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第9話 渚の日記

 その後、黒太郎くんと再びなぎちゃんの家に戻って、他愛もない話をして過ごした。なぎちゃんの家の電気は既に止められていて、明かりがないと家中が真っ暗になってしまうから、部屋の中に明かりが必要になるまで。


 黒太郎くんと一緒に家を出る。海に夕日が沈んでいく。藍色とオレンジが混ざった空はとても綺麗だった。「オレはこっちだから」と言う黒太郎くんを見送って、私も大家さんに帰ることを伝えた。


 今日も作業は進まなかった。けれど、心はどこか満たされている。なぎちゃんが生きた町で、なぎちゃんと生きてきた子と、なぎちゃんやお祖父ちゃんに触れることができた気がする。



 アパートに戻ってきたころには、外はすっかりと濃紺に包まれていた。コンビニで買った夕食とお風呂を済ませ、黒太郎くんから預かったなぎちゃんの日記、そして、持ち帰ってきたなぎちゃんの写真を並べて置く。


 一度、ゆっくりと息を吸って吐いて、そっとその表紙を開いた。


 日記には、一日目と同じように他愛もないことが綴られている。毎日書いていたわけではないようで、日付が飛んでいることもあった。


 それでも、なぎちゃんがあの町で、穏やかで平穏な毎日を送っていることがよく分かった。

 なぎちゃんは高校を卒業してから、事務職に就いているようだった。それから、地域のボランティアに積極的に参加していることが日記から分かった。


 六年前のクリスマス。参加したボランティア活動で、黒太郎くんに出会ったことが記されていた。児童養護施設のクリスマスパーティーで、二人は出会ったらしい。


中野翼なかのつばさくん。昔、お父さんにもらった黒太郎に似ている。小さい黒猫みたいで、可愛い男の子』

『初めはあまり話をしてくれなかったけれど、最後は手を振ってくれた。嬉しい』


 ツンとした黒太郎くんの表情を想像して、思わず口角が緩む。

 黒太郎くんの話は、数ヶ月ごとに登場した。なぎちゃんは、何度もその児童養護施設に足を運んでいるようだった。なぎちゃんの文面から、徐々に二人の距離が近くなっていくのが分かった。


『翼くんのご両親が経営する『こぶた弁当』でお昼を買った。美味しかった。翼くんのお母さんは、体が弱いらしく何度も入退院を繰り返しているとのこと。翼くんと早く一緒に住みたいと何度も言っていた』


「こぶた弁当……」


 黒太郎くんがお弁当を出していたあの袋に書かれていた名前だ。そうか。あれは、ご両親が作ってくれたお弁当を食べていたのか。今も繋がりがあるということなのだろう。でも、大家さんは確か「施設に戻っている」と言っていた。ということは、まだ、お母さんの体調は戻っていないということなのだろう。胸がチクりと痛んだ。


 そして、日記の中の季節も進み、五年前の春。なぎちゃんが、黒太郎くんと養子縁組を組んだことが書かれていた。


『翼くんと普通養子縁組を組んだ。私が今日から、翼くんの二人目のお母さん』


 普通養子縁組についての知識がなく、スマートフォンのブラウザで検索をする。普通養子縁組は、実の親子関係も保持したまま養親となることができる制度なのだそうだ。配偶者がいなくてもなれると書いてあった。だから、なぎちゃんは未婚のままで黒太郎くんと養子縁組を組むことができたのかと納得する。


 その後の日記から、親子関係を結んだなぎちゃんと黒太郎くんは、実の両親とも頻繁に交流を持っていたことが分かった。そこをないがしろにしないところが、丁寧で優しい、なぎちゃんらしい。


『翼くんに黒太郎に似ているって話をしたら、「渚の家では黒太郎って名前にする」と言い出した。私が大事にしていたものに名前が似ているのが嬉しいらしい』


 その後から、日記の中でも、黒太郎くんのことは『翼くん』ではなく『クロ』と書かれるようになっていった。黒太郎くんの小学校に授業参観に行ったこと、お祖父ちゃんと釣りに出掛けていったことなど、親子、そして祖父と孫のやり取りが、微笑ましく綴られていた。手に取るようにイメージできて、クスクスと思わず笑ってしまうことも多かった。

 そして、日記は、今から三年前にまで進んだ。


『お祖父ちゃんが亡くなった』


 短く、そう綴られていた。秋の始めのことだった。


「え……?」


 その翌日の日記を見て、掠れた声が零れ落ちた。


『お母さんに電話をした。お葬式には行かないと言って電話を切られた。海も行かないと言っているらしい』

「……お母さん」


 こめかみが痛む。ひどい。なぎちゃんがお母さんに報せていたなんて知らなかった。私は何も聞いていないし、行かないなんて一言も言っていない。ページの端を持つ指が震える。なぎちゃんは、一体どう思ったのだろう。そこにはなぎちゃんの気持ちは何一つ綴られていなくて、苦しい。


 次の日記は、二週間ほど日にちが空いていた。お葬式は無事に済んだこと。黒太郎くんが気丈に振る舞ってくれていて、気落ちしなくて助かっていると書かれていた。


 それから、日記はよりポツポツと日にちが開くようになっていた。なぎちゃんが、お祖父ちゃんの死を引きずっているのだと思った。お祖父ちゃんのことだけではなく、きっとお母さんのことがあったから、余計に。


 そして、その一年後の秋。


『胸にしこりがあって、病院に行った。検査待ち』


 心臓が大きく拍動した。その数週間後の日記には、『乳がんだった』と記されていた。天井を仰いだ。がんだったのか。唇から息が漏れる。なぎちゃんは、ひとりでそれを受け止めていたのか。零れ落ちそうになる涙を奥歯を噛み締めてこらえる。そして、また日記に向き直った。


『海に何度も手紙を書いてる。でも、一度も返事がない』

『海に会いたい。会えなくなっちゃう前に、会いたい』


「なぎちゃん、私も会いたかった。ごめん、ごめんね」


 声が涙で揺れる。なぎちゃんの傍にいてあげたかった。黒太郎くんを置いていってしまうかもしれないと不安だったことだろう。その手を握って、温めてあげたかった。大丈夫だよ、一緒に考えようって言ってあげたかった。


 そして私は、その次のページを開いて、両手で顔を覆ってしまった。


『海に会いに行った。でもそこに住んでるのはお母さんだけで、海には会えないって言われた。でも、手紙を渡してもらえるようにお願いした』

『海は、私に会いたくないって言っているらしい。ごめん、私が約束破ったからだよね』


 違う。違う! 会いたくないなんて言っていない!

 なぎちゃんが会いに来ていたなんて知らなかった。気が狂いそうで、髪を何度もぐしゃぐしゃと掻きまわした。


「お母さん、なんで教えてくれなかったの!」


 呼吸が乱れる。苦しい。胸が張り裂けてしまいそう。泣き声が勝手に口から溢れ出てしまう。

 日記はそこで終わっていた。なぎちゃんはどんな気持ちで、旅立っていったのだろう。最期に私に宛ててくれた手紙は、渡そうとしてくれていた手紙には、なんて書いてあったの。


「なぎちゃん、ごめんなさい。本当にごめんなさい」


 私も会う努力をしていたら。なぎちゃんの「迎えに行くから」という言葉だけを待つのではなくて、私からも会おうとしていたら、何かもっと違ったかもしれない。なぎちゃんが絶望したまま、旅立っていくことはなかったかもしれない。


 黒太郎くんが私を見て、激怒した気持ちが分かる。なんて残酷なことをしてしまったのだろう。

 テーブルに突っ伏して、私は大きな声を上げて泣いた。

 窓の奥。カーテンの隙間から、朝陽が差し込んでいる。日記を読んでいる間に、夜が明けてしまった。


 テーブルの上に置いた写真立ての中で、なぎちゃんは優しく微笑んでいた。


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