物理科学省の省長を務めるガシュミットは不機嫌な態度を隠そうともせず、眉間に皺を寄せながら、咳払いを繰り返していた。それでも王女の手前、魔法省の面々を実験室から追い出そうとしないだけマシだった。彼は魔法省とそのメンバーを嫌っていた。というよりも、魔法そのものを嫌っていた。
彼にとっては、科学だけが唯一信頼に値するものだった。科学は人々の暮らしに光をもたらし、健康と利便性と豊かさを与えてくれる。科学だけがすべての人々に等しく恩恵をもたらす祝福であり、希望だ。ひきかえ魔法は、生来の資質に大きく依存する力であり、不公平で不安定で不完全極まる呪いだった。
「オホッ! ン! ン!」
ガシュミットが咳払いをするたびに大きなお腹がゆれた。
「さ。始めて」
リルム王女に促され、最後にもう一つ、もったいぶった咳払いをして会釈をすると、ノシノシと実験装置に近づいた。
腰高の真っ黒なテーブルの上には、二つのガラス球があった。二つのガラス球はガラス管で繋がれ中央の栓が閉られている。一方のガラス球にだけピンク色のガスと沢山の紙片が入っていた。もう一方は手回し式のポンプに繋がっていたが、中には何も入っていない。
「えー、こちらは姫殿下のご指示を賜り、本省で作成した実験装置です。ハンドルを回すことで、ポンプの力でガラス球の中の空気を吸いだすことができ……ます」
ガシュミットは魔法省の面々に背を向けて立つと、重そうにハンドルを回し始めた。最初は魔法省の面々が気に入らない様子だったが、装置の解説をするうちに調子が出てきたのか、だんだんと口調が熱を帯びてくる。
「逆止弁で空気が戻らないようになっておりまして。ハンドルを回すことで、どんどん中の空気が抜き取られます。大気圧というものをご存知でしょうか。日頃、意識することはありませんが、我々はこの大気圧というものに常にさらされておるわけです。空気を抜くと、この大気圧を取り去ることができます」
カイトたち魔法省の面々は、これから何が起きるのか、そして王女はいったい何を見せようというのかと、ただ食い入るように実験装置を見ていた。
ガシュミットの額に汗の粒がじわりと浮き上がり、ふぅふぅと息遣いが荒くなる。頃合いをみて、リルム王女が言った。
「こんなものかな。ありがとう。さぁ、
――
カイトは、自分のことだと気が付くのに数秒の時を要した。
物理科学省のガシュミットって人も、魔法省のジルギスさんもオリディアさんも眼鏡をかけてはいない。この場にいる中で眼鏡をかけているのは……、僕だけだ。
――ま、そんなもんか。
平民出のカイトが王族の方と直接会話を交わす機会なんてそうはない。名前なんて覚える価値すらないだろうし、まして十年前の事件の時に大怪我を負わせたのが自分だと知っているのであれば、なおさら名前なんて呼びたくもないだろう。ただし。
――なぜ僕なんだ?
カイトは、なぜ自分が指名されたのかと
その様子を、はぁはぁと息を切らしながらガシュミットが横目で睨んでいる。万一、
カイトは静かに手を伸ばして二つのガラス球を繋ぐ栓を開いた。グリスの塗られたガラスの栓は、思ったよりも
途端にポンッと大きな音がした。ピンクのガスと細かい紙片が一方のガラス球から吸い出されて、もう一方のガラス球に充満した。ピンクのガスは二つのガラス球に広がり、色が薄くなった。
「うわっ」
音と勢いにカイトは驚いた。
「ね?」
「なにが……?」
なにが、「ね?」なのか分からず、カイトは相手が王女殿下なのも忘れてタメ口で聞き返した。しかし、かすかに古い記憶に触れるものがある。
「あっ!」
カイトが記憶を呼び覚ます様子をじっとみていたリルム王女は、にこりと微笑み、もう一度言った。
「ね?」
今度はカイトにも分かった。
「
「そう、それ! 驚きよね。月には空気が無いのよ! だから、こんな風にみんな
ガシュミットは我が意を得たりと、早口にまくし立てた。
「姫殿下、まさしく。まさしく、ご明察の通りにございます。ただ、より正確を期するならば、真空が吸い込んだのではなく、大気圧で押し出されたのです。これが大気圧の力です。目に見えず、日頃我々は意識することはありませんが、かように大きな力がかかっておるのです……」
ガシュミットの講説はまだ続きそうだったが、ショーはお開きだと言わんばかりにリルム王女はさっさと実験室から退室してしまった。魔法省の面々も王女に従って静かに退室する。ガシュミット一人を残して。
「ですから、大気圧のかかる場所と大気圧のかからない場所とを直接繋いでしまいますと、このように空気は激しく押し出されるのです。その力は……」
「あの……省長?」
物理科学省のメンバーの一人が、おずおずとガシュミットに声をかける。
「皆さん、もうお帰りになられたようですが……」
――やっぱり。姫殿下は僕のこと分かってる。
実験の仕上げをカイトにやらせたのは、十年前の少年がカイトだと分かっていたからだ。だとすると、急な魔法省への召喚状も王女が手を回したのに違いない。目的がなんなのかはわからないが。
それでも、さすがに自分が賢者ジダールの孫だとまではバレてないだろう。そうであってほしい。
――あ。
その時。カイトは、王女の足の大怪我を謝罪するタイミングをすっかり逃してしまっていることに今さらながらに気がついた。
――どうしよう……。
もう、彼の頭の中は月どころではなくなっていた。
🌔
次に王女が目指したのは、城の裏庭だった。物理科学省は魔法省と同じ城の西翼にあったため、さほど移動せずに済んだが、物理科学省から裏庭まではかなりの距離がある。
王城の中央を突っ切ればそれほどでもないのだが、王族の者か、一部の特権を有する者でないと通行できない区画も多い。見習い魔道士を連れて移動するとなると、大きく迂回せざるを得ないのだ。
張り巡らされた外回廊には大小様々な階段も多い。車椅子のリルム王女には移動だけでも一苦労かと思われた。
しかし、王女の車椅子は特別製だった。腰のあたりのレバーを引くと、円形だったタイヤが三角おにぎりのような形に変化し、ギアが切り替わって低速トルクモードになった。十段程度の階段ならば抱えて貰うことなく、自分で車椅子のまま登り降りすることができる。
お付きの者は、手を貸そうとするとまた叱られるので、本当に手が必要な時以外は、静かに後ろをついてくるだけだった。
こうして裏庭へと移動しながら、副長のオリディアが先ほどの疑問を繰り返す。
「姫殿下。月に空気が無いのは分かりました。しかし、そもそもジダール様ほどの魔道士は国じゅう探してもおりませんが……」
「月に空気がないから、
「はい」
「なら。行くしかないでしょ?」
「どうやって?」
今度は副長の質問を聞き流し、王女は一番後ろからトボトボとついてくるカイトに目配せした。
「行くのよ。転移魔法でね」
みんなの視線が自分に集まっているのを感じて我にかえったカイトは、大いに慌てた。
「転移って……あ、僕!? 待ってください。いったい月までどれだけの距離が……」
「知らないわ。それもこれからよ」
🌕
リルム王女とお付きの者、ジルギスとオリディアが見守る中、カイトは十年間封印してきた転移魔法を披露することになった。出自はともかく、転移魔法についてはバレてしまっている以上、今さら隠しても仕方ない。
場所は城の裏庭。ここなら、十分な広さもある上、人目もなく、実験にはうってつけだった。
「ずっと使ってなかったので。できるかどうか……」
「できる、できる。眼鏡くんなら出来るって! さぁ、やってみせて」
何を根拠に……。そう思いながら、渋々念を練っていく。
しかし、流れ込んでくるのは、じいちゃんの記憶、ばあちゃんの言いつけ、月の
それでも、カイトはなんとか念を練り上げると、一気に解き放った。
「
十年ぶりの転移魔法。しかし、十年の間に彼の心身は大きく成長していた。その効果は大きく、ブランクを感じさせない。カイトは一発目の跳躍で約三十リューグの転移に成功した。
「さすがだな。姫殿下が見込んだだけのことはある。これだけの距離を転移できる魔術師はそういない」
ジルギスの称賛をリルムは我がことのように喜んだ。
転移魔法の最大の利点は、遠く離れた地へ、時間のロスなく移動可能な点にある。方向も視線の方向。しかし、距離のコントロールが難しい点と、長距離を移動するにはしっかりと念を練り上げなければならない点、転移後に硬直状態に陥る点が問題だった。
何より最大の問題点は、転移先の状況がわからないこと。開けた平地とばかりは限らない点だ。起伏に富んだ土地では、地中に埋まってしまったり、空中に投げ出されたりすることになる。
何度か試すうちに、カイトの跳躍限界がおよそ五十リューグであることがわかった。一瞬にして、王都のあるトーキョからナグヤまで。転移魔法というものはとてつもない能力だった。数々の問題点に目を
「宇宙に出ちゃえば何もないから平気よ、平気」
リルム王女はあっけらかんとそう言い放つ。地中深く生き埋めになる恐怖を味わい、続いて大きな木の幹に半身埋まり、最後に高所からの落下で腰を殴打して
🌖
その夜。見回りの衛兵が裏庭ですり鉢状の沢山の穴に気がつき、城内が一時騒然となったのは言うまでもない。