意識が覚醒した。瞼の向こうから、眩しい光が射し込んできているのが分かる。
瞳は、ゆっくりと目を開いた。真っ白で清潔な天井が見える。顔を横に向けると、温かい陽光が白いカーテンレースを通して室内を照らしていた。左手には、スライド式の白いドアが見えた。腕に違和感を覚え見てみると、細いプラスチックのチューブが腕から透明のパックにつながれていた。
ここは病院だ。
瞳は、撃たれてから意識を失って、病院に担ぎ込まれたのだと理解した。
「はは。やっちゃったな」
誰に言うでもなく呟くと、上体を起こす。
体は重しを付けられているのかと思うほど重い。
一体、どれだけ眠っていたのだろう。瞳が首を傾げていると、ドアが開かれた。
「あ!」
検査をしに来た看護婦が声を上げて固まっていた。瞳は彼女に微笑みかけ「おはようございます」と挨拶した。
看護婦は何も言わず部屋の外に駆け出して行った。間もなく、看護婦は白衣をまとった中年の男性を伴って、病室へ戻ってきた。男性はベッドの傍に椅子を持ってきて腰掛けた。首からネームプレートをぶら下げており『田中』と書いてあった。
「良かった」
田中は孫娘を見るかのような笑顔を浮かべた。田中の表情を見て、瞳も、思わず笑った。
「ご自分のお名前は分かりますか?」
「はい。市川瞳です。M警察署の捜査第一課の刑事です」
「うんうん。指は何本か分かりますか?」
田中は瞳の目の前でピースサインをした。瞳が「二本です」と答えると、親指を折り曲げたまま薬指と小指を伸ばした。
「四本です」
「うん。認識力については問題ないですね。ここがどこだか分かりますか?また、どうしてここで寝ているのか、どうしてそうなったのか覚えていますか?」
「K大学附属病院だと思います。捜査中に容疑者から発砲を受けたことが原因です。こうして目覚められて良かったです」
田中は看護婦と見合わせひとつ頷くと、椅子から立ち上がった。
「記憶の方も問題なさそうですね。傷口はだいぶふさがっていますが、もう何日かこちらで安静にしてください。検査をして、問題なければ退院ということにしましょう」
「分かりました。ありがとうございます」
「それでは、お大事に」
そう言い残し、田中と看護婦は病室を出て行った。
瞳はすることもなく窓を眺めていた。青空の中にこじんまりとした雲が混じり、時折影をつくった。
「そうだ、千夏と喜美江さん」
瞳はハッとしてベッドから立ち上がろうとした時、ドアがノックされた。
「はい」
瞳が返事をすると、心配そうな顔を浮かべた岩切が姿を見せた。
岩切もまた白衣を着ていたが、田中とは雰囲気がまるで違った。それは、岩切の背格好や、印象的な目がそうさせるのだと、瞳は思った。
「よお」
岩切はぶっきらぼうに歩み寄った。
「座っても?」
「もちろん」
岩切は田中がそうしたように、丸椅子を引き寄せて腰を降ろす。
「まったく。むちゃくちゃして」
岩切はため息を吐きながら言った。呆れかえっているのを隠そうともしないのが、岩切らしかった。
「あはは」
「で、なんて?」
「まだ安静にしてくださいって。でもすぐに退院できそう」
「そうか。まあ無事でよかったな」
「ほんとそう思う」
「ところで、この前妹さんが思いつめたような顔して訪ねて来てたぞ」
「そうなの?ぜんぜん知らなかった」
「当然だ。お前は意識がなかったんだから」
「それっていつのこと?」
「八月二十五日の日曜日だ。昼の二時くらいだったかな」
「それで、理由は?」
「知らんよ。廊下を通り過ぎていくのを見ただけだ。連絡してやったら?」
岩切は瞳の荷物からスマートフォンを取り出して手渡した。
瞳は「ありがと」と言いスマートフォンを起動させる。瞳は画面を見て、今日が九月四日の金曜日であることを知った。
一週間以上、昏睡していたことになる。瞳は、撃たれた時のことを脳内に思い浮かべた。立て籠もっていた男は、警察との交渉を突然破棄して、今にも人質に手をかけそうだった。そんな状況に我慢ができず、物陰から忍び寄って、突貫し、撃たれた。
その結果が今の状況だ。自分の性格を我ながら苦々しく思った。
「ほんと、呆れちゃうわね」
そう言って千夏に電話を掛ける。しかし、何度呼び出しても千夏は出なかった。
「出ないなぁ。どこか出かけてるのかしら」
「まあ平日だしな。なに、姉から電話があったんだからすぐに折り返してくるだろう」
「そうね。あ、そうだ。私の荷物しらない?」
「そこにある」
「ちょっと取ってくれない?」
岩切は「ほら」と言いながらバッグを渡した。
「ありがとう」
中身を確認する。着替えと財布、その他こまごまとした生活用品が顔を見せていた。
「他にはない?」
「ああ、警察手帳なんかは保管室にある。拳銃もな。なぜだか知らんが、警察の誰も取りに来ないし、病院側も送り返したりはしないらしい。銃の取り扱いについて俺は詳しくないが、ここは病院だぞまったく」
岩切は呆れながら吐き捨てるように言う。
刑事が撃たれて意識不明となった事態に小野寺を含め皆慌てていたのだろう。気が回らなかったのかもしれない。容疑者及び犯人に警察の人間が撃たれることは、アメリカなどの銃社会では当たり前に起こっていることなのだろうが、日本ではまだ珍しい。
銃は現場に出向く時は必ず携帯しているが、ホルダーから抜き取る機会は稀だった。そのような環境で、刑事が撃たれたとなれば、騒然とするのは無理のないことだった。
瞳は岩切の言葉に苦笑を浮かべていた。
「俺が手続きをして返しておこうか?」
岩切の気遣いに瞳は首を振って応じる。
「大丈夫。民間の人にやらせることじゃないから。それにすぐ退院できそうだし、受け取りも私がしておくわ。ところで、あんたこんなところで油売ってていいの?DNAやらなんやらの研究で忙しいんじゃ」
「正確には遺伝子だ」
「ん?DNAって遺伝子のことじゃないの?」
「違う。DNAはデオキシリボ核酸と言って……まあいい。興味があるなら今度レクチャーしてやるよ」
そう言って、首筋を掻きながら岩切は立ち上がった。白衣のポケットに手を突っ込んで、瞳を見下ろしている。
束の間、会話が途切れた。瞳は岩切が何か話し出すのではないかと待っていたが、岩切は何も言わなかった。瞳は岩切の目を見る。知性と強い意志を宿した目だった。その中に、拭いきれない哀しみと絶望が渦巻いているのを瞳は知っていた。
死ぬまでその感情に囚われてしまうのかしら。でも、それって、哀しすぎるわ……。
せめてもの慰めとして、瞳は岩切に微笑みかけた。それが岩切にとって慰めになっているのかは分からない。そうなっていて欲しい、と瞳は思う。瞳には岩切の内でくすぶっている感情を完全に理解できる訳ではなかった。瞳は婚約者もいなかったし、そのような人物を事故で亡くしたこともない。そんな自分が、どんな言葉を掛けても岩切には虚しく聞こえるだけだろう。だからせめて、彼に真心で笑顔を向けられる存在でありたい、と願う。
「また寂しくなったら、来てもいいわよ」
胸中で溢れ出した岩切への想いが、口をついて出る。
岩切は「ふ」と口元を歪ませて笑った。
「仕方ない。おまえのために来てやるよ」
丸椅子を元の場所に戻して、岩切は背を向ける。
「じゃ、大人しくしてろよ。なにかあったら医者を呼べ」
「ありがとう」
岩切は背を向け、手を振りながら病室から出て行った。
瞳は心臓の鼓動が速くなっていることに気がついた。鏡を見なくても、頬に赤みが差しているのが分かる。こんな思いをするのは、高校生以来だった。
岩切の次に病室を訪れたのは小野寺だった。
瞳が目覚めたと報せを受けてやってきた小野寺は、相変わらずいつもの調子で、あの後の顛末や他の事件のことを話していた。普段なら事件の話など辟易するだろうが、情報に飢えているのか、瞳は小野寺の話に聞き入っていた。
「それで無事解決したって訳だよ。あーあ。お前みたいに使える奴がいないと疲れがたまっていかんね」
「ご迷惑をおかけして……」
「いいさ。後先考えず突っ込んでいく奴がいないのは、それはそれで新鮮だったよ。でもまあ、時にはそういうのも必要だって分かったね。勉強になるよ」
小野寺は内ポケットから煙草を取り出し、ライターで火を付けようとした。
瞳が無言でその仕草を見ていると、ここが病室だと思い出したらしく、慌てて煙草を仕舞った。
「悪い悪い。お前といるとどうもな」
「どういう意味ですか?」
「いやなに、お前と話していると、ここが現場や張り込みしている車内か、オフィスだと錯覚するんだよ。猪武者に病室は似合わねえや」
小野寺はカカと笑い声をあげる。
瞳は猪武者と呼ばれてムスっとしていたが、小野寺の笑い声につられて笑みをこぼした。
「さあてと。そろそろ行くかな。医者の言うこと守って大人しくしてるんだぞ」
「お言葉に甘えて」
小野寺は「じゃあな」と言い残し帰って行った。
時刻は午後五時を回っていて、空模様もいつの間にか爽やかな青々とした色から、茜色に移り変わっていた。夕日が室内を照らす。瞳は夕暮れの中、独り病室に取り残されているのが心細かった。これならオフィスで仕事に忙殺されていた方がマシだとさえ思う。
スマートフォンを付け、通知を確認するが千夏から折り返しの電話は掛かってきていなかった。瞳は再度、妹に電話する。それは姉が目覚めたと報せるためなのか、静かで清潔な病室の中で感じる心細さを埋めるためなのか、瞳には判断がつかなかった。
一分余り呼び出すが、千夏は出なかった。ため息を吐き、メッセージアプリを起動する。千夏とのトーク画面を表示してメッセージを送ろうとするが、言葉が出てこない。数分間悩んだ末『起きたよ~』とだけ送信した。メッセージを送ってからしばらくの間、瞳はトーク画面をつけっぱなしにしていた。千夏がメッセージに気づいて、返信をくれるかもしれないと思ってのことだった。
しかし、夜の帳が降りて、消灯の時間を過ぎても既読は付かなかった。折り返してくる雰囲気もない。
「……しまった!」
瞳はスマートフォンを操作して、木下喜美江に連絡を入れた。自分の性急さで、木下サチの自殺事件の捜査が疎かになってしまったことを詫びるためだった。
電話をかけると木下喜美江はすぐに出たが、応答した声には生気がまるでなかった。瞳は電話の向こうにいる、やつれ細った彼女の顔を容易に想像できた。瞳は木下喜美江の心中を思うと胸が張り裂けそうな思いだった。
「…………市川さん?」
「はい。瞳です。サチさんの件、捜査が滞って、連絡もせずにいたこと申し訳ございません」
誰もいない虚空に向かって頭を下げる。雲に隠れていた月が顔を出し、病室内を薄らと照らす。まるで、月が瞳の謝罪に応えてくれているかのようだった。
「それなら知ってますよ。妹さんが教えてくれました」
「千夏が?」
「ええ。犯人に撃たれて、昏睡状態だと聞きました。無事でよかった……」
先程とは打って変わり、木下喜美江の声には温もりが込められていた。母が娘の無事を知って心底安堵している言葉遣いだった。
瞳は胸に手を当てて彼女の心情をおもんばかった。本当なら、見ず知らずの他人にではなく、実の娘にかけてやりたかった言葉だったろうに。瞳はやるせない気持ちでいっぱいだった。妹と同い年の女の子。未来ある若者が、かくも無残に自分の命を散らした。
彼女の死からふた月以上が経過している。捜査に進展はない。「中に誰かいる」という意味深な言葉と、骨髄へ到達していた不可解な細い穴が、曖昧模糊とした情報で宙ぶらりんになっている。
二つの情報に関連性は見えてこない。いや、そもそも最初から関連性などなかったのかもしれない。木下サチの自殺は、毎日のように起こっている若者の自殺と同等なもので、岩切の言う外的要因などはなく、絶望や失意からくるただの常軌を逸した行動だったのかもしれない。そう考えるのが自然だった。
実際、現場に立ち会った小野寺をはじめとする刑事や鑑識は、そう考えていた。明らかに異常な行動だが、そのことについて意義や意味を見出していなかった。解剖を担当した執刀医の沢村も、遺体と赤色骨髄に見つかった穴には違和感を持っていた。しかし、その裏を読み取ろうという気配はなかった。瞳を除いて、組織の人間の中では、彼女の自殺は単なる自殺として処理されてしまった。瞳は納得できなかったが、彼らが正しいのかもしれない。
瞳の思考を駆け巡っていたのは、背反する二つの考えだった。しかし、どちらも「かもしれない」という憶測以上のものではなかった。どちらの考えを取るにせよ、明確になる事象はない。瞳は自分の無力さを呪った。同時に木下喜美江に対する罪悪感が沸き起こる。二つの感情は胸中でないまぜとなり、焦燥感に昇華した。
納得のいく結論が欲しい。瞳が頭を抱えながら、そう考えていた時、木下喜美江が口を開いた。
「そういえば、妹さん」
電話口から聞こえる言葉に反応して瞳は意識を声に向ける。
妹になにかあったのだろうか。
「妹がどうかされました?」
「いえね、市川さんが昏睡状態になってから、妹さんが市川さんの調査を引き継ぐって言ってたんです。少し前に会ってお話したんです。なんでも、妹さんの彼氏さんも失踪していて、それと娘の自殺につながりがあるかもしれないって」
「えっ?」
「その後、それぞれ独自に調べていたんですが、特に進展はなくて……。でも、一週間くらい前、娘が失踪してからの動向が分かったかもしれないと連絡がありました」
瞳は瞬いた。瞳は、妹の部屋に呼ばれた日のことを思い出していた。
妹の彼氏、高野和彦は意味不明な言葉を残して失踪している。その話を聞いた時、瞳は木下サチと和彦の言葉を関連付けていた。しかし、木下サチの自殺と和彦の失踪をつなげる証拠はなかった。だが、妹は証拠を見つけているかもしれない。もしそうなら、事件性があるものとして、正式に捜査を再開できる可能性が高まる。そうなれば瞳も動きやすくなる。
千夏に会わないと。
千夏からの応答が、依然としてないのが不安だった。やはりこれは事件で、調べていく内に妹は巻き込まれてしまったのでは。
瞳は勢いよく点滴を外し、ベッドから立ち上がりガウンを脱ぐ。裸体が月明りに照らし出された。誰に見られている訳でもない。そのまま荷物が置かれている椅子に近寄り、衣服を取り出して着替えた。
「あの、市川さん?」
木下喜美江が困惑した声を上げていた。瞳は肩でスマートフォンを挟んだ。
「喜美江さんごめんなさい。妹から連絡があったのはいつですか?正確な日時を知りたいです」
話しながら荷物を確認する。財布と警察手帳といくつかの小物がある。拳銃が必要だった。昼間、岩切が拳銃は病院の保管室に預けられていると言っていたのを思い出す。
「ええと、先週の金曜日です。八月二十五日の午後一時十分です」
となると、千夏は木下喜美江に連絡を取った後、病院を訪れたことになる。
瞳は違和感を覚えた。木下サチの自殺の背景を追っていたのは、自分だった。だが途中で意識不明となって、その後を妹が継いだ。そして、重要だと思しき手がかかりを手に入れた。妹は木下喜美江にそのことを話している。しかし、自分にはなんの報告もない。
昔から、何かあればすぐメモを残して、あるいはメッセージを送ってきていた妹が、捜査の当事者である自分に対して書置きすら残していない。あまりにも不自然だった。
岩切と木下喜美江の話を総合すると、千夏は木下サチの自殺と彼氏の失踪に関係のありそうな情報を得て、それを一週間前の日曜日、木下喜美江に話した後、自分にも伝えに来ているはずだった。だが室内には千夏が残したと思しきメモや書置きのような類のものは一切なかった。バッグの中身を再度確認し、内ポケットや財布、手帳などに挟まっていないか見てみるも、遂に見つからなかった。
「喜美江さん、それから後、妹から連絡ありましたか?」
「いいえ。…………思えば、私の方からも特にしていませんでした。あの、どうかしましたか…………?」
まさか本当に。
全身が総毛立った。額から汗が噴き出していた。妹になにかあったらと思うと、まるで生きた心地がしなかった。こんなところで悠長にしてはいられない。一刻も早く、妹の無事を確かめなければならなかった。
「喜美江さんごめんなさい。また後で連絡します。ありがとう」
「あの、ちょっと」
電話の向こうで困惑していた木下喜美江がなにか言おうとしていたが、瞳は通話を切った。
スマートフォンをサイレントモードにし、ポケットに突っ込む。室内を見回し、取り忘れているものがないか確認した。
ないことを確かめると、瞳は息を殺しながらゆっくりと病室のドアをスライドさせた。ドアは音もなく瞳に従った。左右に目を向け、巡回している看護婦がいないか気配をうかがう。誰もいない。瞳は暗い廊下に足を踏み出した。廊下は非常口を示す緑の光に照らされていた。光沢のあるリノリウムの床に光が反射して、不気味に彩られていた。
まずは保管室へ向かわなければならなかった。瞳は館内マップを探す。歩くとマップはすぐ見つかった。幸いなことに館内マップとフロアマップが壁に並んで設けられていた。マップは平面的に描かれており、瞳の病室は二階にあった。ナースステーションが中央に陣取り、それを廊下と病室が取り囲んでいる。西に延びる廊下は、岩切たちが使っている研究等へと連絡している。階段は四隅にそれぞれ配置されていた。保管室は三階でこの階にはないらしい。エントランスと最上階を除く階は、基本的にすべて同じ造りをしているらしかった。
瞳は現在地を確認する。瞳が立っている地点は、連絡通路のちょうど真下だった。マップに従えば、目の前に伸びる廊下を歩くとナースステーションの前を通って、連絡通路へ向かうことができた。少し戻ると、後方に階段があった。その階段を上がると、保管室の対角線上に出る。次いでに、緊急搬送口の場所を調べた。一階にあって、受付のすぐ傍にあった。瞳はマップを頭に叩き込むと、急いで保管室へ向かった。
保管室の入り口には警備員が一人で番をしていたが、疲労がたまっているのか、不真面目なのか眠りこけていた。受付に座ったまま、首をこっくりと揺らしている。どちらにしても、瞳にとってありがたかった。
受付に入って、忍び足で保管室に向かう。ドアノブを回すと鍵はかかっていなかった。そのままドアを開く。室内の壁には正方形の形をしたロッカーが埋め込まれていた。ざっと見渡してもその数は百以上ある。瞳は一旦ドアを閉じて、音もなく警備員の傍に忍び寄った。
デスクにはノートパソコンが置かれており、スクリーンセーバーが表示されていた。マウスを動かすと、画面が切り替わりエクセルの表が表示される。不用心なと思いながらも瞳は警備員に感謝した。表はロッカーの番号、保管してある荷物の内容、受付した者の名前と保管した日付と手渡した日付の列から成っていた。
フィルターをかけて、保管日を降順にソートする。すると、二列目に『警察手帳、拳銃その他』と出てきた。ロッカーの番号は四十四番だった。
瞳は表を元の表示に戻すと、再び保管室へ入った。四十四番を見つけ開ける。そこには確かに警察手帳と拳銃、手錠などの職務遂行に必要な携行品が入っていた。
瞳はそれらを素早く身に着ける。拳銃は安全装置がかかっているのを確認し、ズボンに挟んだ。少し引き上げて、シャツで隠れるようにする。ホルスターを着けたかったが、上着がなく、隠すことができないため断念した。
受付を出て一階まで急ぐ。途中、懐中電灯の明かりが向こう側から見え、咄嗟に身を隠した。看護婦の巡回だったが、発見されずに済んだ。胸を撫で下ろすと、再び階段を下りていく。
一階に下り、エントランスに面した受付の傍を通り、緊急搬送口から出たところで瞳は声をかけられた。
「よお」
心臓が飛び跳ね、瞳は叫び声を上げそうになったが我慢して、背後を振り返った。見ると岩切が鞄を片手に立っていた。
「な、なんだ。岩切か……」
瞳は安堵して、大きくため息を吐いた。張り詰めた気分が一気に弛緩していく。全身から力が抜け、尻餅をつきそうになった。
「何してるんだ市川」
「あんたこそこんなところで」
「俺は帰宅途中だ。休もうと思ってね。別に怪しいことをしている訳じゃない」
「そう……」
「で、市川は何をしているんだ?確かまだ入院していたはずだろ?」
意地悪く岩切が言う。瞳は岩切を睨みつけると背を向けて歩き出した。
「おい待て」
いつになく険しい声が瞳の背中を捕らえた。
瞳は振り返って短く「妹と連絡が取れないの」と言った。
「あなた、先週の日曜日に妹を院内で見たと言ってわよね?」
「ああ。見た」
「私が倒れた後、妹が私の後を引き継いで捜査を始めたらしいの。どうして私が調べていることを知っていたのかは分からないけど、妹の彼氏も失踪していて、関係があると思ったみたい。
それで、手がかりを見つけたらしいわ。喜美江さんにそのことを話してた。でもおかしいのよ。妹は相談したいことや言いたいことがあったらすぐ私に言ってくる子だった。どんな些細な内容も、メモを書置きしたり、実家を出てからはメッセージに残したりね。なんで喜美江さんには伝えているのに、そういう報告が私には何もないの?倒れていて意識がなくても、それこそメモやメッセージを残したりはできるでしょ?」
「…………」
岩切はバツが悪そうな顔をして瞳の言葉に耳を傾けていた。
「私は妹が事件に巻き込まれてしまったと思ってる。いや、私が巻き込んでしまった。そう思うとこんなところでじっと待つことなんかできない。だから、今から妹の安否を確かめに行くの」
「すまなかったな」
「なんのこと?」
「いや。お前が運ばれてきてから妹さんが見舞いに来てたんだ。その時知り合ってね。市川が調べてたことを知りたがっている様子だったから、教えたんだ」
「……あなたが?」
「ああ。断ることもできたんだが、まあいいだろって思ってね。申し訳ない」
「……そう」
「俺にも責任があるな。なあ、同行してもいいか?」
「え?」
瞳は険しい目つきで岩切を見ていた。
岩切が妹に勝手に話したのは無責任だと思ったが、助言を請う形でとはいえ、これまで何度も岩切に事件の情報を話してきた。今回の件も、元を辿れば、いつものように岩切に相談したことが原因だった。そのため、一方的に責めるつもりはなかったが、内心では憤りを感じていた。
「必要ない。素人が来たって邪魔になるだけだし」
瞳の語気は怒りで満ちていた。
背を向けて歩き出したのを、岩切は何も言わず追った。不要だと言ったが、瞳は付いてくる岩切を追い返すことはしなかった。
二人は無言のまま大通りに出た。二ヶ月ほど前、ここから居酒屋が立ち並ぶ路地へ入っていた晩のことを瞳は思い出した。あの時も、岩切は忙しい中時間を割いて自分に付き合ってくれた。居酒屋で滔々と語る岩切の姿が目に浮かんだ。
やっぱり私のせいよね。
夜風に当たったせいか、瞳は幾分か冷静になっていた。
瞳は、さりげなく岩切に目を向ける。岩切はいつにも増してクールに見えた。痩躯を伸ばし、目は前方に据えている。瞳は先ほど邪険にしたことを謝ろうとしたが、そのスタイルの良い体を見ていると癪に思えて口をつぐんだ。
間もなくタクシーが右手からやって来た。瞳が手を挙げると、減速しながら近づき、二人の目の前で停まった。後部座席に乗り込み、行先を告げた。運転手は目的地を再度確認すると、それ以降は何も言わずに黙々と車を走らせた。赤いテールランプが、夜の雑然とした光に飲まれて消えた。
耳慣れた振動音がどこからか聞こえてくる。千夏は汗だくになりながら目を覚ました。
オフ会から帰って来てから何日経ったのかも分からない。あれ以来、体は異常なまでに重く、熱い。体内の血液が、なにかに燃やされているような感覚だった。冷房を効かせ、室温を最低温度に設定しても、千夏の体から汗は引かなかった。そのせいで、夜もまともに眠ることができなくなっていた。眠りに落ちても三十分から一時間の間に起きてしまう。意識がぼやけたままで、なにをするにも手につかない。会社の総務の人間に事情を伝え、有給を取得していたはずだが、ちゃんと手続きができているのか不安だった。
それに加え、頭痛もどんどん酷くなっていた。最初は微々たるもので、偏頭痛かと思い、市販の薬で済ませていたが、時間が経つにつれてごまかしが効かなくなっていた。これだけ汗をかいているのだから、水分不足が原因だろうと見当をつけ、重い体を引きずってキッチンまで行き水を飲んでみた。しかし、痛みは千夏を嘲笑うかのように、頭の締め付けを強くしていた。冷えピタを張っても、アイスノンを使っても一向に引く気配がなかった。
千夏を追い込んでいたのは、原因不明な体の熱さとそれからくる睡眠不足、酷い頭痛だけではなかった。頭痛や倦怠感は肉体的なものだったが、それらによって生まれた膨大なゴミや洗濯物が千夏の精神を蝕んでいた。汗に濡れたシーツや布団はもう替えがない状況だったし、寝間着などは洗濯かごの中の遺物となっている。風呂場の換気扇を回しているが、脱衣所には汗のすえた臭いがこびりついていた。
千夏は、途中からブラとパンティだけで寝るようにしていた。本心では丸裸になりたかったが、本音と羞恥心がせめぎ合った結果、羞恥心が勝った。しかし、裸同然なのに体温はまったく下がる気配がない。裸になっても同じことだろう、とぼやけながらも思った。
また振動音が聞こえる。スマートフォンのものだった。千夏は口で息をしながら、ベッドの中を手探りで探すが見つからない。
どこに置いた。
おぼろげな記憶を辿る。頭が悲鳴を上げているが、気に留めなかった。誰かにこの状況を知らせたい。身近な誰かに。その一心で記憶の断片を手繰り寄せる。千夏は、スマートフォンはボストンバッグと共にダイニングテーブルに置いているのを思い出した。ベッドから滑り落ちるようにして這い出て、リビングを目指す。
歩いて行けば、数秒もかからない距離だったが、こうして這い進んでいると、途方もなく遠い場所に感じた。やっとの思いでテーブルの足元まで辿り着き、椅子を支えにして、起き上がった。後ろを振り返ると、千夏が這い進んできた道は、べっとりした汗の川ができていた。
肩を上下させ、口で呼吸する。吐き出された息は、体温と室温の差で白い靄になって消えていった。一旦体を落ち着かせようと、鼻で深呼吸してみる。いくらか楽になると思ったが、喉が渇ききっており、吸い込んだ空気が痛みを伴って喉から肺へ入り込んで来る。千夏はせき込んだ拍子に体勢を崩しそうだったが、テーブルに手をついてなんとか踏みとどまった。
体中の毛穴という毛穴から汗が流れだし、千夏の全身は濡れていた。汗が水滴となって床に落ちていく。その光景がオフ会三日目の、テントへ向かう途中、山道で倒れた時を彷彿とさせた。千夏は頭を振り、あの時の映像を忘れようとする。脳みそがぐわんぐわんと揺れて、頭蓋骨の中でシェイクされ今にもペースト状になりそうだった。髪の毛の先から、汗が水滴となってお気に入りのダイニングテーブルと、ボストンバッグに飛散する。
千夏は、もううんざりだと言わんばかりにテーブルを叩いた。手のひらに熱い痛みがじんわりと広がっている。千夏は自分の行いに後悔しながら、一歩前に踏み出した。下着に汗が染み込んで、不愉快に濡れている。汗は陰部にまとわりつくように流れ込んできていた。まるでナメクジかなにかが、ゆっくりと這い寄ってきているようだった。
千夏は自分で流した汗におぞましさを覚えた。体中が熱いのに、鳥肌が立っている。その様子はなぜだか滑稽に思えた。スマートフォンを手に取った。電源ボタンを押して、スリープを解除する。PINコードでロック画面を開けようとしたが、汗が液晶にも滴り落ちて、上手く操作できなかった。ふつふつと苛立ちが湧き上がっているのを千夏は感じた。
以前から、自分はこんなに怒りやすい性格だったのだろうか。
過去を反芻しながら、こんなに苛立っているのは熱さと頭痛のせい、と結論付ける。オフ会に参加した和彦やサチたちの「人が変わった」という話は、意識の表層に出てこなかった。
やっとの思いでロックを解いた。千夏はそこではじめて今日の日付を知った。九月四日の金曜日だった。オフ会から帰ってきたのは一日の火曜日だったから、合計四日間体の不調に苦しんでいることになる。うんざりした思いで通知欄を見た千夏は瞬いた。姉の瞳から何回も不在着信が入っていた。瞳からの着信は、今日の昼頃からはじまり、最後の履歴は午後五時十九分となっている。
自分が苦しんでいる間に、姉は目覚めていた。千夏は貴重な時間を無駄にしたと思った。自分がちゃんと報告していれば、それだけの時間で捜査に進展があったかもしれないのにと自分を責めた。
もし、これが原因で和彦さんが死んでいたら…………。
焦燥感と過ちを犯した自責の念が体中を駆け巡った。そのせいで、余計に体温が上がったような感覚だった。滴り落ちる汗の量も増えた気がする。液晶に落ちてきた滴は、群れるように水の幕を作っていた。画面の所々が盛り上がっていて、見ていて胸糞が悪くなってくる。手のひらで拭うと、じっとりとした跡を残して、水の幕は潰れて消えた。
「……お…………姉ちゃ、ん」
画面をタップして折り返そうとするも、指が言うことを聞かない。それに加えて、汗の滴に反応して挙動がめちゃくちゃになる。関係のない部分に触れ、アプリを呼び出しては閉じるを何回も繰り返した。
そうこうしている内に、メッセージアプリの通知が表示された。そこにも姉の名前があり『起きたよ~』とのほほんとしたメッセージが表示されていた。千夏は力なく微笑んで、メッセージに返信しようとした。それと同時に、世界が暗転し、床にスマートフォンが落ちる音を聞いた。
教えて、あげなきゃ。
そう思いつつも、千夏の意識はどんどん暗闇に引きずり込まれていった。
午前〇時に差し掛かった頃、リビングでうつ伏せになっていた千夏は、口から垂れた涎と大量の汗の中で目覚めた。鼻先に広がった水たまりは悪臭を放っており、思わず顔をしかめた。
体は依然として重い。傍にあったスマートフォンを確認する。あれから、瞳からは連絡は着ていなかった。電話をしようか悩む。瞳は、普通ならこの時間はまだ起きているが、入院している身でもあるので既に寝ているかもしれない。電話は避けてメッセージを入れた。
千夏のメッセージは瞳が無事目覚めたことを喜ぶものと、オフ会に参加して得た情報と自身の推測を交えた内容を送った。病室には、これまで千夏が調べて判明したことと、その過程で見つけた自己啓発団体が開催するオフ会に参加する旨を記したメモを置いてきてあったが、その内容も書いておくことにした。また、オフ会から帰って来てから体が異常な熱を発し、酷い頭痛に悩まされていることも付け加えた。
どのような情報が役に立つか分からない。関連があると思しき出来事はすべて記載した。
メッセージを送信したと同時に、玄関の方から物音がした。気のせいだと思ったが、耳を澄ませると、取っ手が引かれドアの開けられた音が聞こえてきた。混濁した意識の中で、千夏はパニックに陥った。玄関の鍵はかけていたはず。なのに、いったい誰が。強盗か。もしくは。
木下サチと武内美咲の言葉が脳内でこだまする。中に誰かいる、連れて行かれる。千夏の脳内では木下喜美江と坂上から伝え聞いた、彼女たちの死体のイメージが急速に膨らんでいった。
恐慌状態になり、自らの腹を割き、内臓を切り取りながら死んでいる。顔は形容しがたい表情を浮かべ、白濁とした目を虚空に向けている。そうしないと、今、自分が対面している恐怖から逃がれられなかったのだ。
千夏は肌が粟立つのを感じ、ゆっくりと後ずさった。死にたくなかった。拉致されるのも、自分で命を終わらせるのも嫌だった。
どうすればこの状況を切り抜けられるのだろう。
重い頭の中で、必死に思考するが、考えは浮かんでは消えて、脳内はそれらの残滓で混沌としていた。目尻から涙が溢れる。嗚咽を漏らしそうになったが、口を押えて耐えた。
玄関が明るくなった。侵入者が照明を付けたのだ。玄関とリビングダイニングを隔てるドアから明かりが漏れていた。モザイクガラスで分かりづらかったが、人影が二つ見える。
千夏は差し込んでくる明かりを頼りに、なにか身を守る物を探したが見つからなかった。手で押さえた口の中で歯が音を立てて鳴りやまない。心臓の鼓動が速く、破裂するのではないかと思うほど脈動している。両脚は固まってしまい、その場から動くことができなかった。太腿の付け根から温かいものが伝っていくのを感じた。それは足元にアンモニア臭のする水溜まりをつくっていた。
ドアの向こうで声が聞こえる。二人は男と女で会話をしている。自分を拉致した後の段取りについて話しているのか、千夏は話の内容を聞き取れなかった。
そして遂に、侵入者はドアに手を掛けた。
「酷い臭い…………」
瞳は岩切を伴って千夏のマンションを訪れていた。
合鍵を使って部屋に入ると、悪臭が充満していた。思わずハンカチで鼻を覆う。岩切は顔をしかめたまま、玄関ドアが閉まらないように、靴を挟んだ。僅かながら空気の流れが変わり、外の新鮮な空気が入って来ていた。
岩切がそうしている間に、瞳は照明を付ける。昼白色の眩い光が二人を照らした。悪臭の元は玄関を入って目の前にある脱衣所だった。瞳は脱衣所を覗き込んですぐ後悔した。
「ここも開けておこう。どの道換気した方が良いだろう」
「そうね」
二人は、なぜかお互い声を潜めながら会話していた。
まるで敵組織の本丸に乗り込んでいるような感覚だった。通いなれた妹の部屋。しかし見てくれは同じだが、雰囲気がまるで別物だった。それは、室内に充満していたすえた臭い、脱衣所に溢れていた洗濯物のせいなのかもしれない。
足音を忍ばせてドアに近寄る。瞳は、ドアに手を掛けると、ゆっくりスライドさせた。
「千夏!!」
瞳の悲鳴のような声で岩切も室内に入る。見ると、床にはちょうど一週間前病院で見た市川千夏が、下着姿で艶のある肌を晒したまま気を失って倒れていた。
瞳は、妹の頭を撫でながら必死に呼びかけていた。岩切は血を流していた婚約者の明美と、それを抱きかかえていた自分の姿を、姉妹に重ねた。
瞳はアンモニア臭のする部屋で妹を抱きかかえていた。この臭気は瞳にとって馴染のあるものだった。妹は失禁していたのだ。新米刑事だった頃の自分と同じように。
「もしかしたら俺たちが部屋に入る直前まで起きていたのかもな」
「……え?」
涙を浮かべ、頬を染めた瞳が岩切を振り返った。岩切の目に瞳の姿が弱々しく映っていた。
「アンモニアの臭いがするだろう。おそらく失禁したんだろう。もしかしたら、俺たちを強盗かなにかだと勘違いしていたのかもな」
岩切の言うことは真実だったが、千夏には意識がなく確かめようもなかったし、瞳にはどうでもいいことのように思われた。
岩切が瞳の傍に屈みこんで、千夏の手首に指を当てる。岩切は頷いてから言った。
「生きてるな。市川、妹さんをベッドに寝かせてやってくれ。できるか?」
「うん……」
瞳は千夏が生きていることに安心したのか力なく頷いた。妹を肩で支えて、寝室に引き摺っていく。
岩切はリビングの照明を付けて、カーテンを開け、窓を全開にした。夜の新鮮で冷えた空気が瞳の鼻腔を掠める。都会の空気を美味いと思ったことはなかったが、この部屋に充満していた悪臭に比べると、外の空気は清流のように思われた。
「千夏…………」
瞳は妹の額に手を当てがった。酷い熱だった。全身が尋常ではないくらい発熱している。瞳は冷蔵庫から冷えピタを取り出して貼ってやったが、効果があるのかと疑問だった。
「どうだ?」
背後から岩切が声をかけてきた。振り返ると、リビングと寝室との狭間でこちらを見ていた。
「酷い熱があるみたい。病院に連れて行かないと……」
「…………」
「悠二、原因……分かったりする?」
「症状を見るに風邪かインフルエンザか。その辺の病気だろうな。だが俺は研究医だ。今回ばかりは然るべき者に診て貰うんだな」
「そう、そうよね。ありがとう」
スマートフォンを取り出した瞳は瞬いた。千夏からメッセージが入っていた。トーク画面を開くと、タイムスタンプは午前〇時五分となっていた。今は午前〇時十分。岩切の言った通り、妹はつい先ほどまで起きていたのだ。
それに、これって……。
瞳は千夏からのメッセージの内容を繰り返し読んだ。千夏から送られてきたメッセージには、彼女がこれまで調べてきた事柄と、その過程で見つけた『メシアの子供』なる自己啓発団体が開催したオフ会に参加した経緯と、その内容が書かれていた。
千夏はメッセージの中で、彼氏に贈った腕時計が、オフ会が開催された会場の事務室のロッカーに隠されていたこと、木下サチが城石音葉という人物を通じてオフ会に参加していたこと、武内美咲という女性が『ガイアの子供たち』という言葉を遺留品のノートに書き込んでおり、その名前を名乗る人物がオフ会の開催及び運営に関わっていたことを殊更に強調していた。
しかし、千夏が和彦に贈った時計は、持って帰って来なかったらしい。千夏もどうしようか悩み、捜査に役立つと考えながらも、身の危険を感じて手出しができなかった。千夏はそのことをメッセージの最後に添えていた。
瞳は再び涙が溢れてきそうだった。自分が馬鹿な行動をしたせいで、妹は文字通り命がけで捜査を引き継いだ。そして、点と点を結ぶ線を見出していた。瞳は、千夏に尊敬と慈愛の眼差しを向けた。
引っ込み思案で、物静かな妹が、これだけ大胆に行動できるのが誇らしかった。
「あとは私に任せて」
そう呟き、瞳はタオルケットを千夏に掛けた。気がつくと、部屋を漂っていた異臭は薄くなっていた。
千夏を寝室に残して、瞳はリビングに戻った。
「俺の知り合いの医者を叩き起こしておいた。救急車も呼んだ。腕はいいから安心しろ」
「そう。ありがとう」
「それより市川、これ」
「ん?」
瞳は趣味の良いダイニングテーブルに並べられたノートとメッセージアプリのトーク画面が印刷してある用紙何枚かに目を向けた。
「何これ?」
「まあ見て見ろ」
瞳はノートの頁をめくった。
頁のほとんどは、紙面を黒で塗りつぶされており、書かれている内容を読み取ることはできなかった。しかし、それが武内美咲の物であるのは千夏のメッセージから分かった。と言うことは、印刷してあるのは木下サチのもうひとつの日記だろう。
「これ、木下サチの自殺がただの自殺じゃなかった証拠になるんじゃないのか?」
険しい顔つきで岩切が言った。瞳は一通り検分した後、ため息交じりに言った。
「確かになり得るわ。でも、どうだろう……」
「どうかしたのか?」
瞳は千夏のメッセージを岩切に語って聞かせた。
「なるほどね」
岩切はいつもの癖で、首筋を掻いていた。それに構わず瞳は続けた。
「これで証明できるのは、サチさんたちがオフ会に参加したってことだけ。そのオフ会が彼女たちに自殺を促して、それが原因で自殺していたのなら、自殺幇助が成立するから立件できるんだけど」
「…………」
「まだ足りないわ……」
「ひとまず、そのチャットルームを見てみたいんだけど」
「妹さんのパソコンはパスワードがかけられている。解除するのは難しいぞ」
「なんとかするわ」
瞳がそう言うと同時に、チャイムが鳴り、少しのやり取りを交わし岩切がオートロックを解除した。
それから間もなく、救急隊員が担架を伴ってやって来た。救急車が到着したのだ。いつの間に着たのだろう。静寂が立ち込める夜、サイレンは瞳には聞こえていなかった。
岩切の指示で、千夏は担架に乗せられた。岩切は靴を履く。瞳も彼らに同行しようとしたが、岩切に止められた。
「ちょっと、私の妹なのよ?」
「それはそうだが、お前にはやることがあるだろ」
「そうだけど、でも」
「安心しろ。妹さんとは面識があるし、すぐに連絡を取れるようにしておくから。お前はお前の仕事をやってろ」
岩切の物言いには腹が立ったが、瞳は納得した。一個人としては、妹に付き添ってやりたかったが、彼女の立場がそれを許さなかった。
瞳は力強く頷いた。
「妹のことよろしくね」
「ああ」
そう言うと、岩切は隊員たちと共に、エレベーターホールの陰に隠れていった。
独りとり残された瞳は、妹の回復を祈りながら、まだうっすらと悪臭が漂う部屋で作業に戻った。
岩切の言う通り、千夏のパソコンはロックがかかっており、中身を確認するのは不可能だった。瞳は自分のスマートフォンで『メシアの子供』を検索する。
表示された検索結果を上から順に確認する。すると三件目に、『魂を洗濯して人生を変えよう』という文言の記載のあるサイトがあった。リンクをタップする。
画面がサイトへ遷移した。切り替わると、宇宙に浮かぶ地球を背景にしたデザインのページが表示される。全体的に古めかしい造りで、ページ内には十行余りの文章があるのみだった。文末には『あなたのお話を聞かせてください。共に生きることの幸せを見つけましょう』と記載があり、メールアドレスのリンクがあった。
瞳は、妹の言っている自己啓発団体がここだと確信する。アドレスのリンクを開くと、メーラーが開かれた。宛先には先のアドレスが既に記入されている。瞳は試しにメッセージを送ってみることにした。人生に悩める者を装って、友人や同僚から聞いた愚痴、悩みを混ぜ合わせてでっちあげた。瞳は内心で友人たちに謝罪し送信しようとしたが、指を止める。
今送っても返信は何時間か先になるだろうと思った瞳は、一旦ダイニングテーブルにある日記帳とノートに改めて目を通すことにした。
木下サチの遺留品でもある日記帳には複雑な思いを抱いていた。現場検証で遺留品を見逃してしまった過ちと、死んでしまった彼女に欺かれたような感覚がないまぜになっている。瞳は、自分たちが見つけた偽りの日記を脳裏に浮かべながら、木下サチの本心で書かれた彼女の足跡を目で追った。他者の目から隠していただけあって、日記に書かれた内容は、自分たちが検分したものよりかなり乖離していた。
小野寺から木下サチのアパートに呼ばれた晩のことを思い出す。現場に向かう車内の中で、瞳は、人を助けられなかった自分の無力さに苛まれていた。あの時と同じ感情が、胸中にふつふつと沸き起こる。
私の選んだ道は正しかったの?
警察が行動を起こせるのは、基本的に何かが起きた後だった。不審者や不審な動きをたまたま目撃したり、通報でもされない限りは未然に防ぐことはできない。
派出所で勤務していた頃は、地域のパトロールがあったのでそのような機会もあったが、刑事へと昇格し警察署で務めはじめてからほとんどなくなった。上司や同僚に推薦され、昇格試験を受け、受かった時は有頂天だった。
皆に褒め称えられ、自分でも望みが叶うと信じて疑わなかった。しかし、小野寺と共に働きだしてからその幻想は崩れ去った。刑事になってから、助けた数より、助けられなかった数の方が増えた。
現実はこんなものだ、と小野寺は言ったが、瞳は納得できていなかった。自分たちの能力が不足しているから、助けることができなかったのだと頑なに考えていた。
そのような意固地な考えを、木下サチの隠されていた日記は嘲笑っている、と瞳は思った。自分なら助けられる。そんな思い込みは傲慢でかつ不遜だと言われているような気がしてならない。
現に、瞳たちはその日記帳を見つけることができなかった。そして、見つけたとしても、木下サチを救うことはできなかった。瞳が、木下サチという人間をはじめて知った時、彼女は既に死んでいたのだから。
悲痛な思いに顔を歪ませていると、スマートフォンが鳴った。見ると岩切からの着信だった。
「妹は?」
「さっき病院に着いて診て貰った。とりあえず発熱を抑える薬と点滴を施した。経過観察が必要だが、呼吸と脈拍はそっちにいた頃より安定している。安心しろ」
「良かった…………ありがとう」
「いいんだ。ああそうだ。妹さん、途中で少しだが意識が回復した。その時、市川が目覚めて捜査を再開したことを話した。そしたら、パソコンのパスワードを教えてくれた。今から言うから開けるか確かめてくれ」
「分かった」
瞳はノートパソコンを手元に引き寄せる。
準備ができたと岩切に知らせる。
岩切は、はっきりとした口調で一文字ずつ告げていった。
打ち終わってエンターキーを叩く。ノートパソコンのロックが解除された。
「解除されたわ。ありがとう」
「ああ。今から俺もそっちに戻る。動かないでくれよ」
そう言い終えると岩切は通話を切った。瞳はなにか言う間も与えられなかった。
瞳はパソコンに視線を戻す。ブラウザが最小化されていたため開ける。
画面に一昔前のデザインをしたチャットルームが表示された。しかし、参加者の書き込みはないようだった。ただ一人『ガイアの子供たち』という名前のユーザの書き込みだけがピン留めされていた。
『オフ会へのご参加ありがとうございました。提供させていただきました食材については細心の注意を払い取り扱っておりますが、万が一異変が出た場合は速やかにお知らせ下さい』
泊りがけのオフ会。会場は山奥にあり、周辺にスーパーやコンビニはおろか、自動販売機すらなかったという。妹たちが口にした物はすべて団体から提供された。
瞳は、ここに木下サチからはじまり、妹をも苦しめた元凶があると確信した。無力感が事件を追及しようとする情熱へと変化していく。体が震えた。武者震いだった。体内は熱く、全身をくまなく流れる血が、瞳を焚きつけていた。
瞳はメーラーを起動させる。団体とやり取りをしていたメールを開け、返信する形でメールを作成した。
『こんばんは。以前のオフ会に参加させていただいたサマーです。帰って来てから、発熱や頭痛、吐き気が止まりません。チャットルームを見たら、体に異変が出た場合はすぐに連絡するよう記載があったのでメールしました。助けて欲しいです』
瞳は千夏を騙った。
送信ボタンを押すと、メールは送信済みフォルダに音もなく移動した。
僅か数分後に返信があったのは瞳を驚かせた。差出人は武藤と名乗り、誠実さを通り越して卑屈と思えるほどしつこく謝罪を述べていた。
『つきましては当方でサマーさんに対する賠償をさせていただきたいのですが、以前虚偽の申告をしてきた者もおりまして、一度こちらが指定する病院で検査を受けていただき、その診断書を送付いただけないでしょうか。お体の調子が悪く、動けないようでしたら、私共の方でお車を準備させていただきますが、いかがでしょうか。』
武藤への返信を後回しにして、瞳はM警察署捜査第一課のオフィスに電話した。深夜だが、あそこは常に誰かしらいる者だ。何度目かの呼び出しの後、気怠いのを押し隠すような声で男が電話に出た。
「お疲れ様です。捜査第一課の市川瞳です」
「え、市川さん?」
「はい。あの、そちらに小野寺さんはいますか?」
「…………ああ、いた。変わるわ」
間もなく馴染のある声が電話口から聞こえてきた。
「どうしたこんな時間に」
「今からメールを送りますから目を通して貰えますか?」
「なんだお前、病院にいるんじゃないのか?」
小野寺が何か言っているのが聞こえたが、瞳の聴覚には届いていなかった。
瞳は千夏とのトーク画面をキャプチャーし、印刷物、チャットルームとメールのやり取りを写真に収め、数回に分けて小野寺のアドレスに送信した。
「見れましたか?」
「ああ。……なんだこれは?説明してくれ」
瞳は、自分が倒れてから妹の千夏が捜査を引き継いでいたことと、彼女が得た情報を細かく説明した。
「ですから、木下サチの自殺はやっぱり事件性があると思うんです。彼女だけじゃありません。武内美咲という女性もそうですし、高野和彦という作家、妹の勤め先の土井和子の失踪もおそらく同じです」
「うぅむ……」
小野寺は電話の向こうで低くうねっていた。
元々、小野寺は瞳の意見に否定的ではなかった。裏で捜査の継続を認めてくれたのも小野寺だった。瞳は、まず彼を味方につけることが先決だと考えていた。
「今のところ、明確な証拠はありませんが、捜査再開の打診をするには充分だと思うんですが」
「…………それなんだがな市川」
小野寺の声音がいつになく弱々しい。
「どうかしましたか?」
「ちょっと待ってろ」
保留音が鳴る。どこかで聞いたことのあるメロディーを聞きながら、瞳は薄ら寒い思いをしていた。
いったいなにかあったのだろうか。小野寺のあんな声を瞳は今まで聞いたことがない。小野寺はどんな時でも、豪快に、粗野に声を上げて笑っているような大男だった。それなのに、そんな過去の姿を打ち消すほど、今の彼は頼りない存在に思われた。
「聞こえるか?」
「ええ、聞こえます」
「あのな市川、ついさっき、その件で俺に連絡があった」
「……と言うと?」
「どうやらお前に捜査させていたのがどこかのタイミングでバレていた。即刻中止しろとのことだ。警視庁長官の名前付きでな」
「それってどういう…………」
「俺にも分からんさ。ただ、やめろとだけ言ってきた。このまま続けたらどうなるか、分かるだろう?」
「し、しかし!これは事件で!」
「いいや違う。今はまだただの自殺だ。確かに、あの仏さんには不可解な点が多すぎた。俺も納得はしちゃいねえ。このまま捜査を続けたら何か出てくるだろう。実際、妹さんは失踪した恋人に贈った時計を、山奥にあるけったいな建物の中で見つけているらしいしな。だが、俺たちは刑事だ。警察という巨大な公的組織の歯車に過ぎん。どんなに納得のいかないことがあっても、上の決定は絶対だ。だから」
「…………分かりました。もう結構です。後は自分で何とかしますから」
「馬鹿!おい、待て!」
小野寺の言うことなど聞きたくなかった。
瞳は通話を切って、向ける先のない憤慨を抱えたまま、武藤に『迎えに来て欲しい』と返信した。
『承知いたしました。そちらにすぐ向かわせますので、今しばらくお待ちください』
返信があり、更に数十分が経過した。通知が、武藤から新着のあったことを知らせた。
『迎えが到着しましたので、お部屋の番号をお教えていただいてもよろしいでしょうか』
それに対し瞳は『下まで自分で下ります』と返信した。
窓をすべて閉める。岩切が帰って来ると言っていたので、照明とパソコンはそのままにした。
岩切に、この一時間と少しの間に起きた出来事の経緯と、合鍵をポストに引っかけて出て行くことをメッセージで伝える。既読は付かなかった。瞳は深呼吸し、意識を鮮明にすると妹の部屋を後にした。
一階に下り、エントランスを出ると一台の黒塗りの車が停まっていた。車種はベンツだろうか。宵闇の中、浮き出るフォルムは気品を感じさせた。車内で運転手がこちらに顔を向けるのが分かった。それと同時に後部座席のドアが開かれた。瞳はゆっくりとした足取りで、開かれたドアに向かって歩いて行った。
岩切が戻ってきたのは、瞳が出て行ってから二十分余り経った後だった。メッセージを見ると、謝罪と共に、自分が千夏を送っている間の出来事が書かれている。
「……馬鹿野郎が」
岩切はため息を吐きながら、埃を被っているソファに腰を降ろした。