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第4話 男の子

 なぎちゃんの家にある物、そのほとんどを処分するものとして業者に引き渡すことを考えてここにやって来た。

 しかし、いざ物を目の前にすると、キッチンにあるまな板やフライパン、食器棚のコップ一つ一つ、そのどれもが、なぎちゃんが生きてきた証のように思えて、全て残しておきたい気持ちにかられるけれど、現実的にそれは難しい。


 せめて、と和ダンスの上に並べられていた写真立てと、引き出しの中に入っていたフォトアルバムを、持って帰るためにテーブルの上に置いた。ただ、私の準備が悪く、すぐに持って帰ることは難しそうだ。次にここに来るときは箱か何かを持って来よう。

 一階のものは大体見終わり、二階の様子も見に行こう、と居間を出たときだ。玄関扉のすりガラス越しに、人が立っているのが分かった。鍵を開けようとしているのだろうか。二枚戸がガタガタとぶつかって音を鳴らしている。


「あれ?」


 くぐもった声が扉越しに聞こえた。開かない、と言っている。幼い声だ。よく見れば、人影の背も大人に比べると小さい。大家さんが言っていた子どもだろうか。それから、そういえばと思い出す。ここに入ったとき、私は鍵をかけなかった。つまり、鍵を開けようと鍵穴を回せば、逆に施錠されてしまう。


 三和土に下りて、内鍵に指を掛ける。反対側では、もう一度鍵穴に鍵を挿し込もうとしていたのだろう。こちらの気配に気付いたその人影の動きが止まった。

 錠を開けて、二枚戸の、入ったときと同じ側の戸である右側を開ける。

 秋晴れの、陽の眩しさに一瞬目が眩む。じゃり、と靴底がアスファルトの上の小石を踏む小さな音がした。私よりも頭一つ分ほど小さい男の子が立っている。その子が、この季節にはもう寒そうなハーフパンツから伸びる足を、一歩後ろに引いた音だった。

 まだ、あどけなさの残る、まん丸になった大きな瞳が、私を見ている。写真の男の子より、少し大人びているけれど、よく似ている。


「……渚?」


 その子は、私を見て、そう小さく口を開いた。大きな黒目が、困惑しているように微かに左右に揺れている。それでも口は、笑みが広がるように口角が上がっている。


「あ……私は、渚の妹……えっと、双子の、妹。広中海といいます」


 そう答える私の言葉はひどく詰まってしまった。この子が、なぎちゃんのことをずっと待っているのだと、その表情だけで分かってしまったから。

 その子は、「海」と私の名前を、口の中で繰り返すように呟く。そして、私がなぎちゃんではないことを理解したからなのか、丸い目の端を釣り上げた。


「何しに来たんだよ」


 その声には怒気が含まれていると分かる。「あの、」と答えようとする声が震える。相手は子どもだと分かっていても、心臓がバクバクとうるさく鼓動を早めた。


「家の整理を。大家さんに頼まれて」

「勝手なことすんな。邪魔」


 私を横に押しのけるようにして、その子は家の中へと上がり込む。呆然としてしまう。慣れた足取りで居間のほうへと進んでいくその子の背中を、慌てて追いかけた。


 男の子は、積まれていた座布団をひとつ下ろすと、そこに胡坐をかいて座った。テーブルの上にビニル袋が置かれる。ビニル袋には、『こぶた弁当』とオレンジ色の文字で書かれていた。男の子はその中から、プラスチック製の、よくコンビニとかで売られているようなお弁当を取り出した。割り箸を紙の袋から抜き出して、割る音が聴こえる。


 自分の左手首につけた腕時計を見る。ちょうど、昼の十二時になろうとしている。


「いつもここで、ご飯を食べてるの?」


 投げかけた言葉に返事はなかった。私に背を向けたその子は、私を振り返ることもしなかった。話なんてしたくないのだろう。それはよく分かったし、いつもの私なら、もう何も話しかけることはしなかっただろう。


 ただ、この子は、きっと、なぎちゃんのことをよく知っている。この家の鍵を持っているだけではなくて、私がここにいて、家の整理をすることにひどく怒ることができる子。なぎちゃんのことを、教えてもらいたかった。この家で、どう生きてきたのか。どんな風に過ごして、何を話していたのか。


「小学生、かな? 今日、平日だよね。学校は? もう終わったの?」


 彼の隣に腰を下ろす。気軽さを装いながら話しかけてみたけれど、視線がこちらを向くこともなければ返事もない。私のことを無視して、その子は、お弁当の隣に置かれた、お茶の入ったペットボトルへ手を伸ばす。


 大人気ないと思いながら、そのペットボトルを彼の手から遠ざけるようにテーブルの奥へとやる。そうすれば、弁当の中に入っていた何かを租借していた男の子の口の動きはゆっくりになり、その内に止まった。そして、漫画のように「ギロリ」と音がつきそうな目つきで私を睨む。

 また手を伸ばすその子から、また私もペットボトルを遠ざける。それを何度か繰り返せば、その子は深く溜息を吐いてから、「小学生。今日は行ってない」と吐き捨てるように答えてくれた。


「そっか」


 私の返事が拍子抜けだったのだろうか。一瞬、彼はポカンとした顔をして、それから「……はぁ?」と苦く笑う。でも、彼が学校に行っていないことに対して、私が咎めるだとか、何かとやかく言うつもりは最初からなかった。何か話題をと思って訊いてみただけだったから。


「これ、君だよね?」


 話題が繋がっていないことは理解しながら、なぎちゃんと男の子の写真が入った写真立てを彼の前に置く。その子は、それに視線を向ける。

 先程よりも強い目で、彼は私を見る。喉が張り付く感覚がして、唾を飲み込んだ。


「勝手に触んな」

「うん、ごめんね」


 返すね、と写真立てを彼に手渡す。その子は大事なものを守るように、それを抱きしめた。


「ねぇ、なぎちゃんとお友達だったの?」

「いきなり来て、何なんだよ、お前!」


 その質問が引き金になったのか、その子は私の肩を突き飛ばすように強く押した。その弾みで、私の体は大きくよろめいて、慌てて後ろに手をつく。


 顔を上げれば、私を睨みつける男の子の唇はわなわなと震えていた。


「これまで一度も会いに来なかったくせに!」

「それは、知らなかったから、」


 なぎちゃんがここに住んでいることも、何も知らなかった。

 大家さんには言えなかった反論を、この子には伝えなければいけない気がして、懸命に言葉を紡ぐ。


「何も知らなかったの、私。この町にいることも、なぎちゃんが死んだことも、知らなかった」

「知らない!? そんなわけないだろ! 渚はずっとお前に手紙を書いてたんだよ! 知らないわけない!」


 男の子は立ち上がり、息を切らしながら私を見下ろす。その大きな目には、涙がいっぱい溜まっているのか、ひどく潤んで見えた。


「手紙……? 私、もらってないよ」

「そんなわけない、渚はたくさん書いて、お前に送ってた! お前からの返事がなくても、ずっと書いてたんだ。 オレはずっと隣でそれを見て来た!」


 記憶の中のどの引き出しを開けても、なぎちゃんからの手紙が届いた記憶は私にはなくて、困惑することしかできない。


「隣で見てきたって……」


 男の子は黒いトレーナーの袖で、目元を擦る。


「そうだよ。隣で見てきたんだ。渚は、オレのお母さんだから」


 涙で震える声で、しかし彼は、強くそう言い切った。


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