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第8話 見せたいもの

 見せたいものがあると言う黒太郎くんと一緒になぎちゃんの家まで来た。その道中、一度だけ、まだハーフパンツを履いている黒太郎くんに「寒くないの?」と訊いて、「別に」と返されるだけの短い会話をした。それ以外、私たちは何も話さなかったけれど、不思議と居心地の悪さはあまり感じなかった。


「あ、先に入っていて。一応、大家さんに声かけてくるから」


 玄関の鍵を開けようとしていた黒太郎くんに言う。黒太郎くんが頷いてくれたのを見てから、隣の家へと回った。インターホンを鳴らし、玄関先まで出てきてくれた大家さんの奥さんに、黒太郎くんと一緒になぎちゃんの家にいることを伝えた。鍵はどうするかと訊かれ、黒太郎くんが持っているから大丈夫だと返事をする。また帰るときには一言声をかけることを約束して、小走りでなぎちゃんの家へと戻った。


 家の中に入ると、黒太郎くんが「こっち」と呼ぶ声がする。居間のほうから呼んでいるのかと思ったけれど、どうも高い位置から聴こえる。「二階」と言われて、ようやく黒太郎くんが階段の上から声をかけてくれていると分かった。


 古い家らしい、勾配が急な階段を上がる。その正面に部屋があり、黒太郎くんから入るように促された。

 陽が良く入っていて明るい。埃が舞って、キラキラとしているのが見える。


「ここ、渚が使ってた部屋」

「そうなんだ」


 落ち着いた色味の家具で揃えられている。。部屋の隅にはドレッサーが置いてあって、私のアパートに置いてあるものとデザインが良く似ていて驚いた。性格は違っても、好きなものや嫌いなものは昔からよく似ていた。それが大人になっても変わっていないことが嬉しかった。なぎちゃんに会えていたら、こういう話でも盛り上がったかもしれない。


「それで、これ」


 黒太郎くんが、私に一冊の分厚い本を差し出す。表紙には十年日記と書かれていた。


「日記?」

「うん。渚の日記。オレも、この前初めて見つけた」

「見せたいものって、これのこと?」


 黒太郎くんが頷く。受け取ったけれど、見てもいいものなのだろうかと戸惑う。日記なんて、勝手に見られて嬉しいものじゃない。むしろ、見られたくないものだったりするし。うぅん、と唸ってしまう。


「見ても良いって、渚が言ってた」

「え?」

「これ」


 そう言って、黒太郎くんは一枚の付箋を私に見せる。


『クロへ。この日記を見つけたら、いつか海に渡してくれる? 渚より』


 癖のある丸い字が、そう綴っていた。置き手紙のようなフランクな調子。『海』と書かれた自分の名前を、何度も見てしまう。


 なぎちゃんが、私に。


「だから、見て」

「うん。黒太郎くんは、もう見たの?」


 うん、と彼は頷いた。そう、と私も頷き返す。

 そっと表紙を開く。中は、数行ごとにスペースが分けられている。一番最初のページ、一番上には、今から六年前の西暦と日付が書かれていた。近くのスーパーへ買い物に行ったこと。お祖父ちゃんと観たテレビが面白かったこと。そういうこと他愛もないことが続いたあと、最後には『日記って何を書いたらいいのだろう』と『笑』の文字付きで書かれていた。微笑ましい。


「長いから、帰ってから読んだ方がいいと思う」

「うん、そうしようかな。ありがとう」


 次のスペースに移そうとしていた視線を止めて、もう一度表紙を閉じる。持ってきていたハンドタオルで日記帳包んで、バッグの中に入れた。


「まだ、時間ある?」

「うん、あるけど……」

「じゃあ、ついてきて」


 そう言って、黒太郎くんは部屋を出て階段を下りていく。慌てて追いかければ、また外へ出るのか靴を履いている彼に「早く行こう」と急かされた。

 外へ出れば、隣の奥さんが玄関先を箒で掃除していて、私たちを見て「お出かけ?」と尋ねてくる。黒太郎くんはそれに「うん、そう」とだけ返事をした。どこへ行くのかも分からない私は、ただ「行ってきます」と奥さんに頭を下げる。そのとき、ふと視界の端で、黒太郎くんが靴の踵を踏んで履いているのが見えた。


「靴、ちゃんと履いた方がいいよ」


 何が気に障ったのか。黒太郎くんはムッとした表情で私を見る。


「悪くなっちゃうから、靴が」

「……はいはい」


 仕方ないな、と言う様子で、黒太郎くんは指を引っ掛けて、靴に踵を入れる。それを見ていた奥さんが、


「なぎちゃんもよく言ってたわ」

と笑うから、そこでようやく黒太郎くんのその態度に合点がいった。なぎちゃんと同じように言う私のことが、気に入らなかったのだろう。


「行くぞ」


 不機嫌そうな声が、勝手に数歩先を歩いていた黒太郎くんから飛んでくる。私はもう一度、奥さんに頭を下げてその背中を追いかけた。



 黒太郎くんは慣れた足取りで、坂道を軽々と上がっていく。きつい、と漏らす私を彼は「そんな靴で来るから」と笑った。ヒールは低いけれど、パンプスで歩くような場所では確かにないかもしれない。そのイタズラっ子のような笑みはとても子どもらしく、愛らしい。居間の棚に置かれていた、あの写真の面影が未だ残っている。


 情けなく息を切らしながら、辿り着いた場所は霊園だった。たくさんのお墓が並んでいて、黒太郎くんはその間の通路を進んでいく。途中、いくつか水桶が掛かっている場所があって、黒太郎くんはそこから一つ手に取った。その隣にある水道で水を汲む。水が入って重たくなった水桶を黒太郎くんが持つ前に、「私が持つよ」と声をかける。持ち手には『相生』と書かれていた。


 また、黒太郎くんが先を歩く。坂を上がって、町よりもさらに高い場所に来たからか、ここからはより一層、海がよく見えた。


 黒太郎くんが足を止める。「ここ」と言われ見れば、相生家の墓があった。


「この町に来たことないなら、ひげじいの墓も来たことないでしょ」

「……ひげじい?」

「じいちゃん。渚と、あんたの。ひげ、もじゃもじゃだったから」

「え、ああ、たしかに。立派なあごひげあったもんね」

「うん」


 黒太郎くんの言う通り、お祖父ちゃんは、立派なあごひげをこしらえていた。まさか、黒太郎くんにそんなあだ名をつけられていたなんて。思わず吹き出してしまう。


「笑いすぎ」

「ごめん、ごめん。ちょっとひげじいは予想してなかったから」


 深呼吸をして息を整える。気持ちを落ち着かせて、それから、「うん」と黒太郎くんの言葉に答えるために頷いた。


「初めて来た。お祖父ちゃんのお墓。ありがとう、連れて来てくれて」

「ん」


 短い返事。顔を背けたのは、照れてしまったからだろうか。お線香などお墓参りの準備はしてくることができなかったけれど、墓石に丁寧に水尺で水をかけていく。

 目線を合わせるようにしゃがんで、お祖父ちゃんに挨拶をするために静かに手を合わせた。お祖父ちゃんにも、お祖父ちゃんが生きている間に会うことができなかった。見送ってあげることもできなかった。ごめんなさい、と心の中で何度も謝る。


「じいちゃんがいつ死んだのかは、知ってたの?」


 黒太郎くんの声に目を開ける。


「ううん」

 首を横に振った。


「ごめんなさい。分からない。亡くなったのは知っていたけれど、たぶん……だいぶ後になってから、亡くなってしまったっていうことだけ教えてもらってる」


 教えてもらったと言っても、何かの話のついでのように母がポロッと零したのを聞いた程度だ。


「そっか」

「……どうして、なぎちゃんの日記とか、お墓とか、教えてくれたの?」


 前はあんなに私に対して怒っていたのに。そう尋ねれば、黒太郎くんは少しだけ言葉を考えるように「んー」と唸った。


「たぶん……本当なんだって思った。何も知らないって言ったこと。だったら、教えてあげたいって思った。渚は……どんだけ頑張っても、もうあんたに会えないから」


 黒い上着のポケットに、黒太郎くんは手を突っ込んで肩を竦ませた。眉を下げて笑うその表情は、優しくて、そしてとても、悲しそうだった。


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