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第10話 最後のページ

 なぎちゃんの日記を読んでから、気力が戻らない日々が続いている。疲弊した心のせいで、部屋の掃除もままならない。何とか自分の見た目だけは取り繕って、出社する日々。


 ドレッサーの上に置いた、なぎちゃんの日記帳の上に、なぎちゃんの写真を伏せて置いていた。なぎちゃんの目を見ることができなかった。


 外は曇り空が広がっている。夕方には雨が降るという予報だった。吐く息はすっかり白く残るようになった。駅のホームで、電車を待つ人の列に並びながら、冷える指先を揉むように擦り合わせた。


 なぎちゃんの家へもう一度行かなければいけないと思っているけれど、なかなか足が向かない。早く黒太郎くんに日記を返さなければと思うけれど、どんな顔であの子に会えばいいのかも分からない。駅に来るたびにそんなことを考え、溜息ばかりが零れる。


 電車がやって来るアナウンスが構内に流れて、電車が目の前のホームへと入って来た。前に並んでいる人に続いて、ゆっくりと前に進んでいく。そんな私の腕を、誰かが不意に掴んで、引っ張った。


 驚き見れば、黒太郎くんが私を見上げていた。なぜ、彼がここにいるのだろうか。状況をなかなか飲み込めず、思考が停止してしまう。後ろの人に押され、慌てて列から横に抜けた。


「黒太郎くん。どうして、なんでここに?」

「あんたが教えてくれたんだろ」


 そう言われ、前回なぎちゃんの家に行ったときに、何かの話の流れで自分が住んでいる町を教えたことを思い出した。そこからここに辿り着けたことは分かったけれど、その答えは、どうして黒太郎くんがここにやって来たのかという理由にはなっていない。


「ひとりで、来たの?」

「うん」

「どうして」

「落ち込んでるんじゃないかと思って」


 そう言って、黒太郎くんの丸く、黒い瞳が私をじっと見つめる。私の腕を掴むその手に、ぎゅっと力が込められた。私は頷くことも、何か言葉を返すこともできなかった。ただ、掴まれていないほうの腕で顔を隠すことしかできなかった。すすり泣く私と、それをじっと見つめる黒太郎くんはきっととても目を引いたことだろう。けれど、それを気にする余裕は、情けないことにどこにもなかった。



 会社には体調不良で休むと嘘を吐いて、私のアパートに黒太郎くんを連れてきた。荒れている部屋を思い出して、五分ほど玄関先で黒太郎くんには待ってもらった。大急ぎで散らかっているものを集めて、適当な場所に隠す。


 ある程度片付けが済んでから、黒太郎くんを部屋の中へと招き入れる。彼がちょこんとテーブルの前に座ったのを見て、施設のほうで行方不明として騒ぎになっていないかと不安が過る。


 黒太郎くんに施設の連絡先を教えて欲しいとお願いすると、一度面倒くさそうな顔をされた。心配かけてはいけないことを説明すれば、渋々といった感じだったが教えてくれて、施設に電話をかけることができた。


 電話には優しそうな声の女性が出てくれて、自分となぎちゃんの関係、それから黒太郎くんが今、私の家に来ていることを説明した。女性は最初驚いた様子で受け答えをしてくれていたが、予想以上にすんなりと状況を理解してくれた。それから、黒太郎くんに電話を代わって欲しいと言われ、スマートフォンを黒太郎くんへと渡す。どんな話をしているのかは分からなかったけれど、黒太郎くんは「うん」「うん」と素直に話を聞いていた。その些細な姿からも、彼が施設でとても良くしてもらって育ってきていることが理解できた。



 電話が終わったようで、黒太郎くんからスマートフォンが返ってくる。電話はもう切られていた。

 家に子どもが好きそうな飲み物はなくて、温かいお茶を淹れる準備をする。ケトルでお湯を沸かしながら、棚の奥に仕舞ってあったティーポットを取り出して、麦茶のパックをその中に入れた。  

 いつの間にか、黒太郎くんは私のドレッサーの前に立っていた。伏せてあったなぎちゃんの写真を手に取ると、彼はそっと丁寧にそれを立てた。


「ごめんね」


 そう声をかければ、黒太郎くんがこちらを振り返る。私の言葉の続きを待つように、黒太郎くんは何も言わない。


「黒太郎くんが私に怒った理由、ちゃんと分かった。なぎちゃん、会いに来てくれていたのに、ひどいことをしてしまった」


 謝って許されることだとは思えない。知らなかったなんて、そんなのは言い訳でしかない。日記に書かれている以外にも、なぎちゃんは何度も私に手を伸ばしてくれていたのだろう。私はそれに気付きもしないで、自分の世界ばかり見つめていた。いつかなぎちゃんが迎えに来てくれるって思っているのに、なぎちゃんが来てくれたことも知らず、その声や伸ばしてくれた手を探そうともせず。なんて、愚かなのだろう。


「オレも……ずっと、そう思ってた。渚のこと、いっぱい傷つけて、ひどいって。どんな顔でここに来たんだろうって。……でも、違うんじゃないかって思うようになった」


 そう言って、黒太郎くんは日記帳を手に取る。そして、私の傍まで来ると、それを差し出した。


「ちゃんと、最後まで読んだ?」

「……うん」

「最後の、一ページも読んだ?」


 その意味が分からず戸惑ってしまう。黒太郎くんは、差し出した日記帳のページを開く。私が知っている一番最後のなぎちゃんの日記のページも飛ばして、いくつもの空白のページを越えた、日記帳の一番最後のページ。


「どうして渚が、『海に渡して』って置き手紙を残したのか、ずっとオレ、考えてたんだ。日記を見つけたときから。渚が、あんたが落ち込むような現実を突きつけたかっただけだとは、どうしても思えなかったから」


「ねぇ」と黒太郎くんは、私に訴えかけるように、そこに書かれている文字を指でなぞる。


「渚が伝えたかったのは、これだよ。きっと渚は、ちゃんと分かってたよ。あんたが、渚に会えなかった理由」


 日記帳に手を伸ばす。その手はひどく強張って、震えてしまう。ああ、と情けない声が口から零れ落ちる。


「なぎちゃん」


 私もその文字を指でなぞって、ぎゅっと胸に抱き寄せた。日記帳に体温なんてないはずなのに、それはとても温かいもののような気がした。


『海へ。私は、なにがあっても、あなたの味方。潮風に乗って、あなたに会いに行く。渚より』


 なぎちゃんの癖のある丸い字で、日記帳の最後のページに記されていた。同じ場所に書かれていた日付は、なぎちゃんが亡くなる二日前の日付だと黒太郎くんが教えてくれた。字は所々震えているようによれていたけれど、とても力強かった。



 十六時になる前に、黒太郎くんを駅まで送った。小雨が降って来ていて、傘を半ば押し付けるような形で貸した。次に会ったときに返して、と言えば、黒太郎くんは笑って頷いてくれた。


 なぎちゃんの町へ向かう電車がホームにやって来る。黒太郎くんが乗って数秒後、排気音と共に扉が閉まる。ゆっくり動き出した電車の中、黒太郎くんは控えめに私に手を振ってくれた。その姿を見て、なぎちゃんの日記に書かれていたことを思い出した。黒太郎くんと、初めて会ったというあの日の日記。


――中野翼くん。昔、お父さんにもらった黒太郎に似ている。小さい黒猫みたいで、可愛い男の子。

――初めはあまり話をしてくれなかったけれど、最後は手を振ってくれた。嬉しい。


 なぎちゃんが感じた愛しさや嬉しさが分かった気がする。

 また会える日を願って、電車が見えなくなるまで私は黒太郎くんに手を振った。

 この線路が続く先に、なぎちゃんが住む町がある。頬を撫でる冷たい風さえ、その先になぎちゃんがいる気がして、愛しいと思った。



 そして、私はその足で、母の家へと向かうことを決意した。

 どうしても知りたかったのだ。


 最期になぎちゃんが私に渡そうとしていた手紙の行き先を、どうしても知りたかった。


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