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第2話 旅の始まり

「それで、私のところに連絡が来たのよ。荷物を早く引き取りに来て欲しいって。早く別の人に貸したいみたいよ、そこの大家だか管理人だか知らないけど。父さん……ほら、渚だけを引き取ったあんたの祖父ちゃんも死んでるし、もう誰も住んでないみたいだから」

「ねぇ、ちょっと、待ってよ」


 話している相手の様子など気にも留めず、早口で話し続ける母の声を遮る。そんな私のほうが息切れを起こしていた。母は話を遮られたことが気に入られなかったのだろう。「なに」と私に尋ねる声は、低く、苛立ちが籠っているのが分かる。「なぎちゃん」と言いかけて、一度そのままそれを飲み込んだ。胸の前で落ち着かない手を捏ねる。その手が震えているのは、母が怒っているからではない。なぎちゃんが死んだ。そのことに、心も脳も追いついていないからだ。


「いつ?」

「だから、なにが」

「渚が、死んだのは、いつなの?」

「さぁ? 半月だったが一ヶ月だったか、それくらい前みたいだけど」

「お葬式は?」

「ええ?」

「お葬式はやったの? 誰が、」


 母は舌打ちをすると、赤いリップが塗られた唇を汚く歪ませた。


「だから、知らないわよ、そんなこと」


 子どもの頃から何度も見てきた表情。面倒臭くてしょうがない、これ以上何かを聞くなと思っているときの顔。こんな話題のときでも、この人はこんな顔で、こんな態度を取るのかと悲しくなったのは一瞬で、次に湧いたのは怒り。そして、「この人はやっぱりこういう人だった」と実感して、波が引いていくように『無』になる。


「渚がいつ死んだだとか、葬式はどうしたかなんて、私たちにはどうでもいいの。そんなこと、あんたに話に来たんじゃないから。用があって来てるって言ったでしょ」


「これだからバカと話すのは嫌なのよ」と母は化粧道具と一緒にドレッサーの上に置いていた煙草の箱の中から一本取り出すと、口にくわえて火を点ける。母が息を吸うと、タバコの先端は赤い火を灯し、苦い香りが部屋の中を舞う。白い煙を私がいるほうへと吐き出すと、「渚の家の荷物の話よ」と言った。


「早く引き取りに来て欲しいんだって。海、明日にでも行ってきてくれる? どうせ有休も余ってんでしょ。早くしろ早くしろって、毎日電話してきてうるさいのよ。こっちの都合だってあるのに」

「お母さんは、行かないの?」


 母は煙草を、テーブルの上に置いてあるタッパーの縁で叩くと、その中に灰を落とした。


「明日は彼との記念日なのよ。それに、渚だって、私なんかより海に来てもらいたいでしょ。あんたたち、仲良しなんだから」

「そう、分かった。明日、行ってくるよ」


「あら、本当?」と母の表情が途端にパッと明るくなる。まだ長い煙草をそのままタッパーへグリグリと押し付ける。そして、ドレッサーの椅子から立ち上がると両手を大きく広げてから「海、大好き」と私を抱きしめた。頬に軽くキスをして、母は「それじゃあ、よろしくね」とバッグを肩に掛けて、足取り軽く部屋を出ていく。


 私なんかより海に来てもらいたいはず、だなんて、思ってもいないくせに。母が手を添えないせいで、荒々しい音を鳴らしながら閉まる玄関扉を見て思う。いつだって、目の前のものに気を遣えない人だ。


 母が言った、「仲良しなんだから」と「海、大好き」という言葉が胸に刺さって上手く抜けない。母の都合の良いように吐かれるその言葉に、私がどれだけ苦しくなるのかなんて、あの人は考えたこともないのだろう。


 さっきの会話の中にあった母の本音は、「早くしろ早くしろって、毎日電話してきてうるさい」だけだ。「それが面倒だから、早くあんたがなんとかしなさいよ」を、「仲良しなんだから」という言葉の中に隠して言ってくる。

 幼い頃からそうだった。不倫相手とどこかへ出かけるときも、お父さんと喧嘩をして私たちを置いて家出をするときも。行かないでと泣く私に、「海は、渚と仲良しなんだから、寂しくないでしょ」と母は笑った。


 私となぎちゃんの関係を、母にとって都合の良い言葉にして欲しくない。本当に心の底から仲良しだなんて思っているのなら、どうして私たちを離れ離れになんてしたの。


 「大好き」だって言葉もそうだ。素直に受け取れないくらいに、私は賢くなってしまった。


 頭の中では、母への文句が次々と生まれてくる。でもそれを、母に向かって吐き出す勇気は、私の中のどこを探しても見つからなかった。母の香りが残る部屋で、母が荒らしたものを片付けながら、気持ちが落ち着くのをただひたすらに待つしかない。


 ドレッサーのミラーに映る私の左頬に、赤いリップの跡が残っている。ティッシュでゴシゴシと拭う。リップが伸びたのか、それとも強く擦ったせいで頬が赤くなったのか。ひりひりと頬が痛むと、少しだけ心の痛みを考えずに済む気がした。




 なぎちゃんと私は一卵性の双子として生まれた。なぎちゃんが姉で、私が妹。体重はあまり変わらず、身長はなぎちゃんのほうがいつも一センチ高かった。顔はよく似ているけれど、性格は正反対。泣き虫で鈍臭い私とは違って、なぎちゃんはしっかり者だった。いつも私の手を引いて前を歩いてくれる、優しくて強い子。そんななぎちゃんが、私の憧れだった。


 母は、私たちが幼いころから、お父さんの他にも恋人を作っているような人だった。お父さんが出張で家にいないときは、家の中にその人を連れ込んだりもしていた。幼稚園に入ったばかりのころ、食卓を囲んで、その人と一緒にお昼ご飯を食べたのを覚えている。柔らかくて、ちょっと気の弱いお父さんとは違うタイプの男の人だった。目の前で、二人がキスしたことも覚えている。そしてそれを、当時、不倫の「ふ」の字も知らなかったけれど、お父さんには絶対に言ってはいけないと思った。「お母さんの彼氏」という言葉を教えてくれたのは、なぎちゃんだった。一緒に入った布団の中で、「大丈夫よ」、「おやすみ、海」と言って、隣の部屋から聞こえてくる声が私に届くことのないように、なぎちゃんが抱き締めてくれた。


 お父さんは、私たちの六歳の誕生日の翌日にいなくなった。仕事に出たきり、帰ってくることはなかった。母が不倫していることを、きっとどこかで知ったのだろう。


 誕生日の日はいつも通りだった。おもちゃ屋さんに私となぎちゃんを連れていってくれて、黒い猫のぬいぐるみを買ってくれた。大きなやつで、「二人で大切にしなさい」と言われた。お父さんの言う通り、私たちはそのぬいぐるみに『黒太郎くろたろう』って名前をつけて可愛がった。誕生日の翌日に家を出ていったのは、私たちに悲しい気持ちで誕生日を迎えて欲しくないというお父さんの優しさだったのだと今なら分かる。


 二人が離婚したのだと知ったのは、小学六年生のときだった。酔って帰宅した母に「離婚しても私が苗字を変えないことをありがたいと思え」と言われた。「母親と苗字が違ったら、いじめられるかもしれないでしょう」とどこか自慢気だった。気を遣っているつもりだったのだろう。


 お父さんがいなくなって一年経った七歳のとき、母方の祖父がなぎちゃんだけを引き取った。どういう経緯で、なぎちゃんだけが引き取られることになったのかは、今も私は知らない。ただ、母は、なぎちゃんのことをあまり好きではないようだった。聡明で、芯がしっかりあって、母と話すなぎちゃんの目は、いつも強く、真っ直ぐだった。



 駅のホームに響く、電車がやって来るというアナウンスによって、現実へと意識が引き戻される。

 手に握っている切符の行き先は、知らない駅名だった。

 今朝、母がメッセージで送ってくれた住所で調べてみると、私の家から二時間ほどかかる場所に、なぎちゃんが住んでいた家があるらしい。

 長い旅になりそう。

 電車がホームに到着し、排気音を出しながら扉が開く。一歩、足を踏み入れると、車内はとても温かかった。


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