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第6話 うそつき

 来た道を戻っていく電車。往きと同じように、乗客はとても少なかった。朝のように眠気を感じることはなく、頭の中はなぎちゃんの家で出会った男の子のことでいっぱいだった。


 なぎちゃんは、何度も私に手紙を出していたと言っていた。

 一体いつから。


 男の子が嘘をついているとはとても思えなかった。それならどうして、私はその手紙を一度も見たことがないのだろう。送られてきていることも、何も知らなかった。


(あの人なら、何か知ってるかな)


 母なら、何か知っているかもしれない。私も母も、なぎちゃんと当時住んでいた家から引っ越ししてしまったけれど、お祖父ちゃんと母は何かしら連絡を取り続けていた可能性もある。

 男の子の話ぶりから、手紙が住所不明で戻されることもなかったのだろう。ちゃんと、どこかには届いていた。


 じゃあ、それは、一体どこ?


 どれだけ考えてみても、私ひとりではその答えを導き出すことはできない。母に訊いてみようか。でも、自分から会いに行くのも電話をするのも気が引ける。今日一日で、心が随分とすり減ってしまった。母の、あの、面倒くさいという目に耐えられる気がしない。

 電車は、いつの間にか私の住む街へと帰ってきていた。ドアが開く。夏に比べ、随分と陽が短くなった。まだ十五時だというのに、街全体がどこかオレンジ色っぽく見える。吹く風に、海の香りは感じなかった。たった二時間の距離を移動しただけなのに。走ってきた線路の先を見つめる。当たり前に、なぎちゃんが住む町は見えない。



 電話は、母のほうからかかって来た。次の日の、朝のことだった。

 仕事へ行く準備をしていると、スマートフォンが着信音を鳴らした。母の声は、とても上機嫌だった。後ろに恋人がいるのだろうか。時折、母に何かを話しかける男性の声が聞こえてくる。

 私も一晩明けたおかげで、母と冷静に向き合うことができそうだ。


「ふぅん。渚、子どもがいたの」


 なぎちゃんの家であったこと、それからなぎちゃんの息子だという男の子に会ったことを伝えたけれど、母はあまり驚いてはいないようだった。


「うん。だから、まだちょっと、片付けは進んでいなくて」

「そう。まぁ、これから連絡はあんたのほうにしてもらうように大家には言っといたから。そのほうがいいでしょ、お互いに」


 お互いに、とは、きっと母と大家さんのことを言っているのだろう。これ以上、自分自身に何か負担がないと分かっているから、機嫌が良いのかと納得がいく。だから、家の片付けが予定通り進んでいなくても、この人は私を咎めないし、気にもしていないのだろう。


「それで、海」

「なに?」

「なにか、あった?」

「……なにかって?」


 母の質問の意味も意図も分からず、聞き返す。

 なぎちゃんの家であった出来事は全て話をした。何か、物のことを言っているのだろうか。

 母は「やだ」「分かるでしょ」と笑った。キンキンとその声が耳に響く。いやだな、と思う。この後に続く言葉を聞いたら、私はもっとこの人のことを嫌いになると予告されているようだ。


「私たちに、何か遺してるものよ。通帳とか、なかった?」


 下品だ。なんて下品な人なんだろう。信じられない、と喉まで出かかった。慌てて口を噤む。無理やり飲み込んだそれのせいで、手が震え出す。どうしてこの人は、こういう期待を何一つ裏切ってくれないのだろう。


「あんたの祖父ちゃんの遺産は、私、貰えなかったのよ。渚に全部あげたの、あの人。だから、渚がたっぷり持ってるはずなのよ」


 私はあの子の母親だから貰える権利があるはずだと母は言う。頭が痛い。その痛みを紛らわせたくて、額をトントンと叩く。こういうときばかり、「母親」だと大きな声で言うのはなぜだろう。なぜ、二十年も会っていない娘に対して、「私はあの子の母親」だなんて、平気な顔で言えるのだろう。


「ごめん、分からない。通帳とか、そういうところまでは見てないから」

「ええ? あ、まさか、その息子とかいう子が持っていってるんじゃないでしょうね。養子でしょ? 血の繋がりもないくせに」

「ごめん、もう私、仕事に行かないと。電話、切ってもいいかな」


 悔しかった。薄情だと言った、大家さんの言葉が。別れたあとのなぎちゃんのことを知らない私は、『これ』と一緒なのかと。あなたたちだって、私のことは何も知らないだろうと言ってやりたい。母の、こんな話を聞かなければいけない娘の気持ちを。こんな顔ばかり見せられる娘の気持ちを、何一つ、知らないだろうと。


「次はいつ渚の家に行くつもりなの? そのときは必ず見てきてよ、そういうところも」

「ねぇ、お母さん。渚からの手紙、届いてない?」


 母が黙り込んだ。息を飲む音が聞こえた。しばらくしてから、「知らないわよ」とトーンの低い声が返って来た。


「引っ越ししたあとの住所なんて、あの子に教えてないもの。送って来るはずないじゃない」

「うん、そうだよね」

「そうよ。ねぇ、それよりも。次はいつ、」

「嘘つき」


 通話を切った。切ってしまった。このあと、彼女が不機嫌になったとしても、別にいいと思った。心臓がバクバクと強く鼓動して、息が苦しい。


 一方的に嘘つきだと言われたこと、通話を切られたことが気に入らなかったと言っているように、すぐに母親からの着信が入る。私はそれを無視して、スマートフォンの電源ごとオフにした。

なぎちゃんの手紙を母は知っている。知らないとあの人は言ったけれど。あの間は、あの息の飲み方は、嘘をついているときの母の癖だ。


ー―お母さん、黒太郎がどこにもないの。知らない?


 引っ越しした先の家で、荷解きをしていたとき。お父さんからもらった黒い猫のぬいぐるみは、どこを探しても見当たらなかった。失くさないように、大事に段ボールに詰めていたのに。

 尋ねる私に、母はすぐに答えなかった。


――……知らないわよ。失くしちゃったんじゃないの?


 少しだけ間を置いて、それから「知らない」と言った。今日と同じように。

 黒太郎は捨てられていた。当時付き合っていた恋人にフラれて、私に八つ当たりをする母が自分から話してくれた。「あんな汚いぬいぐるみ、捨てちゃったわよ」って。


 嘘だったのか、とショックだった。何より、知っていたんだ、と悲しかった。


 あの日と同じような悲しみに心が曇る。苦しくて仕方がなくて、その場にしゃがみ込んだ。

 どうして、ばかりが頭を巡る。どうして、知らないと嘘を吐くのだろう。どうして、手紙を渡してくれなかったのだろう。どうして、その存在をなかったことにしてしまうの。

 なぎちゃんと私は、あなたにとって何なの。


「なぎちゃん、ごめんね」


 ぐずぐずとした声は、私しかいない部屋に落ちていく。なぎちゃんとの思い出が、なに一つない部屋の中に。


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