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第5話 なぎちゃんと黒太郎

 なぎちゃんが、お母さん。

 その言葉を脳内がうまく飲み込んでくれない。呆然とする私の腕を、その男の子は無理やり引っ張って立たせようとした。


「早く帰れよ、お願いだから」


 命令口調で懇願される。

 悲しそうというべきか、それとも怒りに満ちているというべきか。男の子の複雑な表情を見ていたら、私自身、もうここにはいるべきではないと思ってしまうのが自然なほどだった。

 大家さんから借りていた鍵を手に取り、荷物をまとめる。お邪魔しました、という私を、居間の中で佇むその子は一度も振り向かなかった。


 隣の、大家さんが戻っていった家のチャイムを鳴らす。スピーカーはついていない、呼び鈴だけの機能。しばらくすると、「こっち」と遠くから声が聴こえた。


「庭のほうに回ってきて」


 大家さんの声だろう。勝手に入っていいのだろうか、と足が惑う。それから、来てと言われているのだから勝手ではないのか、と思い直して、家と塀の間の細い通路を通り、庭があると思われる方へと足を進めた。


 建物の角を曲がれば小さな庭があって、大家さんは縁側に胡坐をかいて座っていた。何かをハサミで切る音が聴こえる。近くまで行って、何か、種類は分からないが、植物の手入れをしているのだと分かった。


「今日は帰るので、鍵、お返しします」

「ああ。随分と早かったな」


 大家さんはこちらを見ずに掌だけを私に向けた。


「荷物があまりなかったのか」


 掌に置かれた鍵を、大家さんはそのままシャツの胸ポケットに入れる。質問に曖昧に笑って返せば、ようやく彼は私へと視線を向けた。しばらく、じっと私の顔を見てから、何かを察してくれたようで「ああ」と頷いた。


黒太郎くろたろうか。来たんだろう」

「……黒太郎?」


 昔、お父さんがくれた黒猫のぬいぐるみを思い出す。同じ名前だ。


「子どもだよ、今朝、教えた」

「……黒太郎って、名前なんですか?」

「本名は違う。つばさ、だったか。でも、本人も、なぎちゃん……あんたの姉さんも、そう呼んでた。昔持ってたぬいぐるみに似ているんだと」


 気に入っているあだ名らしいと大家さんは笑った。似ているだろうかと、ぬいぐるみの顔と男の子の顔を記憶の中で比べてみる。大きくて真っ黒な目は、確かに似ているかもしれない。なぎちゃんがあのぬいぐるみのことを覚えてくれていたのだと嬉しくなる。それと同時に、なぎちゃんに子どもがいることすら知らなかったのだとショックを受けている自分がいる。お母さんは、知っていたのだろうか。


「……姉には、子どもがいたんですね」


 それも、結構大きな子。小学生とは言っていたけれど、身長や顔つきから察するに高学年くらいだろうか。今、自分が二十七歳で、仮にあの男の子が十二歳だとしよう。十五歳という若さで、なぎちゃんは子どもを産んだのだろうか。写真立てやアルバムの写真を見る限りでは、そこまでのことは分からなかった。


「なぎちゃんの、本当の子じゃないよ。黒太郎は」

「え?」

「あんた、本当に何も知らないんだな」


 呆れたような口調で大家さんは言う。すみません、と謝る。


「養子にもらってきたんだよ。ハタチのときだったか、それくらいのときに」

「養子、ですか」

「そう。まぁ、ワタシも詳しいことは知らないけどね」


 だから、あんなに大きな子が息子なのか、と納得する。


「結婚はしていたんですか?」

「いいや、してないはずだよ。じいさんとなぎちゃん。黒太郎が来るまではずっと二人で暮らしてた。だから、養子をもらってきたって言ったときは驚いた」


 なぁ、母さん。と、大家さんは部屋の奥へと声をかける。柔らかな返事と共に、男性と同じ年齢くらいの女性が顔を出した。大家さんの奥さんだろう。頭を下げれば、奥さんは驚いたように「あら」と声を上げた。


「本当になぎちゃんそっくりなのねぇ」

「妹の広中海と申します。ご迷惑をお掛けしております」

「迷惑だなんて。私は良いと思ってるんですよ。黒太郎ちゃんの気持ちの整理がつくまでは、家の中がそのままでも。私も、寂しくって。おじいさんにも良くしてもらっていたし、なぎちゃんのことも突然で」


 そう言う奥さんを、大家さんは「そういうわけにもいかんだろう」と苦く諭す。


「あの子もまた施設に戻ってるんだ。いつまでも、ここに来させるわけにはいかん。学校もあんまり行ってないようじゃないか」

「そうは言いますけど。なぎちゃんととても仲が良かったのだから、仕方がないわよ。ねぇ?」


 奥さんは私に同意を求めるように首を傾げる。何も知らない私は、同意も否定もできず、また曖昧に頷くような、首を横に振るような仕草しかできない。ただ、私も「ここに来てはいけない」と頼まれていた伝言を伝えることはできなかった。追い払われたこともあるが、それを彼に伝えることは、とても酷なことのように思えたから。


「今日はもう、帰られるの?」


 奥さんが私に尋ねる。


「はい。すみません、近いうちに必ず、また来ます」

「あなたも忙しいでしょう。ゆっくりでいいから」


 縁側から手を伸ばした奥さんは、私の肩を優しく撫でてくれた。その手は、薄手のコート越しでも温かいと分かる。


「それにしても、本当になぎちゃんにそっくり。戻って来たのかと思っちゃった」


 うふふ、と笑う奥さんの目に涙が溜まるのが分かった。ごめんなさいね、と奥さんは声を詰まらせる。それだけで、なぎちゃんがここでとても愛されて生きてきたことが分かって、胸の奥がツンと痛むように熱くなった。


「小さいときから知っているから」

「じいさんが小さい子連れてなぁ。家を貸して欲しいって来て驚いた」


 大家さんが当時を思い出して、懐かしむように笑う。


「あの……姉……渚は、ずっとここに住んでいるんですか?」

「ああ。二十年くらいかな、ずっとだよ」

「そうだったんですね」


 知らなかった、と思わず小さく声が漏れた。電車で二時間もあれば着くところに、なぎちゃんはずっと住んでいたのか。来ようと思えば、いくらでも会いに行ける場所に。

 大家さんと奥さんは顔を見合わせた。


「あんた、本当に何も知らないんだな」


 そうさっきと同じ言葉を紡ぐ大家さんの声には、呆れや軽蔑はなく、同情や哀れみが含まれているように私には聴こえた。ただ、俯くことしかできなかった。


 潮風が、私の髪を揺らしている。


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