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第11話 手紙の所在

 母が住むアパート。一階の一番奥の部屋。折り畳み傘を閉じて、それを玄関扉の横に立てかける。

 母は私の部屋の合鍵を持っているけれど、私はこの部屋の鍵を持っていない。

 インターフォンを押して数秒。どたどたと足音が近づいてくると、鍵が回される音がして扉が開く。

 首元がよれたTシャツに、下はトランクスを履いただけの大柄の男が、私を見て、驚いた顔をした。


「誰?」


 部屋の中から母の声がする。


「海」


 それに男性は、部屋の中のほうを振り返って大きな声で返す。

 母の、何人目か分からない恋人。確か母は「あっくん」と呼んでいた気がする。顔を合わせるのは、二回目か三回目だ。どうせまたすぐ別れるのだろうと思って、色々なことは覚えるのを辞めてしまった。

 一緒に住んでいるという話は聞いていないけれど、これまでの恋人たちと同じように母の家に入り浸っているのだろう。


「海? どうしたの、珍しい」


 母が怪訝そうな顔をして部屋の奥から姿を見せる。


「ちょっと話したいことがあって。なぎちゃんのこと」


 幼いころ。母になぎちゃんの話をするとき、「なぎちゃん」と呼ぶと怒られた。甘えるような呼び方をするなと言う、その目が怖かった。だから、母の前では、そのころから「渚」と呼ぶように変えていた。


 でもそれに、何の意味があったのだろう。


「……あっくん、悪いんだけど、ちょっと出てくれない?」

「は? この雨の中?」

「お願い」


 母は男の頬に唇を寄せる。母の甘い声も、そういう絡みも、いつの間にか、それを目の当たりにしてもあまり何も感じなくなっていた。


 母の恋人は面倒だという表情を隠すことなく、溜息を吐きながら一度部屋の中へと戻っていく。それから、ズボンと上着を着て戻ってくると、アパートの部屋を出て行った。


 それを見送って、母は私に「入って」と部屋の中に入るよう促す。

 直前まで煙草を吸っていたのだろうか。部屋の中は換気扇が回っているけれど苦い香りが漂っている。

 テーブルの上にはスタンド付きのミラーと化粧品が転がっていた。その中には、私の部屋から拝借していった口紅やアイライナーもあった。

 座ったらと母に言われ、空いている場所に腰を下ろす。母は、キッチンの換気扇をつけて煙草の箱を手に取ってから、小さく舌打ちをした。


「ちょっと煙草買ってくるわね。話はそれからでもいいでしょ」


 母は煙草の空き箱を握りつぶし、いっぱいになっているゴミ箱に押し込むようにして捨てる。それから、カーテンレールにハンガーで掛けていたコートを羽織ると、財布を片手に持って出かけていった。


 昔から、母は片付けが下手な人だった。髪型や洋服は綺麗でも、部屋の中は荒れている。お酒の缶が転がっていたり、吸殻がいっぱいになっていても気にしていないような灰皿。シンクには、いつも洗い物が溜まっている。母と二人暮らしのときもそうだった。

 中学生のときに一度、母が出掛けている間に部屋の片づけをしたことがあった。褒めてもらいたいとは思わなかったけれど、帰宅した母の「どういうつもり?」という第一声はとてもショックだった。「いつも部屋が汚いって言いたいわけ?」と歪む母の顔が忘れられない。母はきっと、そんなことも覚えていないだろうけれど。私が、自分の部屋の掃除をするたびに。そして、母が荒らした部屋を見るたびに、その言葉を思い出すことすら、知らないのだろうけれど。


 床に転がったままのペットボトルを拾い上げようとして、やっぱり触らないでおこうと手を引っ込めた。


 それでも煙草の匂いだけはどうしても気になって、少しだけ窓を開けて換気をしようと立ち上がる。


 ベランダへと続く窓を開ければ、しとしとと雨が降っている。冬の冷たい空気が、部屋の籠った空気を追い出していく。心の重さも拭い去ってくれるようで、息を深く吐き出した。


 母が戻ってきたら、どう話を切り出そうか。静かな部屋では、嫌でも気持ちが落ち着いてきてしまう。母は、何かを教えてくれるだろうか。また知らないとはぐらかされるのではないか。私はそのとき、面倒だという目に、態度に、怯むことなく、母を詰めることができるだろうか。


 窓の横に置かれていたチェストの上、無造作に置かれているチラシやハガキに、風に煽られたレースのカーテンがぶつかった。慌てて窓を閉めて、床へと飛ばされそうになったそれを整える。そのとき、ふと一段目の引き出しが薄く開いているのが目に入った。


 いつもなら。いつもの私なら、スルーしていた。けれど、今日はそれがとても気になった。何か薄いものが挟まっているのが見えたからかもしれない。


 引き出しの取っ手に指を掛ける。手前に引き出せば、挟まっていた『薄い何か』が、滑り落ちるように引き出しの中へと落ちて行った。


『海へ』


 可愛らしい、水玉模様の封筒。その真ん中には、癖のある丸い字でそう書かれていた。たったそれだけで、それが、なぎちゃんからの手紙であると分かった。


 そっと、引き出しの中からその手紙を掬い上げる。裏返せば、封はもう既に切られていた。シールで留めてあったのか、封筒の一部が、薄皮がめくれたように破れている。


 母は、なぎちゃんからの手紙を持っていた。なぎちゃんが会いに来たあの日から、ずっと。私には一言も、何も教えてくれないまま。


 そっと封筒の中に入れられている便箋を取り出す。それは、かさりと小さな音を鳴らした。封筒と同じ、水玉模様があしらわれた便箋。


――海へ。元気にしていますか?


 そう書き出された手紙からは、なぎちゃんの声が、聴こえる気がする。

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