押入れの中が、私となぎちゃんの隠れ家だった。百円均一で、お互いに百円を出し合って買った、二百円のLEDランタンの明かりが、なぎちゃんをオレンジ色にぼんやりと照らしている。
「いつか、絶対に、私が
「なぎちゃん、やだよ。行かないでよ」
お祖父ちゃんが、なぎちゃんを呼んでいる声がうっすらと聞こえてくる。
なぎちゃんが、親指の腹で私の涙を拭った。いつまでもメソメソと泣く私を、ドラマとかアニメの中に出てくる優しいお母さんのように、なぎちゃんは「大丈夫よ」と宥めてくれる。
そして私の腕の中に、一年前の六歳の誕生日のとき、お父さんが買ってくれてから、二人でずっと大切にしてきた黒猫のぬいぐるみを抱かせるようにして置いた。
「私と会えるまで、ちゃんと持っててね」
押入れの襖が開かれる。冷たい風が、こもった空気を追い出すように入って来る。眩しくて、思わず目を細めてしまった世界へ、なぎちゃんは消えていった。
「また会えるよ、海」
そう、笑って。
◆
九月の半ばを過ぎても真夏のように暑かったのに、月末に降った雨が呆気なく夏を終わらせた。
そこから世の中が秋づくのは早く、薄手のシャツ一枚でも一日過ごしやすい季節なんていうのは、ほんの数日でいなくなったように思う。特に職場から帰るころには、すっかりと陽が沈んでいるせいで、上着がないと寒いと感じるほどだ。衣替えもまともに出来ず、クローゼットの奥から引っ張り出した秋コートのボタンがほつれていると気づいたのは、帰りの電車の中だった。本当はクリーニングにも出してから着たかったけれど仕方がない。家に帰ったらせめてボタンだけでも付け直そう。
アパートが見えてくる。築三十年だったか四十年の、二階建ての古いアパート。先日遊びに来てくれた職場の後輩からは「オートロックマンションに引っ越したほうがいい」と言われた。女性の一人暮らしなのだから、と深刻そうな顔をしていたけれど、「そのうちね」と適当に受け流してしまった。そんなところに住んだら、あの人になんと言われるだろうかと思うと、ひどく憂鬱になった。後輩はなにも悪くない。
白いペンキで塗りつぶされていただけの錆が、また浮いてきてしまっている外階段を上がり、二〇三号室の前。鍵穴に鍵を差し込んで、そこですでに鍵が開いていることに気付く。
朝、切ってから出たはずのお風呂の換気扇も回っている。ちょっとだけ生温い空気に乗って、シャンプーの甘い香りがほんのりとした。
シューズボックスもない狭い玄関には、真っ赤なハイヒールパンプスが雑に脱ぎ捨てられていて、私の、オフホワイト色のアーモンドトゥパンプスの上に一足、ひっくり返って乗っかっていた。
胸の奥がざわざわとする。手のひらが汗でじっとりと滲む。玄関の端に、今日履いていた黒いパンプスを脱いだ。同じアーモンドトゥのデザイン。ヒールも高すぎず動きやすい。汚れが目立たなくて気に入っている。日常的に履くのもこちらのほうが多い。だから、オフホワイトなんて洒落た色なんて買わずに、同じようにダークカラーを選べば良かったのかもしれない。靴を並べ直そうと、オフホワイトのパンプスの上に乗っかったハイヒールを避けたときに、つま先の部分に黒く、掠れたような線が入っているのを見つけてしまって思う。
玄関のすぐ近くにあるお風呂の、開けっ放しになっている扉を閉める。脱衣所から居間のほうへ、水で出来た足跡を、ヘンゼルとグレーテルが残したパン屑を拾うようにタオルで拭いながら辿り、擦りガラスになっている引き戸を開ければ、「おかえり」と声がした。
「ただいま。お母さん、来てたんだ」
私のドレッサーデスクに足を組んで座り、母はマスカラをまつ毛に塗っていた。鏡の前には、引き出しに仕舞っていたはずのマニキュアだとか口紅が転がっている。「ああ、瞼についちゃった」と言って、綿棒をボックスから雑に引き抜く姿に、自分の眉間に皺が寄ろうとしているのが分かった。慌てて顔を逸らし、逸らしたことが見つからないようにそのままコートを脱いで、ラックに掛けていたハンガーに通す。首に巻いていたスカーフを外す手は、つい乱暴になってしまった自覚はあった。
「あんた、結構良いもの持ってんのね」
そうかな、と曖昧に笑って返す。勝手に使わないで、と喉まで出かかったそれを、違う言葉に変換することにはもう慣れた。こちらが嫌な顔をすると、この人が怒り出すことを学んでいるから。
「これから彼氏とデートなのよ」
どこどこのカフェに連れていってくれただとか、あそこのラブホテルはタッチパネル式じゃないから恥ずかしいだとか、フロントスタッフが最悪だとか、最近あったことをペラペラと母は、喉と舌に油でも差したように滑りよく話す。
それに相槌を打ちながら、帰り道に寄ったスーパーで買ったものを片付けようと冷蔵庫を開ける。開けて、言葉を失うのはいつものことだと分かっているのに、いつものようにショックを受ける自分に呆れる。この人が来ているのだから、こうなっていることは分かっている。ヨーグルトの蓋が半分開いていて、そこにスプーンが差し込んだままだったり、並べて置いていたはずの、作り置きが入っているタッパーが、漁ったようにぐちゃぐちゃになっていたり。
買ってきた食材や総菜を冷蔵庫の中に仕舞いながら、出来るだけ元の形に戻るようにそれらを直していく。ささくれ立つ心が、そうすることで少しずつ凪いでいくのを感じる。それから居間に戻って、テーブルの上、空になったタッパーの中に箸とタッパーの蓋をまとめ入れる。そして、蓋が開いたままになっている、中身が半分ほどのペットボトルの蓋を閉めた。床に二本、三本と転がっていった綿棒は掃除にでも使おうと、やっと思えるくらいには落ち着いた。
「ねーぇ、海。あんた、私に早く帰って欲しいって思ってるでしょ」
落ち着いてきていた心臓が、母の刺すような声に、心よりも早く大きく脈を打つ。「どうして?」と平静を装って笑って返すけれど、母の目は見ることができなかった。どこで対応を間違ったのだろうかと、頭が原因を探すために稼働し始める。片付けを始めたことが、母の心を逆なでしてしまったのだろうか。
「私だって、別に来たくて来たわけじゃないわよ」
「うん」
「用事がなきゃ、こんな狭くて古いアパート、来たいわけないじゃない」
「うん」
んぱっと、リップを塗った母の唇が鳴る。毛先を緩く巻いた、栗色の長い髪を肩の後ろに払いながら、母は私を振り返った。
「
そう言う母の顔は、実の娘が死んだというのに、つまらないものの話をするときと同じように、退屈そうだった。
「……え?」
私の口からは、音が乗らず、空気が漏れるような声が出た。