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エピローグ

「それで、研究の方はいかがですか?」

「順調」

「いつになく冷たいですね。殴られたのがそんなにお嫌でしたか?」

「当然だ。今でも痛む。まったく。使い物にならなくなったらどうするんだ」

「ですが、あなたが悪いのですよ。私は弘隆様のご命令に従ったまでです」

「どうだか」

「まあそのお話はまた今度。弘隆様より言伝があります。『もっと増やせ』とのことです」

「当然だろうな。あの老いぼれ一人分ならともかく、家族全員となるとまるで足りんだろう」

「ええ。ですから、あなたには更なる励みを期待していますよ。あと、副作用の件ですが、高野和彦の時のように、もっと安定させることはできないのですか?」

「やってはいるんだが、まだまだ難しそうだな。しかし、彼の症状は暴飲暴食だったろう。それを果たして『安定』と言えるのか疑問だがね」

「そうですか。……いや良いんです。私も例のオフ会の準備がありますのでこれで」

 電話が切れる。テレビでは、六条財閥の六条弘隆が危篤状態から回復したとの報道が大々的に流されていた。

 ニュースを見ながら岩切はカップに注いだコーヒーを飲む。

 どうして俺は彼女たちに情報を提供していたのだろう。

 岩切は瞳や千夏と行動を共にして、意見を求める二人に協力していた。自分でもどうしてそのような危険なことをしていたのか分からなかった。

 胸の内では、老人のあの狂ったわがままを止めて欲しかったのかもしれない。若く未来のある生命が、枯れ果て、老いさらばえた生命に奪われていく様は正直見るに堪えなかった。

 顔をしかめると武藤に殴られたこめかみが痛む。

 椅子から立ち上がり岩切はアトリエに向かった。アトリエの様子は勤務先の研究室とほとんど変わらない。研究に必要な機材が並び、資料は本棚に押し込まれている。

 異なる点は、そこで市川瞳が眠っていることだった。電気をつけ、瞳を眺める。岩切は瞳が木下サチの自殺事件の話をした晩のことを思い出していた。

 今思えば、あの瞬間から市川姉妹はこうなる運命だったのかもしれない。瞳の妹である市川千夏は、岩切が武藤に殴られた後、抵抗むなしく確保された。そしてその若さを惜しんだ六条弘隆によって、完全に搾り取られた。血液保存など行わず、血は常にリアルタイムで抜かれ彼や彼の家族に共有されたし、内臓は余すところなく彼の胃袋に収められた。皮だけになった遺体は、ペットの犬猫に与えられていた。

 六条弘隆。岩切はあの老人のことを「動物同治に憑りつかれた化け物」として認識していた。考えるだけでもおぞましい。権力を持った老人ほど、恐ろしい存在はなかった。自分と、自分の家族の命を長らえる。他者の生命を吸い取り、他者に寄生しながら。

 犠牲となった作家の「ラフレシアの巣」という表現はよく言ったものだと感心する。高野和彦は、餌になる少し前、市川千夏と植物園に訪れてラフレシアの標本を見たらしい。おそらく、その時の記憶が強く根付いていたため、そんなことを口走ったのだろう。

「さすがは作家先生と言うべきか」

 岩切が椅子に腰を降ろしたと同時に、瞳がもぞもぞと動き出した。瞼が開き、眩しそうにして手をかかげる。

「おはよう」

「悠二…………?あの、ここは?」

「俺のアトリエだよ」

「え?」

「君は気絶していたんだ。無理もない。あんな光景を目の当たりにしたらな。…………妹さんは恐慌状態になっていた。可哀想に」

 瞳はハッとした。意識が鮮明となり、不気味な洋館の地下室で見た光景が脳裏にはっきりと浮かんだ。瞳は岩切をねめつけ、立ち上がった。

「岩切悠二、……あなたを自殺幇助および拉致監禁の容疑で逮捕します」

「手錠はどこかな?」

「あ……」

 瞳は何も持っていなかった。財布、警察手帳、スマートフォン。自分を証明できる物はなにひとつしてなかった。

「散歩しよう。来てくれ」

 岩切が立ち上がり、立ち去ろうとしていた。瞳は頑として動かなかった。

「瞳」

 岩切が振り返り、鋭い視線を投げて寄越す。

「来るんだ」

 岩切の険のある寒々しい声に瞳は表向き屈した。逆らったら何をされるか分からない。ここは一旦岩切に従う方が懸命だと考えた。

 アトリエを出て、廊下を進む。すると庭園に出た。庭園は小規模な噴水が設けられていた。二人が歩いている回廊は庭園を囲んでいる。

「ここどこ?」

「俺の家」

「……大きいのね」

「答え合わせをしようか」

「……?」

「市川、お前が研究室を訪ねて来た時に、なんて言っていたか覚えているか?」

「…………あの、平野さんと会った日?」

「そうだ」

「…………私の仮説…………」

「そうだ。赤色骨髄にあった小さな穴。あれはまさしく寄生虫、正確に言えば線虫が開けたものだ。お前は惜しかった。お前の仮説は現実を捉えていた。しかし、『こんなことあり得ない』という、いわば常識的な考えが、お前を真実から遠ざけてしまった」

「…………でもそんなの」

「そういう意味では、木下サチも正しかった。『中に何かいる』。そう線虫がいた」

「でも…………どうして?」

「オフ会だよ」

「オフ会?」

「オフ会は精神的に問題を抱えている人々を釣る餌だった。得てしてそういう者は、社会的なつながりが常人に比べて薄く、いなくなってもあまり騒がれることはない。

 これはあの怪しいサイトを運営している武藤の言い分だ。で、オフ会では自分と見つめあう、心を共有しましょうなどと言って、参加者をある種の洗脳状態に持っていく。そして最終日に、彼らの好物を提供するんだ。その中に、線虫がいる。…………俺が開発した、赤色骨髄に干渉して血液を書き換えることのできる線虫がな」

 瞳は立ち止った。目の前に殺人者がいることに慄いた。瞳には到底理解できない、気の狂った男が一人白衣をまといのんびりと歩いている。

「人の血液型を変えるのは基本的に不可能だ。造血には遺伝子が関わっているし、仮に変えることができても、たちどころに死んでしまう。凝集が起こるからだ。凝集とは赤血球の成分が集まって固まることを言う。

 その仕組みは簡単だ。赤血球は抗原を、ヒトは赤血球にたいする抗体を持っている。抗体は抗原に結び付く。血液型がAの人間は、A抗原を持ちB抗体を持つ。B型の人間はB抗原を持ちA抗体を持つ。A型の人間にB型の血を輸血すれば、B抗体とB抗原が結びついて凝集が起こる。

 そうするとレシピエントは死ぬ。しかし、骨髄や造血幹細胞を変異させると、既存の赤血球の型も併せて変わり、抗体を生産する細胞も変異後の造血幹細胞から造られる。そうすると元々あった抗体は造られなくなる。骨髄移植の考え方と同じだ」

 岩切は生徒に授業をしているような口調で淡々と話している。

「…………ちょっと」

「血液以外の細胞の問題もクリアした。ABO血液型は、血液以外の細胞にもあって、その型は変わらない。結果、レシピエントの元の抗原を発現する組織細胞を、変異した造血幹細胞に由来するリンパ球が攻撃してしまう。彼らからしたら異物だからな。

 しかし、これは体内に侵入した無数の線虫の何割かの個体が免疫抑制剤の代わりになることで解決した。ドナーたちに起こっていた人が変わったような言動や振舞はその副作用だ」

 岩切は晴れた空を見上げ、古い友人のことを話すかのように続けた。

「六条弘隆は異常なほどの生きたがりだった。中国の薬膳に載っている動物同治という考えに憑りつかれた化け物だ。知っているか?これは、体の中の不調な部分を治すには、調子の悪い場所と同じものを食べるのがいい、という考え方だ。

 はじめの内、あいつはそれで満足していたらしい。いなくなっても困らない者を金でおびき寄せて、取って食った。数年前、あいつが猟奇殺人の容疑をかけられた事件を覚えているか?殺された奴は六条家の使用人ということだったが、全く無関係な人間だ。殺したのも使用人じゃない。六条弘隆が臓器を食うために連れてきた犠牲者だ。

 まあ、そんなことがあって次第に老人はそれだけでは満足できなくなっていった。生き長らえるには、新鮮な血液も必要だと考えはじめた。しかし問題があった。あいつのABO血液型はAB型でRh血液型が陰性だった。これは非常に稀な組み合わせで、実際の医療の現場でもドナーを見つけるのは難しい。で、あいつは餌となる人間の血液型を自分のものに合わせればいいと思いついた。そして、明美を亡くしたばかりの俺に接触してきた」

「やめて…………」

「俺は自暴自棄になっていたが、諦めきれないことがあった。明美の死だ。俺は、あんな社会不適合者の、酔っぱらいのクズが明美を殺したことを認めていなかった。……幸い彼女の遺伝子情報やDNAに関する情報は残っている。俺は明美のクローンをつくりたかった。子供ではなく、成人女性に彼女の情報を加えて、造り返るんだ。しかし、言うまでもなくそんなことは倫理的にもできないし、法的にもアウトだ。技術的にもかなり難しい。だが、俺が奴の依頼を引き受ければ、資金や研究に必要な場所も確保してくれると言う。

 俺は引き受けたよ市川。そして提供された場所がここで、俺が奴に提供したのが例の線虫だ」

「悠二やめて」

「市川、お前は明美とよく似ている。瓜二つとまでは言わないが、目元や唇の形がそっくりだ。だから、お前は今こうして生きている。お前はあそこで殺されるはずだった。俺が止めたんだ市川。お前だけは見逃してくれと。明美を失った時、俺はお前の存在に救われた。今度は俺がお前の命を救ったんだよ」

 岩切が近づいてくる。瞳の体は硬直していた。走り出したいのに、体が言うことを聞かない。

「市川瞳。残念ながらはお前はもう死んだ人間だ。武藤たちが手続きを済ませている。死亡証明書が発行され、身内で葬式も上げていた。俺は死んだお前の妹の代わりに出向いた。誰もが泣いていた。空っぽの棺に向かってな」

 岩切の手が頬に当てられる。歯がかちかちと鳴って、嚙み合わない。胸が圧迫されたように苦しく、呼吸も乱れている。

 岩切は、これまで見せたことがないような優しく、慈愛のこもった目を瞳に向けて来た。

「悠二、やめて…………おねがい」

「さあ行こう。明美。早く元に戻りたいだろう。まだまだ研究が必要なんだ。時間を無駄にできない」

 瞳は、岩切の眼差しに吸い込まれていた。抵抗らしい抵抗もせず、ただ彼の言葉に頷いた。

 生を諦めたのか、あまりのおぞましさに思考が停止してしまったのか、それは瞳にすら分からなかった。

 そんな彼女を見て岩切は、尊い犠牲となった市川千夏と、これから長い時間をかけて愛する宮本明美に再誕する目の前の女性を想い、大きなため息をもらした。

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