目次
ブックマーク
応援する
いいね!
コメント
シェア
通報
最終話 ラフレシアの巣

「…………」

 運転手はルームミラーで瞳の顔を一瞥してから、話しかけてくる風でもなく、視線を前方に向け、黙々と運転していた。

 瞳は車窓から外の景色を確認する。車は人気のないオフィス街を走っていた。繫華街と異なり、道行く人はまばらだった。車道を走る車のライトもほとんど見えない。都内にもこんな場所があるのか、と瞳は無機質な景色に多少の物寂しさを感じながらも、ここなら好都合だと考えながら、腰に挟んでいた拳銃を抜いた。

「警察よ。車を停めなさい」

「…………」

 運転手が生気のない目を、ルームミラー越しに投げて寄越す。その後、車はハザードランプを点灯させ路側帯に停車した。

「どこへ連れて行く気なの?」

「…………」

「答えなさい」

 銃口をこめかみに当てる。この距離なら、弾はまず外れない。念のためセーフティを掛けているが、何かあれば即座に撃てるよう親指はロックにかかっていた。

「…………」

 運転手は答えなかった。振り返ることもなく、依然として真っすぐに瞳を見つめている。

 銃を向けられて尚も平然としている目の前の男に、瞳は慄いてしまった。それを押し隠しながら、瞳は男から情報を聞き出そうと口を開いた。

「あなたたちには自殺幇助及び拉致監禁の容疑がかかっているの。何も話さないのなら、このまま署まで連行するわ」

「…………」

 運転手はハザードを消し、ウィンカーを出して車を車道に戻した。

「ちょっと!あなた!」

「どこですか?」

「え?」

「どこの警察署ですか?」

「……S区のM警察署よ」

「かしこまりました」

 大きな交差点で車はUターンする。瞳は体を支え、銃口を逸らさないようにした。

 瞳はこの状況があべこべに思えてならなかった。目の前の男は、呼吸も乱れておらず動揺もしていない様子だった。何事もなく、淡々と車を走らせている。その反対に、曲がりなりにも生殺与奪を握っている瞳はどんどん疲弊していった。

 車中にいる間、男の不穏な動作を察知できるよう神経を研ぎ澄ませていた。男がシフトレバーやウィンカーを操る仕草をする度、極端なまでに身構えてしまう。瞳は、これを過剰だとは思わなかったが、病み上がりの体には無駄に疲労を蓄積させる結果となった。加えて、男の得体の知れなさに、瞳の心は慄いている。言葉や態度で、そのことを相手に悟らせないことはできるが、自分自身をごまかすことは至難の業だった。意識すればするほど、その念はかま首をもたげてくる。瞳の気付かない内に、それは恐怖心へと変質していた。恐れは更なる恐怖を生み、際限なく胸中に広がっていく。額から冷汗が噴き出してくる。

 どちらが主導権を握っているのか分からなくなってきていた。瞳は一刻も早く、警察署にたどり着くことを望んでいた。

 瞳が車に乗り込んでから一時間余り、前方から瞳の見慣れた景色が流れ込んできた。交差点に入り、左折する。すると、瞳が毎日のように通っているM警察署の建物が姿を現した。鉄筋コンクリートで造られた、武骨で、正義の象徴であるその建物の姿は、瞳を安堵させ男に反撃の時間を与えてしまった。

 瞳が建物に目を奪われた刹那、男は身を翻し瞳の腕を引っ張った。虚を突かれた瞳はろくな抵抗もできず、口をハンカチで覆われた。セーフティを外し、発砲しようと試みるが、指に力が入らない。

 意識は次第に混濁としていった。ぼやけた視界の中で、男がにんまりとした笑みを浮かべながら、手から拳銃を外しているのを見ていた。

「な、なにをひえ」

 瞳は自分が何を言っているのかすら分からなかった。

 呂律が回らない。口からついて出た言葉は、虚しく宙を舞う。思考も麻痺していた。

 事件に無関係な様々な情報が、脳みその奥から濁流となって溢れていた。それらは文字、音声、記憶として残っている映像が無秩序に入り乱れた代物だった。起きながらにして、瞳はでたらめな夢を見ている感覚だった。場面や人が急に入れ替わり、景色や体の一部が欠損している。頭部がどこかで目にした巨大な花弁だったり、木下サチが高笑いしながら自らの腹を割き、取り出した臓物を瞳の口へ押し込んできていた。

 次の瞬間には、その光景は線ではなく蠢く文字で構築されていた。押し込まれた彼女の内臓は、食道を通って瞳の胃の中にぼとぼとと落ちていった。和式便所を彷彿とさせ、瞳は大量に吐いた。吐き出した物は文字ではなくなり、それは臓器と糞尿が混ぜ合わさった異質な物体になっていた。

 激しい腐臭に咳き込んでいると、誰かの言葉が耳をつんざくほどの音量で流れはじめた。瞳の耳からは、薄っぺらの皮だけになった、妹や両親、小野寺といった人物たちが血流に乗って排出されていた。彼らはまるで栄養を吸い取られたかのように干からびていた。目はなく暗いふたつの空洞が瞳を凝視していた。

 正に悪夢だったが、瞳にはそれを止めることはできなかった。混沌が瞳の神経をも蝕んでいく。口元から涎が溢れてくる。奥歯をがちがちと鳴らして、瞳は白目を向いた。幸いだったのは、それと同時に、瞳の意識が途切れたことだった。気絶したことによって、瞳は、理不尽で抗いようもない夢から開放された。


「いやっ!」

 涙を流しながら、瞳は目を覚ました。

 自分の体をまさぐった。耳から血は流れていないし、周囲に吐しゃ物があるような臭いはしなかった。

 瞳は、あのおぞましい光景が夢であることに安堵した。それと同時に、不安を覚えもした。周囲は暗く、何も見えない。床は冷たく、じめじめとした石の臭いが鼻腔をついた。

 瞳は立ち上がって、手探りで今自分がいる場所を認識しようとした。瞳のいる場所は、四方を床と同じ石で囲まれていた。そこから、ここが石で造られた室内であることが分かった。壁を手で探っていると壁に沿って取り付けられたスイッチを見つけた。

 スイッチを下すと、明滅しながらオレンジ色の明かりがついた。室内は六畳余りの広さで、背後には木造のドアが一枚あった。部屋の隅の方には木箱や経年劣化が目立つオフィスデスクなどが置かれていた。それらの組み合わせは不釣り合いで、瞳の不安を煽った。よく見ると、デスクの上に自分の持ち物があった。スマートフォンと財布、警察手帳とがあった。しかし、拳銃と手錠はなくなっていた。

 瞳は苦虫を嚙み潰したような顔を浮かべ、スマートフォンをつける。時刻は午前二時半過ぎだった。眠らされてから、約二時間経っている。スマートフォンのバッテリーは半分以上残っていたが、圏外だった。使い物になりそうではなかったが、通常モードからバッテリーモードに変え、長持ちさせられるようにしておく。

 瞳は気を失うまでのことをよく思い出し、現状確認に努めた。妹を騙り、自己啓発団体の人間を呼び出し、署へ連行中だったところを、麻酔薬か何かを嗅がされ気を失った。そして今、物置のような部屋にいる。拳銃は奪われていたが、幸い身分を証明できる持ち物は手元に残っていた。

 次いで、これから先取るべき行動について考えた。最優先事項はここから脱出し、外部と連絡を取れる場所まで避難することだった。刑事が容疑者たちに拉致され、逃げ延びて来たとあっては、組織も動かざるを得ないだろう。立派な刑事事件だし、自殺幇助や拉致監禁の罪に問えなくとも、公務執行妨害で逮捕することができる。

 瞳は独りで頷き、逃げることを念頭に置く。問題はその経路にあった。ここに運び込まれている間、意識がなかったため逃走経路の把握がまったくできていない。病院のように館内マップがあるとも思えないため、手探りで進んでいくしかなかった。

 自分を捕らえた連中が根城としている建物の中から事前知識がない状態で逃げるのは至難だった。どういう構造をしていて、どこが出口なのかも不明で、見回りの有無も分からなかった。『敵』を一人確保しているのだから、見張りや哨戒がいても不思議ではない。

 そこまで考えた瞳の脳内を疑問がよぎった。そもそも、なぜ自分は今自由に動けているのだろうか。当たり前のように立ち上がり、照明をつけ、持ち物を確認していたが、囚われの身にしてはあまりに自由が過ぎている気がした。

 武器はないが、手足が自由なのも、思えば不思議ではある。一時は拘束したのにも関わらず、敢えてその状態に置かれているのは、薄気味悪さを覚える。容疑者たちにはなんらかの意図があって、そうしているに違いなかった。

 その意図とは…………脱出させるため?

 そう考えると、瞳は足がすくんで、室内から外へ出たくなくなった。

 活路はここから出ることしかないのに、恐怖心が現状維持を訴えて止まない。ここにいる間は、身の安全は保障されていると、身勝手な幻想を創り出しこの状況に安寧を求めていた。

「…………やるしかないのよ」

 声に出し、弱い心に言い聞かせる。

 瞳が生き残るためには脱出するしかなかった。彼らは一般市民を騙して死に追いやっているのだ。そんな連中が、自分をこのまま捨て置く訳がない。時間がくれば自分は真っ先に消されるだろう。その前に、逃げなければならない。変に考えたせいで、貴重な時間を無駄にしてしまった。

 瞳は深呼吸し小さく頬を叩く。

「よし」

 そう言うと、ドアノブに手を掛けた。ゆっくりとドアノブを回す。そのままドアを奥へ押すと、僅かに軋みながらドアは開いた。

 廊下は暗く、人の気配はない。スマートフォンのライトをつける。廊下も部屋と同じ石造りになっていた。冷えた空気が辺りを漂い、瞳は思わず身震いした。ドアをゆっくりと閉める。闇の中、どちらに行けば正しいのか、見当もつかなかった。スマートフォンが使えれば苦労することもないのに、と文明の利器の頼もしさをこのような形で思い知らされた。

 ひとまず左に曲がった。明確な理由はない。直感を信じた。足元を照らしながらゆっくりと歩いて行く。石畳になっている床には、豪奢なペルシャ絨毯が敷かれ、瞳の足音をかき消していた。廊下には窓も、照明もない。闇が無限に続いていた。

 瞳はスマートフォンのバッテリーに注意を払い進む。前方に壁が見え、廊下は突き当たった。しかし、通路は右手に折れ曲がっていた。壁に沿って細い置台があり、その上には燭台が置かれていた。瞳はインテリアデザインなどに特に興味はなかったが、目の前の燭台といい、床に敷かれた絨毯といい、ここの持ち主は気位が高い印象を抱いた。

 クリアリングし誰もいないことを確認すると、再び歩みはじめた。しばらく廊下を進むと、前方からかすかに明かりが見えた。明かりはドアの隙間から漏れ出しているのだとすぐに分った。

 近寄り耳を当てる。物音や話し声は聞こえない。人が息を潜めて瞳を待ち構えている気配もなかった。ドアに鍵は付いておらず、瞳は何度か深呼吸した後、素早く開いた。

 瞳が躍り出た場所は、ちょっとした広間だった。こちらは木造で造られており、天井や、壁に打ち付けられたライトが空間を煌々と照らしている。

 真正面には、瞳が出て来たのと同じ造りのドアが一枚あった。左手には地下へと続く細い階段が伸びている。瞳はライトを消して、電波が通じていないか確認した。相変わらず圏外だった。

 舌打ちをしながら、正面のドアを開ける。ドアの向こうは今まで歩いてきたのと同じ暗闇が続いていた。瞳は、あの暗澹たる気分になる闇の中へ戻りたくはなかった。

 ドアを閉めて、階段に目を向ける。地下へ伸びる階段は明かりに照らされて明るい。しかし、逃げ道などあるのだろうか。地下へ行くことは、自ら袋小路に入り込んでいくように思えてならなかった。

 僅かな間逡巡し、瞳は再び闇の中へ身を投じることを決めた。明るさに惑わされるな、と何度も自分に言い聞かせた。また、来た道を戻ることはしなかった。追手と鉢合わせするかもしれない。相手が一人なら制圧できるかもしれないが、二人以上となると瞳に勝ちの目はない。危険は避けたかった。

 ライトをつけ、廊下へ足を踏み出した。廊下は同じ造りをしていることが分かって、少しは安心したのか、先ほどとは打って変わって足取りは力強い。窓も、照明もなかったが、あまり気にならなくなっていた。

 進んで行くと、道が右手に折れ曲がっていた。突き当たった壁に沿って、置台と燭台が置かれている。瞳は、つい先ほども目にした燭台を思い出し、廊下の造りも物の配置も左右対称になっているのだろうと考えた。

 そのまま歩みを進めていると、前方から人の話し声が聞こえて来た。瞳は体が硬直してしまった。話している内容は分からないが、声のトーンからして男であるのは間違いなかった。人数はおそらく二人。声がこちらへどんどん近づいてきていた。ドアノブが回され、ドアが開かれたと同時に瞳は廊下の陰に隠れた。スマートフォンのライトを慌てて消す。

「経過はどうなっている?」

「順調です。今回は皆ちゃんと集まっています」

「そうか。良かった。恐慌状態になって、自殺されてはたまったものじゃないからな」

「ああ。あのアパートの女たちみたいに」

「そうだ。一旦はただの自殺として処理されたが、変に思った刑事が嗅ぎまわっていたらしい。警察は黙らせたと言っていたが、くすぶっている奴は残っていたみたいだな」

「それってあの女刑事?」

「ああ」

「武藤さん、あの女刑事大丈夫なんですか?あのままにして」

「さあね。でも殺すなってお達しだからな。何を考えているんだか」

「先生はいった――――」

 男たちの会話はそこで聞こえなくなった。

 瞳は先ほどの広場まで戻って来ていた。室内は冷えているのに、汗が噴き出して止まらない。床に落ちないよう必死に手で拭う。

 極度の疲労感が瞳を襲った。このままこうしてはいられなかった。

 武藤。オフ会を開催し、千夏たちとコンタクトを取り、数時間前、メールで瞳と話した人物。瞳は、これが偶然の一致だとはつゆほども思っていなかった。

 間違いない。彼らは、私が事件の捜査を続けていると知っていた。だから、圧力をかけてやめさせようとしたんだわ。

 再び男たちの会話がドアの向こうから聞こえてきた。このままだと彼らに見つかってしまう。

 瞳は咄嗟に地下へと続く階段に身を隠した。彼らが広間に入って来た。瞳はそのまま通り過ぎてくれることを願ったが、彼らの足取りは階段の方へ近づいていた。

 瞳は階段を下りながら自分の判断ミスを悔やんだ。しかし、と瞳はあることに気づく。聞き間違っていなければ、彼らは自分を殺す気はないようだった。

 なぜだろう。

 真相に最も近づいている自分は、彼らにとって最も危うい存在のはずだった。警察には捜査を続けるなと口止めしたから、もう害はないと高を括っているのだろうか。だが、証拠を持ち帰ればそういう訳にはいかない。仮に自分の訴えが警察内でもみ消されようと、世間に暴露する手段はいくらでもある。そうなれば、警察の名誉は傷付き、幹部連中は責任を問われることになる。それらが火種となり、結果的に捜査に踏み切るはずではないか。そうさせるには、自分の証言だけではなく、誰に見せても分かる明確な証拠が必要だった。

 気がついたら武藤たちの声はしなくなっていた。瞳の意識は、鼻腔に忍び込んできた腐臭に捉えられた。顔をしかめ、どこから漂ってきているのか確かめる。臭いの元は前方左手にあるドアの向こう側からだった。瞳はこの腐臭の正体を知っている。それは、これまで幾度となく嗅いできたものだった。臓物をぶちまけた、木下サチの部屋が脳裏に浮かぶ。あの部屋にも、これと同じ臭いが充満していた。臓物が腐った臭い、人間が生命活動を止めた証。死体の臭いだった。

 瞳は生唾を飲み込んだ。僅かな間、逡巡するが取るべき行動は決まっていた。

 瞳はここから逃げなければならなかった。しかし、手ぶらで戻る訳にはいかない。警察組織、もしくは世間を納得させるには、証拠が必要なのだ。ドアから少し離れ、深呼吸を行う。それでも腐敗臭は、瞳の体内に侵入してきた。吐き気を抑えながら、再びドアの前に立つ。

 意を決してドアを開いた。目の前の光景に瞳は愕然とした。

 室内は死体安置所のような造りになっていた。担架が無数に並び、遺体袋が置かれている。壁には巨大な冷蔵庫のような機材が置かれていた。室内は冷え冷えとしており、やはり腐臭が漂っている。

 しかし、その根源はここではなかった。腐臭はここと隣接しているもう一方の部屋から漂ってきていた。瞳はハンカチで鼻と口を押さえながら、足を踏み入れた。室内全体が写るようにしてスマートフォンの内臓カメラで撮影する。

 手前にあった死体袋のひとつを開ける。中には男性と思しき人物のしわくちゃになった死体が入っていた。文字通り、皮だけになっている。目があった所は空洞になっていたし、体内には内臓はおろか、骨すら残っていない。瞳は、この男性に既視感を覚えた。だが、すぐに誰とは分からなかった。

「ごめんなさい……」

 そう言いながら写真を撮る。正義のためとはいえ、自分のプライベート用のスマートフォンに、このような写真を収めることはおぞましかった。

 冷蔵庫を開ける。中には夥しいほどの輸血パックが吊るされて保管されていた。瞳は、その光景をいつの日かテレビで見た、何かの虫が植物に卵を植え付けている映像と重ねた。抑えていた吐き気が途端にこみ上げてくる。口内に胃液が広がり、喉が痛んだ。写真に撮って、輸血パックのひとつを手に取る。パックには氏名と血液型が書かれていた。

「高野、和彦…………」

 高野和彦。妹の彼氏の名前だった。

 瞳は足元がぐらつくのを感じた。必死に体を支える。瞳と和彦は、親しい間柄だった訳でなかったが、それでも妹とお似合いの男性だと思っていたし、少ないながらも交流はあった。

 瞳は先ほどの遺体袋に目を向けた。あの既視感の正体が分かった。あの死体は、和彦だったのだ。変わり果てた姿で、生前の彼を思わせるものはなに一つとしてなかった。

 妹に何と言えばいいのだろう。和彦を失った妹は、動揺し、酷く錯乱するだろう。ありのままを伝えてしまっては精神を壊してしまうかもしれない。

 瞳は、以前和彦を伴って訪ねて来た妹の姿を思い浮かべ心を痛めた。

 頭を振り、意識を切り替える。和彦や木下サチの無念を晴らすためにも自分は捜査を続けなければならないという意志のもと、輸血パックに視線を落とす。氏名と血液型の他『A→AB Rh-』という記載もあった。瞳には意味が分からなかったが、証拠として撮影する。

 一通り撮り終えると、瞳は隣室へと続くドアに目を向ける。寒い、室内に佇むステンレス製のそれは、瞳の侵入を歓迎する風にも、拒絶する風にも見えた。

 瞳は一歩一歩踏みしめながらドアに近づく。近づくと、向こう側から、何かの機械音が聞こえてきた。その中に混じって、規則的な電子音が聞こえる。

 瞳はその音に心当たりがあった。数時間前、自分も病室で聞いていた音だった。視線を感じ、背後を振り返る。瞳の背後には、物言わぬ薄皮だけになった死体が袋に入れられ並べられている。そこには命ある者はいない。だが、死体が今にも起き上がり、黒い洞穴のような目を自分に向けてくるのではないかという想像が頭から離れなかった。

「…………」

 目尻に浮かんだ涙を拭う。もう一度深呼吸して、瞳はドアを開け放った。

「…………ど、どうして」

 視界からの情報を、脳が拒絶する。

 それは、その光景があまりに現実離れしていたせいなのか、彼がそこに存在したのを認められなかったせいなのか、瞳には分からなかった。

 現実を受け止められないで、踵を返そうとした瞬間、鈍い痛みと共に瞳の視界は暗転した。


「気がつきましたか」

 千夏は自宅のベッドで目覚めた。傍には岩切がいた。つついていたスマートフォンをポケットに仕舞って千夏に微笑みかけてきた。

「岩切、さん?」

「良かった、起きましたね。十時間ほど前、ここで倒れているのを市川と発見しましてね。病院に搬送して貰ったんです」

「…………!あの、姉は今……?」

「…………」

 岩切は浮かない顔をしていた。話しづらそうな、起こった出来事を言葉に出してもいいのか、逡巡している様子だった。

 左手で首筋を掻いている。以前、彼に会った時も、このような仕草をしていたことを千夏は思い出した。

「…………姉に何か?」

「隠しておくようなことでもないですし、良いでしょう」

「それは…………?」

「昨日、市川は目を覚まして、あなたが彼女の捜査を引き継いだことを知りました。それでいて、あなたとはまったく連絡がつかなかった。市川はあんな性格ですから、病院を抜け出した。そこにたまたま私が居合わせて、彼女と共にあなたの部屋を訪れました。なにせ、市川がどんな事件を追っているのか、あなたに話したのは私ですからね。責任というか、負い目を感じて」

 岩切は言葉を一旦切って「改めて、申し訳ない」と短く謝罪した。千夏は首を振って、続きを促した。

「で、部屋ではあなたが倒れていた。救急車を呼んで検査させました。入院の必要はなかったので、市川は私にあなたの身を任せて、自分は事件の捜査を再開した。私はあなたの無事が確認できると、今からそっちに戻るからと市川に伝えていました。しかし、私が戻った時、部屋はもぬけの殻だった。……それ以来彼女と連絡が取れないんですよ」

「そんな…………」

「彼女が務めていた警察署の方にも確認をしてみましたが、彼らも同じく知らないらしい」

「…………姉を探さないと」

 そう呟くと、千夏はベッドから立とうとした。岩切はそれを止めなかった。

 そこで千夏は、体がいつもの調子に戻っていることに気がついた。異常な発熱や、頭痛は一切なかった。加えて、これまでと異なるのは、気分が高揚し、この状況をどことなく愉快に思っていた。

 姉を探しにあそこへ行ける。

 そう考えただけで、体の内から元気が湧いてきた。

 千夏は咄嗟に頭を振った。

 姉の消息が絶たれているのになんで嬉しそうにしているの?

 千夏は慄き、必死にその考えを払拭しようとした。だが意識を剥ければ向けるほど、それは大きくなった。

「姉妹ですね」

「え?」

 岩切に振り向いた自分は一体どのような表情を浮かべているのだろうか。

 千夏には分からなかった。しかし、もしかしたら笑顔を浮かべているのかもしれない。和彦がいなくって、姉もいなくなったが、千夏はすぐ二人に会えそうな予感がしていた。だとすれば、自然と笑顔になっても不思議ではない。

「いや。多分あなたのことを聞いた市川も、きっと今のようにベッドから立ちあがって抜け出す準備をしていたんだと思うとね」

 そう言うと岩切も立ち上がった。手にはA4用紙を二枚持っていて、千夏に差し出した。千夏の表情については特に言及しなかった。

「検査結果です。申し訳ない。あなたの体に起きていた異変の原因は分からなかった」

「ありがとうございます。でも、今はなんともないようだったので良かったです」

「そうですか。一応、医療業界に身を置く者としては、もう少し自分の体に気を配ってもらいたいものです」

 苦笑をこぼしながら岩切は薄い紙をベッドの上に置く。

 資料は診断書と血液検査の二種類に分けられており、岩切の目線は自然と血液検査の書類に向けられた。千夏の血液型は『AB』となっていた。

「それは、すみません。でも、早く姉に会いたいんです」

「……その気持ちは解ります。私も心配しています。ですが一旦落ち着いてください。素人のあなたがどうこうできる問題ではないでしょう?警察にちゃんと事情を話して、調べて貰いましょう。そっちの方が確実だ」

「…………」

 岩切の言葉は正論だった。千夏は何も言い返すことができなかった。

「これが番号です。身内であるあなたから言った方が良いかもしれない」

 千夏は岩切のスマートフォンを受け取って、コールマークをタップした。

 何回かの呼び出しの後、面倒そうな声音をした男が電話に出た。千夏は、自分は捜査第一課に勤める市川瞳の妹であること、とある事件に巻き込まれて姉の消息が分からなくなったことなどを伝えた。

「ちょっとお待ちを」

「はい」

 保留音が流れる。

 岩切はポーカーフェイスを千夏に向けていた。

「小野寺だが」

 通話口の人間が変わった。先ほどの男性と違い、小野寺と名乗る人物の声には威勢があった。

 千夏は思わず縮こまってしまった。今にして思えば、これまでの人生で、姉以外の警察の人間と接したことがない。千夏の中の刑事という存在は、姉に他ならなかった。接しやすく、はつらつとしていた姉。彼女と電話口の小野寺とでは印象が全く異なった。はじめて警察という組織の人間に恐怖を覚えた。千夏は尻込みしながらも、先ほど伝えたのと同じ内容を小野寺に伝えた。

「ですから、そちらで捜査いただけないかと思いまして」

「…………」

 小野寺は何も言わなかった。代わり小さなため息が聞こえた。千夏は、小野寺が何かに対して憤慨しているようなイメージを抱いた。姉のことでなければ良いのだけれど、と思いつつ再度捜査を依頼した。

「残念ですが、我々ではどうすることもできません」

「…………は?」

 自分の耳を疑った。警察の人間が事件に巻き込まれ消息を絶ったのに、どうすることもできないとは、どういうことなのか。

 千夏は自分が聞き間違えただけだと、もう一度要請した。だが、返答は変わらなかった。千夏の中で、警察に対する疑念が湧き上がっていた。事件を解決するために戦っている姉は、どうなってしまうのか。彼らはこのまま何もせず、自分たちの仲間を見殺しにするのだろうか。千夏の中の疑念は怒りに変わった。握りこぶしに力が入り、爪が掌に食い込んでいた。

 千夏は自分が支離滅裂な思考に陥っているのを気づいていなかった。先ほどは姉が失踪したことに対して、探しに行けると悦んでいたのに、今は事件を追っていて消息を絶った姉を心配し、警察に捜索を断られて憤怒に燃えている。

 千夏は思うがままに口を開いた。

「どういう意味ですかそれ」

 相手を責めるような口調になっていた。岩切はその様子を何も言わず見つめていた。

「…………」

 小野寺は答えない。彼の沈黙が千夏の怒りを助長した。

「姉はあなたたちと一緒に働いてた仲間じゃないんですか?姉の活躍で無事解決した事件もたくさんあるのに、そんな姉を見捨てて、あなたたちは何とも思わないんですか?なんのために、なんのためにあなたはいるの?なんのために警察があるのよ。私の彼氏だって失踪したままで、なにも分からないし。…………税金だけ取って権力振りかざして、なんの役に立ってるのよ」

「……お嬢さん落ち着いて。これには訳が」

「落ち着け?身内が二人もいなくなってるのに、落ち着いてなんていられないわ。それに訳ってなんですか?大した理由じゃないんでしょう?…………うんざりです。あなた方の対応はよく分かりました。もう結構です。自分で探しますから」

「ちょっと待ちなさい!」

「失礼します」

 小野寺が何か言いかけたのを無視して、千夏は通話を切った。

 興奮して息が上がっている。今まで生きてきて、他者に対してこれほどの怒りを向けたことも、口に出して相手を攻撃したこともはじめてだった。

 徐々に頭が冷えてくる。千夏は自分の言動に動揺していた。我を忘れると言うのか、怒りに身を任せて相手の言い分も聞かず一方的に責め立てたのを後悔していた。

「私……」

 肩を落としてベッドに座り込んだ。

 これからどうすればいいのだろうか。おそらく何度訴えても警察は動かないだろう。小野寺の声音からは、動きたくても動けないという失意の念があったように思えた。感情を抑えて、冷静に相手の事情を聞けていれば別の解決策が見つかったかもしれない、と思うも後の祭りだった。

「大丈夫ですか?」

 背中から岩切が声をかける。千夏はハッとして岩切へ振り返った。

「岩切さん、お願いがあるんです」

「何かな?」

「私と一緒に、姉を探してくれませんか?」

「…………私が?」

「はい。どうかお願いします。もう岩切さんしか頼れる人がいないんです」

 岩切への苦手意識がなくなった訳ではなかった。

 しかし、一人で探すよりか、二人の方が心強いと思った。自分は女性で、岩切は男性。有事の際、男性がいてくれた方がありがたい。いざという時に、性別を全面に出してあれこれ頼み事をしたり、相手に負荷をかけるやり方を千夏は嫌っていたが、今はなりふり構っていられない。姉と恋人に再会するためなら使えるものは何でも使う。

「…………市川は私の友人でもありますからね。分かりました。どれだけお役に立てるか分かりませんが、一緒に探してみましょう」

 岩切の返答に、千夏は前途が開いたと思った。

 千夏の表情は先ほどの沈鬱なものから、喜楽の色合いが濃いものに変わっていった。目からは涙を流して、深々と頭を下げた。

「ありがとうございます……」

「市川は、あなたのノートパソコンから手がかりを見つけようとしてました。もしかしたら、痕跡があるかもしれません」

「確認します!」

 千夏はリビングダイニングへ移動し、テーブルに腰を降ろした。

 岩切の言う通り、ノートパソコンは起動している。ログインすると、ブラウザとメーラーが開かれていた。姉がパソコンを使って捜査していた名残だった。

「これどうぞ。あれだけ汗をかいていたんですから、水分を取ってください」

 岩切がペットボトル入りのミネラルウォーターをテーブルに置いた。千夏は軽く会釈をして礼を言う。

「なにか見つけましたか?」

 千夏の背後から覆いかぶさるように、岩切は画面を覗き込んだ。和彦以外の男性に、パーソナルスペースに入られたことで、千夏の体が粟立った。しかし、彼に文句を言うつもりはなかった。自分から協力を頼みこんだ手前、拒絶するのは気が引けた。

 姉が話していた通りの人物であれば、何もされることはないだろう、と千夏は考えていた。

「これなんですけど」

 タイムスタンプが今日の午前一時前後になっているメールのやり取りを千夏は見ていた。

「なるほど」

「姉が私の名前で向こうの人たちと接触しようとしたってことですよね」

「このメールを見る限りそう考えるのが妥当でしょう。連絡が取れないことを考えると、接触して、どこかへ連れて行かれ、監禁されているのか」

「そんな……」

「チャットルームの方はどうです?」

 岩切の言葉に従い、ブラウザを開く。

 画面にはチャットルームが表示されていた。最新の書き込みは『ガイアの子供たち』による、体調に異変を感じたらすぐに連絡するよう促すものだけで、他の参加者が入室した形跡は一切なかった。よく見ると、入室ボタンがグレーアウトされている。クリックしても一向に反応しなかった。千夏はチャットルームから締め出されていた。

「『異変』か」

「私の身に起きてたこと……」

 二人は顔を見合わせた。どんよりとした空気が、二人の間に漂っている。

「どうします?」

「え?」

「市川を探し出すには、連中と接触しなければならない、と私は思います。消息が分からくなってからまだ一日も経っていない。生きている可能性は充分ある」

「そうですね。でも、どうすればいいんでしょうか」

「もう一度メールを出してみては?」

「姉が既に嘘のメールを送っているのに、信じて貰えますか?」

「それは分りません。ですが、連中とコンタクトを取る手段は、もうそれしかない。チャットルームにも入れないですしね」

「確かに」

「まあ送るだけ送ってみてはどうです?」

 岩切の話しぶりは、どこか楽観的だった。命の危険性があるのに、そんなことは歯牙にもかけていない様子だった。

 岩切の物言いを不審に思いながらも、千夏は、彼の言っていることは正しいと考えた。岩切に従って、メールを出した。返信はすぐにあった。

『前回ご指定いただいた場所にお迎えに上がりましたがお姿が見えませんでした。必要であれば、再度お迎えに参ります。』

 差出人は武藤だった。あの男の粘り気のある視線と、顔に張り付いたような笑顔を思い出すだけで千夏は恐怖に身を震わせた。思わず岩切を見てしまう。

 岩切は険しい表情で何度も返信を読んでいる様子だった。

「お粗末だな」

「え……?」

「ああいえ。気にしないでください。それよりどうしますか?『お迎え』してもらいますか?」

「…………」

 迎えなどされたくなかった。瞳はそれで行方が分からなくなっている。

 誰が好き好んでこんな怪しげな送迎を頼むのだろうか。

 そう思いつつも、千夏は迎えを呼ぶことを決めていた。そうしなければ、姉とは会えない。

「呼びます。今から来てもらいます」

「分かりました。……ちょっと失礼」

 岩切はそう言うと、私用の電話を掛けに席を外した。

 千夏は素早く文章を書いた。異変について、高揚感や快感に似た感覚も覚えているとの内容も書き加えメールを送った。

 すると武藤から『サマー様は次のライフステージにお進みいただく準備ができました。すぐに向かわせます』と返信があった。

 それから三十分も経たずに、車が到着したとの連絡があった。

 千夏は身軽な恰好に着替え、持てるものも必要最小限にした。部屋を出て行く時、リビングダイニングを振り返った。和彦と過ごした優しい時間が濃縮された部屋だった。見ているだけで、彼といつどのように過ごしていたのかすべて思い出せるような気がした。記憶の奥底から彼の話声、笑い声が響いてきた。声は徐々に大きくなり、千夏の体から抜け出して、室内に反響して消えていった。

 千夏はそれが幻聴だとすぐに分った。室内に響いているのは、冷房の機械音と、階下から時たま響いて来る若者たちの嬌声のみだった。

「待っててね」

 それは和彦に向けて言ったのか、姉に向けて言ったのか定かではなかった。

 エントランスを出ると、黒塗りの高級車がドアを開けて待っていた。二人は顔を見合わせ車に近づいた。

 運転手が無機質な目で二人を見やっている。そして、ゆっくりと岩切に視線を向けた。千夏は同行者がいることを書いていなかったのを思い出して、慌ててフォローした。

「この方はオフ会で知り合った方で、心配で見に来てくれたんです」

「……そうですか」

 運転手はそれ以上何も問うことなく、乗車するよう無言で促していた。先に岩切が乗り込んで、その後に千夏が続く。

 運転手はルームミラー越しに二人が乗ったことを確認すると、一文字に結ばれた唇を動かすことなく車を発車させた。

 車は都心を離れ、郊外へ向かっていた。千夏は、オフ会のあの会場へ再び連れて行かれるのではないかと思っていたがそういうことでもなさそうだった。そのことが反って千夏を不安がらせた。

 自分たちはどこに連れて行かれるのだろうか。

 千夏は岩切を横目に見た。岩切は特に怯えた様子もなく、車窓からの景色を悲哀を孕んだ目で眺めていた。

 千夏はポケットからスマートフォンを取り出し、岩切にメッセージを送った。岩切のスマートフォンが振動し、岩切にメッセージが入ったことを伝えた。岩切は画面から千夏に視線を移した後、千夏の意図を察して文字を入力しはじめた。

『ここで無駄に緊張して、体力を消費するよりかはリラックスしておいた方が良いと思いましてね』

『確かに……でも岩切さんは不安じゃないですか?』

『まったく不安じゃないと言えば嘘になりますが、明美が死んでからそういうのはあまり感じなくなりました』

『どなたですか?』

『話してなかったか。明美は私の元婚約者です。数年前、事故で死にました』

 千夏は岩切の言葉になんと反応していいのか分からなかった。岩切を見る。岩切は苦笑を浮かべていた。岩切の悲哀を帯びた岩切の目は千夏に向けられていた。

 千夏は、岩切の視線に、自分に対する同情か、もしくは憐れみの念がこもっているのを感じた。

『すみません。なんか変なことを聞いてしまって』

『いいんです。市川と、恋人さん、無事だといいですね』

 自分を気遣ってくれる岩切の言葉に感謝しながらも、岩切の言葉はどこか空々しく感じた。

 やり取りはそれきり途絶えた。

 今日は天気がいい。陽光が照らす外の景色は、そこで暮らす人々の生活を映し出している。病み上がりのせいもあって、千夏には睡魔が忍び寄って来ていた。瞼がだんだんと重たくなる。寝ている場合ではないのに、体は惰眠を求めていた。千夏の首がこっくりと船を漕ぎだしたところで、肩を叩かれた。千夏ははっとして目を覚ます。

「着きました」

 岩切の声に千夏は振り返る。岩切は目線で車窓の外を示していた。

 千夏が改めて外に目をやると、前方に大きな洋館が建っていた。石造りの建物は、日本には似つかわしくない様相を太陽の下に晒してる。

 洋館とその横に設けられた小さな庭園の周囲には、それらを取り囲むようにして木々がうっそうと茂っていた。他人の目に触れないように隠しているのだとすぐに分る。外の世界と隔絶された洋館は、ここだけ時の流れが停まっている、と千夏は思った。

 しかし建物が打ち捨てられている訳ではない、と判断できるのは、一見しただけで誰かが手入れをしていることが分かるからだった。外壁には経年劣化の跡こそ見られるものの、廃墟のように植物の蔓が壁を這っている訳でもないかったし、目の前の観音開きになっているドアや、二階にある窓は汚れひとつなかった。庭園に生えている芝生はちゃんと刈りいれが行われているようだった。よく見ると周囲の木々も枝が剪定されていた。

「すごい……」

 千夏が呟くと同時にドアが開いた。早く出ろ、ということらしい。千夏は礼を言わずに車を降りた。岩切が続く。

 二人が降りると、車は走り去った。すると目の前のドアが開き、スーツ姿の男が二人を出迎えた。

「ようこそお越しくださいました。こちらへどうぞ」

「姉はどこにいるんですか?」

「…………どうぞ」

 男は千夏の問いに答えなかった。

 千夏は岩切と顔を見合わせる。岩切は何も言わず静かに頷いた。太陽が、二人を中へ急かすように照り付けていた。岩切が一歩目を踏み出し、千夏もまた屋内へ向けて歩いて行った。岩切と男は一瞬の間、視線を交わした。千夏はそのことに気づいていなかった。

 中に入った千夏は瞬いた。古めかしい外見とは裏腹に、室内は新築と見紛うほど清掃が行き届いていた。

 正面には二階へと続く大きな階段があり、玄関からえんじ色のペルシャ絨毯が伸びている。千夏はテレビで見たレッドカーペットを思い出した。自分の存在が、この空間に酷く不釣り合いだと思えた。左右の壁には階段を挟む形でドアが付けられている。

 左手の方に男が足を進める。千夏と岩切は男の背中に続いた。男がドアを開けると、向こう側に天井が吹き抜けとなっている食堂が広がっていた。壁に沿って、二階には通路が設けられている。そこからこの場所を見下ろすことができる造りだった。食堂の真ん中には、細長い円形のテーブルが陣取っている。玄関にある観音開きのドアや、先ほど目にした階段もそうだったが、この洋館に備えられている物はどれも仰々しく感じられた。食堂の奥には暖炉があり、その右手のドアを男は開いた。

 そこは廊下で、照明が一切ついていない、闇の空間だった。ライトをつけず、三人はどんどん建物の奥へ歩いて行く。廊下を抜けた先は、ちょっとした広間になっていた。木造で、柔らかな照明が室内を照らしていた。真正面には、同じ造りのドアが一枚、左手には地下へと続く細い階段があった。

 千夏は、オフ会の会場で偶然発見した秘密の通路を思い出した。一度経験しているからなのか、傍に岩切がいるからなのか、あの時ほど恐怖は覚えていなかった。

 男は無言のまま、階段を示した。

 ここを下りろ。

 そう言っているのだ。

「ここを、下りたらいいんですか?」

 岩切が酷く冷静に問う。男は何度も言わせるなと顔に出しながら頷く。

「行きましょう」

 岩切が誰に言うでもなく呟き、階段を下りていった。千夏も続く。

 地下に近づくにつれ、千夏は息苦しさを覚えていた。心臓の鼓動が脈打ち、胸が圧迫される思いだった。奥から腐臭が漂ってきている。思わず顔をしかめた。嗅ぐに堪えず、口で呼吸をする。岩切は職業柄慣れているのか、その様子はなかった。

 階段を下りた。千夏の息遣いが廊下に小さく響く。鼓動はどんどん早くなっていく。千夏はそれが、恐怖によるものなのか、興奮によるものなのか分からなくなっていた。それが胸中でないまぜになり、混沌とした感情に変質していた。鼻で息をしていないにも関わらず、臭いは酷くなっていく一方だった。臭いが口内にこびりつき、二度と取れないのではないかと思うほどだった。腕で鼻と口を覆う。岩切は変わらず平然と先を歩いていた。

 突き当りの角を曲がったところで、左手に一枚のドアが見えた。廊下はそこから少し行った所で終わっている。ドアに近づくと、臭いが強くなった。

「臭いはこの先からみたいですね」

「ですね。酷い臭い……この先に姉が…………」

「…………」

 岩切がドアノブに手をかけた。険しい顔つきで千夏をうかがう。千夏は黙ってゆっくりと頷いた。

 岩切は静かにドアを開いた。そこには、死が蔓延していた。冷えた室内には、人間より少し大きい程度の黒い袋がずらりと並んでいた。確かめるまでもなく、そこには死んだ人間が入っていると分かった。死体袋の他には大型の冷蔵があった。扉を開ける。夥しい数の輸血パックが吊るされている。一つ一つに名前が記されていた。

 ハッとして千夏は輸血パックをひとつ手に取った。奇しくも、瞳が手に取った物と同じパックだった。恋人の名前が記されたプラスチック製の容器を抱きかかえ、千夏は膝から崩れ落ちた。和彦はずっとここにいたのだ。ここで、ずっと待っていた。

 千夏の胸中に広がっていたのは、悲しみではなく、和彦と再会できた喜びだった。再開したら、伝えたい言葉がたくさんあったはずなのに、出てこない。千夏は、和彦の体内に流れていた液体が入った容器を慈しむように見つめていた。

「ごめんね和彦さん。ごめんね。もう独りにしないから」

 もう一度強く抱きかかえる。冷えた感触が心地良い。

 千夏は輸血パックを元の場所に戻した。それが正しいと思った。

「市川さん」

 岩切の声がする。振り向くと、岩切は入って来たのとは別のドアを見ていた。

「どうやら臭いの元凶はこの部屋じゃなくて、向こうにあるみたいです」

「…………行ってみましょう。…………姉はきっとそこに」

 今度は岩切より先に千夏がドアに近づき、開いた。

 千夏は目の前に広がる光景が現実のものとは思えなかった。質の悪い冗談か、もしくはドラマか映画の撮影現場だと信じて疑わなかった。

 室内は広く、寝室を思わせる造りになっていた。それは、部屋の最奥にある、キングサイズのベッドが存在感を放っているせいかもしれなかった。そこにはどこかで見たことのある老人が一人、酸素マスクをつけて上体を起こしていた。笹竜胆の家紋が縫われた格式の高そうな羽織をまとっている。

 老人の体からはチューブが無数に伸びていた。目でそれらを辿っていく。

 そこには間宮がいた。伊織がいた。伊勢崎がいた。オフ会で見知った顔ぶれがいた。目があるはずの場所には、黒い空洞があるばかりで、今にも干からびて枯れていっているような有様だった。彼らは天井から吊るされ、老人とチューブでつながっている。あるいは、見慣れない機械ともつながっていた。

 二十人。天井に吊るされている人間の数だった。その一人一人から数えきれないチューブが下へ伸びている。さながら蜘蛛の巣に嵌って、逃れられなくなった虫のようだった。チューブはどれも赤く染まり、彼らの体内から血液を抜き取っているのだと分かる。

「…………ラフレシアの巣」

 重く厳かな声が、腐敗臭が立ち込める室内に響いた。

 千夏が声のした方向を見ると、老人がマスクを取り外しこちらを見ていた。

「君の恋人が言っていた。私が他者に寄生して命を長らえているのを知り、そう例えた」

「…………」

「良い例えだ。ラフレシアは他の植物に寄生し、栄養を奪い、生きる。私がそうしているように」

「姉はどこですか?」

「案ずることはない」

「私はどうなるんですか?」

「…………」

 老人は深呼吸をした。その姿は、空気の澄んだ自然の中にいるようだった。

「良い例えだと言ったのは他にも理由がある。ラフレシアは、臭いを発してハエを引き寄せる。命をつなぐためだ。そのような花を学者は虫媒花と呼ぶ。彼らはまさに私にとってのハエだった。失敗例もあったが、些細な問題だ。ほとんどの人間は、彼らのように、私の元へやってくる」

 老人は天井を見上げ感慨深げに言った。

 暗に、君もこうなる、と言っているのだと千夏は理解した。

「話は終わりだ。そろそろ食事の時間なのでね」

 そう言い終えると同時に、老人の左手から使用人によってディッシュカートが運ばれてきた。

 上には鈍い銀色の光を放つクローシュが載せられている。使用人がふたを取ると、皿の上には見たこともない肉料理が並べられていた。老人は一瞥すると何も言わず食べはじめた。

 その光景に見惚れていると、千夏の肩に手が置かれた。振り返る。武藤が笑みを浮かべて立っていた。

「お久しぶりです。サマーさん」

 その瞬間、千夏の中で何かが弾けた。

 どうして?どうして私はこんなところに?

 我に返る。なぜ自分は姉や和彦に会えるとあんなに意気込んでいたのだろうか。なぜあんなに嬉々としていたのか。輸血パックが脳裏にちらついた。

 私も、あんな風に血を抜かれて、死んでしまうの?

 そう思うと、これまで必死になって探していた和彦のことや、今も行方が分からない姉のことなどがどうでも良いと感じられた。オフ会で知り合った連中のことなど論外である。自分の命を天秤にかけた時、その価値を凌駕するものだとこの世に存在するのだろうか。

 逃げなければならない。

 あの老人は栄養を奪い取ると言っていた。あんな老人の養分になって人生を終えたくなかった。あんな風に死にたくない。

 どうにかしないと。

「…………お久しぶりです。あの、こちらは姉の友人で」

 武藤に岩切を紹介する。

「あぁ。これはどうも」

 武藤が千夏から視線を外し、岩切に笑みを向けた瞬間、千夏は武藤を押し倒した。

 虚を突かれた武藤は呆気なく床に尻もちをついた。千夏は一目散に外へ駆け出した。背後から岩切が声を上げていたような気もするが、千夏は振り返らなかった。死体安置所を出て、地下通路を突っ切り階段を駆け上がる。広間を抜け暗い廊下へ走る。

「嫌だ!嫌だ!あんな死に方嫌だ!」

 千夏は恐慌状態に陥っていた。声を上げてはならないのに、恐怖を抑えきれず、言葉になって出てしまう。背後でドアの開く音と、足音が聞こえた。

「ごめんなさい!もう何もしません!許して!何もしないから!許してください!お願いです!和彦さんみたいに死にたくないの!お姉ちゃんみたいに死にたくない!!あんな連中みたいに吸われるのは嫌!」

 後ろを振り返りながら走っていた千夏は、角を曲がり切れず壁にぶつかってしまう。

「きゃ!」

 ぶつかった反動で転倒した。体が悲鳴を上げる。起き上がろうとした時、千夏の体に人の手が触れた。

「いや!!」

「落ち着いてください!」

 声の主は岩切だった。千夏は岩切の声で頭が冷えていくのを感じた。岩切はライトをつけて、千夏を照らした。

「岩切、さん?」

「そうです。駄目ですよ。あんなに大声をあげては。見つかってしまう」

「ど、どうして?」

「あの後、私もなんとか逃げ出してきたんです。で、あなたの声が響いてきたのでここまで追ってこられたんです」

「…………ごめんなさい。私、岩切さんを置き去りに」

「そんなことはいいんです。それより急ぎましょう。私たちは入って来た時とは逆の廊下にいます。引き返すのは危険すぎる。とりあえずどこかに隠れてやり過ごすか、前に進むしかないでしょう」

「分かりました…………」

「立てますか?」

 岩切の手を借りて、千夏は立ち上がった。体は痛むが、動けないほどではない。岩切に手を引かれて、千夏は歩き出した。

「ここに部屋があるみたいです。休んでいきますか?」

 さびれたドアが一枚あった。鍵はかかっていないようだった。

「……いえ、一刻も早くここから逃げ出したいです」

 岩切は頷き、歩を進める。

「岩切さん、さっき、私が喚いていたの、聞こえてましたか?」

「ええ。はっきりと聞こえていましたよ」

「…………幻滅、しましたか?」

「いえ。あんなのを見ると誰でもそう思うでしょう。至って自然な反応です」

「…………嘘でもそう言ってくれると…………」

 歩いていると、前方から薄っすらと光が見えた。ドアの隙間から漏れ出しているものだった。千夏は、光に吸い寄せられる虫のように近寄った。

「誰もいないようです」

「分かりました」

 人の気配がないのを確かめると、千夏はドアを開ける。廊下の向こう側は更に別の広間となっていた。対岸にドアがあるのと、部屋の中央に何かの石像が置かれている。それ以外、特に目立ったものはなかった。

「変なの…………」

 そう言いながらドアを開ける。観音開きのあるエントランスに出た。

 しかし、千夏たちの目の前には武藤と、彼の部下らしき男たちが立ちはだかっていた。呆気に取られている隙に、岩切はこめかみを殴られ倒れた。

「い、いや…………」

 千夏は反射的に後ろへ駆け出した。光ある場所から闇が支配する空間へ戻る。

 途中、鍵のかかってない部屋があったことを思い出し、そこに駆け込んだ。スマートフォンでライトをつける。千夏はそこでようやく携帯機器の存在を思い出し、外部に助けを求めようとした。しかし屋内は圏外だった。千夏は絶望に飲まれながらも隠れられるようなところを探した。室内は木箱が所狭しと置かれ、その中に混ざって劣化の見られるオフィスデスクがあった。

「ここはあなたのお姉さまも利用したことがあるのですよ」

 千夏は固まった。背後から武藤の声がする。まるで、ホテルを案内するコンシェルジュのような声色だった。

 声と同時に室内に照明がついた。明滅しながら、オレンジ色の光は千夏と、武藤たちを照らし出した。

 千夏は何も言わずに後ずさった。足が木箱に当たる。思わず箱の上に尻もちをついた。

「い、いや……」

「そんな。このプロジェクトに参加したのはあなたの意思でしょう?」

「ち、違います。姉が、和彦さんが…………!そうよ、あの人たちのせいなんです!私は関係ありません!お願い赦してください!どうか助けてください!」

「オフ会でもそうでしたが、わがままな御人だ」

「お願いです!死にたくない!あ、木下喜美江!坂上友宏!私にあなたたちのことを教えた人!連絡先を教えます!だから見逃して!」

 武藤はため息を吐いて困った表情を浮かべていた。

「やれやれ。母親は今でも健気に目撃情報を集めていますが、無駄でしょう。坂上友宏なる人物はこれにはまったくの無関係です。オフ会に参加した失敗作の友人だっただけだ。サマーさん、いえ、市川千夏さん。まさか副作用でそこまでお人柄が変わってしまうとは。残念です」

「嫌!やめて!む、武藤さんお願いします!見逃してください!あ、あなたにお仕えします!誰にも言いませんだから殺さないであんなの嫌よ!あんな無様な死に方いや!死にたくない!」

 武藤は肩をすくめて、左右の男たちに顎で指示した。

 二人の男が千夏に歩み寄る。千夏はなおも抵抗していたが、鼻と口を覆うようにハンカチを当てられた。薄れゆく意識の中で、武藤が、あのにんまりとした笑顔を向けていた。

 それが、千夏の見た最後の光景となった。

この作品に、最初のコメントを書いてみませんか?