平を述べ、リルム王女に自制を求めた。
「姫殿下、奴らの挑発に乗ってはなりません」
「そうです。いったんここは引いて、条件の見直しを」
リルム王女は、拳が真っ白になるまで強く車椅子の手すりを握りしめていた。数秒後、拳を緩め、ふぅと息を吐いたのちに、リルム王女は静かに言った。
「いえ、ありがとう。大丈夫です」
彼女を心配そうに覗き込む外務省のメンバーに、控え目な笑みを返す。そうして、正面を向くと、宰相ミルガスをきっと睨みながら言った。
「良いでしょう。その代わり、月の石を持ち帰る勝負が決するまでは、ラクーアの件は棚上げ。ガルスからシュタークへ武力侵攻を仕掛けることも、その一切を禁じます!」
「良いですとも。では、条件を書き加えて、サインをするとしましょう」
🌜
遠くから野生の
「あれは、姫殿下の
バルシアが言うと、
「あぁ。プルルだな。あいつも姫殿下と同じくらい月に行きたいのさ」
そう言ってジルギスはカイトを見た。
カイトは、夜空にかかる満月を見上げながら、
「僕も。僕も月へ行きます」
そういうカイトの目には、あの時の、十年前、月の
右腕を目いっぱい月に向かって突き上げた。開いた手の平に満月がすっぽり隠れている。
「僕につかまれ!」
十年前のあの時、渦巻く嵐の中でリルム王女へ向けて伸ばした腕。この腕で王女を助けたように。今度はこの腕を伸ばして月へ行く。そして、再び王女を助ける。
――姫殿下は、絶対に僕が守る。
そう、心に誓うのだった。
しかし、月へ行くと決意を述べるカイトの言葉を聞いてもジルギスの憂いを湛えた瞳の曇りは晴れた様子はない。
――まだだな。まだ駄目だ……。
ジルギスは、なんとしてもこのミッションを成功させたいと思っていた。そのためには、この少年を炊きつけて、その気にさせる必要がある。と、同時に、危険を極力取り除き、安全を確保し、成功の確率を高くする必要がある。何がなんでも、このミッションは成功させなきゃならない。だけど、そのために何をしても良いとか、どんな犠牲を払っても良いってわけじゃない。王女はもちろん、この少年も守って、その上で成功させなきゃ意味がない。
――それが、大人の責任ってやつだ。そのためには、まだ足りない。
🌑
「まぁ、まぁ。こんな夜中に男たちばかりで。何をこそこそやっておられるのかしら?」
いつも傍に控えているガーベラが居ない。きっと就寝後にこっそりと独りで部屋を抜け出してきたのだろう。
「これは、これは姫殿下。なぁに、男衆が夜中に集まって話すことなど、下世話な話と相場が決まっております。とてもお聞かせするような代物では……それよりも。夜風は体の芯が冷えます。お身体に良くないですよ」
リルム王女は、軽口を叩くバルシアを冷ややかな目で見上げた。元々の生まれ持っての資質に加え、諜報部という仕事柄、女性を篭絡するための技術については積極的に磨いてきたバルシアだったが、どうにもリルム王女には通用しない。
――大抵の女性には効くんだがな。姫殿下には効果なしか。これだから、子どもは面倒くさいんだ。
バルシアは自分の技能が通じないのは、リルム王女がまだ未成熟なせいだと自分に言い聞かせた。もちろん、そうではないと、頭では分かっているのだが、少々自分のプライドが傷つく。
そんなバルシアを無視して、リルムは車椅子をカイトの前に押し出した。
「
リルム王女の一言に、居合わせたバルシアもジルギスも
「え、え? 何を……」
「何って、まさにこれよ。
「そ、それは……」
バルシアもジルギスも姫殿下の次の言葉を聞いてからでないと助け船の出しようがない。下手な失言で墓穴を掘るわけにはいかないからだ。
「あなた、人と一緒だと転移出来ないんですってね? オリディアさんから聞いたわ」
――そっちだったかぁ。
カイトは最悪の秘密がバレたわけではないと知り、内心安堵した。バルシアも今しがた少年に話したガルスとの秘密協定の話ではなかったと、ほっとした。
――うーん。オリディアか。
一方、ジルギスの方は、それを聞いて心穏やかではなかった。連日の特訓だし、いずれ誰かに見つかるとは思っていたが……。ジルギスは副長の指揮系統を無視した密告に鼻を鳴らした。小さな造反行為ではあるが、良くない傾向だ。もっとも。本人には悪気なく、女性同士の気易いお喋り程度に考えていた可能性はある。あまり荒立てずに釘を刺すとするか。
「す、すみません! 頑張って克服します! ボク、姫殿下を絶対に守ります!」
「あ、バカ!」
口外無用と言ったばかりなのにこれだ。まったく、最後の一言が余計だ。そう、バルシアは小さく舌打ちする。
――これだから、子どもは面倒くさいんだ。
「え? え、えぇ……。ありがとう」
幸いリルム王女は、カイトの一言が、隣国との密約に触れての発言とは思わなかったようだ。バルシアは、ほうっと静かに息を吐いた。
「でも、心配ないわ! 私に任せて頂戴。私に良い考えがあるのよ!」
リルム王女はそう言うと、思わずカイトが赤面してしまうほどの笑みを少年に向けたのだった。