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第3話 渚の笑顔

 車内は程よく温かく、線路を走る揺れが心地良い。何度も瞼が重たくなるけれど、初めて乗る路線で乗り過ごしてしまうのは怖い。暇を潰してくれる話し相手もなく、持ってきた文庫本を読んだり、車窓を流れていく景色を眺めたりしながら眠気と闘う。そうしてようやく、車内に目的地である駅名をアナウンスする車掌さんの声が響いた。


 ボックス席から立ち上がり、軽く体を伸ばす。乗車時に二、三人いた乗客は、すでに他の駅で降車していたようで、この車両には私しかいないようだった。

窓の向こうに、海が広がっているのが見えた。


 扉が開いて、ホームへと降り立つ。電車の中で温められた頬を、涼しい風が撫でていく。海が近いからだろうか、うっすらと潮の香りが混ざっている気がする。

 駅は無人駅のようで、改札口の近くに切符を回収するボックスが置かれている。そこに切符を入れて、改札を抜けた。小さなベンチがひとつ置かれた駅舎。その壁に掛けられたアナログ時計は、十時を五分ほど過ぎた時間を指していた。


 駅舎を出る。予想以上に海が近く、より濃く潮の香りが私の鼻をくすぐった。

海と線路、そして細い道を一本挟んで住宅や商店が並んでいる。まだ準備中の札がかかっている定食屋さんの窓には「刺身定食」という海の近さを感じさせるメニューが書かれた紙が貼ってあった。


 スマートフォンのナビアプリで住所を入力すれば、駅から割と近い場所に、なぎちゃんが住んでいた家があることが分かった。GPSが定まるのを待って、青く表示されるルートを歩き出す。

 海沿いの道を進んでいく。途中、右に曲がるようにアナウンスされ、細い道に入る。そこはゆるい上り坂になっているようで、数分もしない内に息が切れた。


 ナビから顔を上げて、周囲を見回してみる。住宅の他にも小さな商店や酒屋さん、郵便局が目に入る。

 息を切らして歩く私の前を、悠々と茶白の猫が横切って行って、思わず苦笑が漏れた。

 人が多い町ではなさそうだ。家の前で近所の人と世間話に花を咲かせている人を見かけたくらい。車通りは少なく、落ち着いた時間の流れを感じる。


「目的地は左側です。お疲れさまでした」


 ナビアプリのアナウンスがそう告げる。大きく肺に空気を取り込んで吐き出す。来た道を振り返れば、下のほうに海が広がって見えた。秋の陽射しを受けて、海面がキラキラと輝いていて、思わず感嘆の声が口から零れる。ノスタルジックな雰囲気を纏う町。映画や物語の中のようだ。


 なぎちゃんも、この景色を見て、美しいと思っただろうか。

 どんな風にこの町で暮らし、生きていたのだろうか。


 時間を忘れて想いふけりたくなる。でも、目的はこれじゃない。ナビに言われた通り、目的地があるほうへと視線を動かす。家が見つからないかも、という心配は、すぐに母方の祖父の姓である『相生あいおい』という表札を見つけて消え去った。


 古い二階建ての民家。門扉はなく、玄関が道路に面している。電車に乗っている間に母から、私の到着時間に合わせて大家さんが来てくれるらしいと連絡があった。周囲にそれらしい人は見当たらない。母から連絡先を聞いておけばよかったと思いながら、周りの様子を伺っていれば、不意に玄関扉が開いた。


 驚いて振り向いた先には、六十代くらいの白髪交じりの男性がいて、彼もまた私を見て驚いた表情をしていた。目を丸くして、頭の先から足の先までじっくりと私を見た。


「こちらの大家さんでしょうか?」

「ああ……」

「すみません、何度もご連絡をいただいていたのに、すぐに対応することができず、ご迷惑をお掛けしております。私、相生渚あいおいなぎさの妹の、広中海ひろなかうみと申します」

「妹」

「はい。双子の、妹です」

 大家さんの怪訝そうな瞳に思い当たることがあり、「双子」を強調する。

「ああ、それで」


 ひとり納得したように大家さんは頷いた。大人になった渚の顔は知らないけれど、きっと似ているのだろう。


「すぐに荷物、全部運びだしてくれる感じ?」

「あ、いえ。まずはどれくらい荷物が残っているのか確認したくて。それから、業者に頼んだりしようかと思っています。今日の夜には、一度帰らないといけなくて……。すみません、またすぐに時間を作って来ますので」

「そう。早くしてくれると、こちらとしては助かるんだけど」

「はい。できるだけ早く対応します」

「……ワタシは隣の家だから、最後、鍵を閉めて持ってきて」


 投げるように渡された鍵を受け取り、「ありがとうございます」と頭を下げる。「それじゃあ」と大家さんは言って、私と入れ違うように外へと出る。もう一度お礼を言おうと振り向いた私に、その人は「それにしても」と口を開いた。


「あんたも薄情だね」

「え……?」

「双子の姉さんが死んだっていうのに、葬式にも顔を出さずに。じいさんが死んだときだってそうだ」


 大家さんの目は、とても冷ややかに細められる。


「いつも電話に出るのは、お袋さんかい? 死んだのは実の娘だっていうのに、忙しい忙しいってそればかりだ。あんたもそうだろう」


 はぁ、と大家さんに大きな溜息を零され、鍵を握る自分の手が震えているのに気付いた。

 知らなかったのだ。知らなかったから、来ることができなかった。知っていたら、すぐに駆け付けた。お葬式にだって出たかったし、丁寧に見送ってあげたかった。そう言い返したかったけれど、それをこの人に言ったところで何にもならないことを知っている。そう思ったら、何も言葉を紡ぐことができなかった。


「それじゃあ、よろしく頼むよ」

「はい……」

「あ、それから。ここを訪ねてくる子どもがいるだろうけど、もう来るなってあんたからも言ってやって」

「子ども……?」

「ああ、男の子だよ。すぐ分かる」


 じゃあ、と言って、大家さんは玄関の引き扉を閉めた。外からの明かりが遮られて、昼間だというのに玄関は薄暗かった。しん、と音がしそうなほど静かで、この家には誰もいないのだと思い知らされる。


 訪ねてくる男の子というのは、なぎちゃんと一体どういう関係の子なのだろう。今日もその子は、ここに来るのだろうか。大家さんの口振りでは、おそらく頻繁に、今もここにやって来ていると予想できる。その子に会えたとき、なぎちゃんのことを訊いてもいいだろうか……。


「とりあえず、部屋の中を見てみよう」


 この家の中、どれくらい荷物が残っている状態なのかも分からない。時間は限られているし、私しかいない状況なのだから、それなりに早く作業を進めないと何もできないまま一日終わってしまう。


「お邪魔します」


 上がり框で靴を脱ぎ、上着を脱ぎながら家の中へと上がる。玄関の正面には階段があるけれど、二階は後から見ることにしよう。


 奥に、すでに扉が開いている部屋がある。その部屋は南側にあるようで、玄関とは違ってたっぷりと明かりを取り込んでいた。大家さんが換気のために掃き出し窓を開けておいてくれたようで、柔らかな風が入ってレースのカーテンを揺らしていた。


 リビングとして使われていたのだろうか。液晶テレビが置いてあり、中央には脚の短いテーブルがあった。その近くに座布団が丁寧に重ねられている。

 部屋の隅に置かれた、私の胸ほどの高さの和ダンスの上には、写真立てがいくつか飾ってあった。部屋の中に生活の名残りはあるものの、長いこと人が住んでいないことは、積もっている埃によって理解できた。写真立てを覆う埃を、そっと指の腹で拭う。


 お祖父ちゃんと一緒に並んで映る、私の知っているなぎちゃん。

 その隣の写真立てに視線を移す。また指の腹で拭う。中学生の頃だろうか。少し大人びたセーラー服姿のなぎちゃんが、『祝入学』と書かれた立て看板の前で、ハニかんでピースサインをしている。


 写真立て一つ一つに、どんどんと大人びていくなぎちゃんが収められている。お祖父ちゃんと腕を組んだり、友人と思われる人たちと映っていたり。そのどれもが幸せそうな笑顔を浮かべていて、つられて私の口角も上がった。


 よかった、と思う。彼女はきっと、ここで幸せに暮らしていたのだろう。


「よかった」


 写真立てに額を当てる。幼い頃、なぎちゃんが、自分の額と私の額をくっつけて、近すぎるお互いの顔をおかしそうに笑っていた日を思い出して、胸が苦しいくらいいっぱいになった。


 胸の苦しさが上がってくるように、鼻と目の奥が熱くなる。上を向いて、流れそうになる涙をこらえる。はぁ、と詰まる呼吸を解放するように息を吐いて、手に持っていた写真立てを元に戻した。そして、ひとつだけ伏せられるように倒れている写真立てに気付く。そっと手に取り表に返せば、なぎちゃんと小学校低学年くらいの男の子が頬を寄せ合って笑っている姿があった。


 二人ともくしゃくしゃに顔を崩した笑顔だ。歯を見せて笑う男の子は、前歯が一本抜けていて、それにすら愛嬌を感じる。

 なぎちゃんの表情も、お祖父ちゃんの隣にいるときとは違う。幼さや優しさ、温かさを感じさせるものだった。


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