武藤からスマートフォンが圏外で使えないことが周知されたのは、千夏がトイレから戻ってきてすぐだった。
「それと、研修の内容は、撮影などお断りさせていただいております。以前、隠し撮りしていた方がいて、インターネットにばらまかれ誹謗中傷が相次ぎました。そこで、心苦しいのですが、そのような電子機器は私どもの方でお預かりさせていただきます。私が回収して回りますので、お手元に準備をお願いします」
この告知に参加者たちは面食らっていた。
現代人にとって、スマートフォンは自分の分身とも言える存在だった。SNSやアプリのアカウントの他に、個人情報をもスマートフォンで管理している者がいる。そんな機器を一時的だとしても手放すのは抵抗がある。
「分かりました。すみませんが保管よろしくお願いします」
間宮がそう言って自分のスマートフォンを武藤に差し出した。
「間宮さん!ありがとうございます!」
武藤はにっこりと笑みを浮かべ、他の参加者に目を配った。千夏には、武藤が間宮の人気を利用しているようにしか見えなかった。
しかし「間宮さんがそうするのなら」と、参加者は次々と武藤にスマートフォンを預けに行った。千夏はその流れに逆らうことはしなかった。
「皆さんご協力ありがとうございます!お預かりした物は責任を持って保管し、最終日にお返しいたします!さて、これより今回初のワークの説明をさせていただきます!」
はじめてのワークは五つのグループに分かれて、自分の身の上話をするというものだった。話終えたらその内容について、一人一人が自分の考えをシェアする。それをメンバー全員が行う。グループ分けは武藤が既に決めており、彼の指示に従った。またワークにはルールが設けられていた。
「ルールは簡単です。皆さんには造作もないことだと思います。
まずひとつは、話を遮らないこと。次に、その人の人格を否定しないこと。話の内容によっては、自分の価値観に合わなかったり、受け入れられないこともあるでしょう。しかしそうだとしても相手の話を遮り、人格を否定するようなことはしてなりません。これは正常なコミュニケーションを疎外するだけでなく、人の心を傷つけ、延いては取り返しのつかない事態を引き起こすことになります。
最後に、話が終わったら拍手をして相手をリスペクトをしてください。これら三つのルールは、他すべてのワークと共通になりますので、ぜひ実施してください!」
千夏はこのワークで間宮と一緒になることはなかった。間宮と話せる時間は、随所に設けられた休憩時間や食事などを含めた自由時間だった。しかしどういう訳か、間宮の傍には武藤が付き人のように立っており、話しかけることはできなかった。まるで間宮と話させないようにしている、と千夏は感じていた。
間宮さんの話を聞かせないようにしているのかしら。
千夏はその後も、何度か機会をうかがって間宮に話しかけたが、ことごとく武藤に妨害された。はじめの内は偶然なのかもしれないと思っていたが、途中から武藤は意図的にそうしていると千夏は確信していた。
初日が過ぎ、二日目も似たようなワークを行って終わった。これまで、千夏は和彦や木下サチたちについてなんの情報も得られていなかった。胸中にはふつふつと焦燥感が沸き起こり、ワークの内容はまったく頭に入ってこなかった。それが顔に出ていたのか、ワーク中他のメンバーに「顔色が悪い」と指摘されたこともあった。必死に取り繕って事なきを得たが、暗澹とした感情は晴れなかった。
三日目になって、外で行われるワークが開催された。武藤が言うには、この建物から山道を道なりに歩いて三十分の所に精神を清めるテントが設けられている。また、道中で多くの自然と触れ合い、自分の心や魂、精神などを浄化して行くことで、本来の自分に向き合うことができるのだと。
この頃になると、ワークの内容は単なる自己啓発から新興宗教のようなものに様変わりしていた。千夏はそれに気がついていたが、他の参加者たちにその様子はない。伊織などは、初日と比べると笑顔が増え、目をきょろきょろとさせることも少なくなっていた。
この日、参加者たちは午前中に別のワークを終え、昼食を取った後、午後二時から目的のテントへ向けて出発した。道中、千夏が倒れてしまったのは歩き始めてから十分余りが経った頃だった。
「だ、大丈夫ですか!?」
間宮が駆け寄り、千夏を介抱しようとする。騒ぎを察知して、先頭から武藤も駆けつけてきた。
「汗がこんなに……」
「サマーさん、どうしましたか?」
千夏には意識があったが、彼らの呼びかけに答えられる気力はなかった。内からくる焦りや失意といった感情が彼女の体を蝕んでいた。
「武藤さん、どうしましょうか…………」
「うーん……。テントまではまだ二十分くらい歩かないと着きません。それに、昇り道ですし……。サマーさん、私の声は聞こえますか?聞こえていたら首を縦に振ってください」
千夏はゆっくりと首を動かす。武藤の声が頭の中でこだましていた。反響が重なり、声がだたの雑音になっていく。その音が千夏を更に苦しめた。加えて、晴天の上から太陽が彼女たちを照り付けている。
内憂外患とはこう言う状況を言うのだろうか。思わず顔をしかめてしまう。
間宮と武藤は千夏に反応があったのに安堵していた。武藤が屈みこんで、顔色をうかがっている。千夏は、武藤に間近で見られるのは生理的に嫌だったが、顔をそむけることもできなかった。
「かなり悪いですね……。サマーさん、今回のワークはどうされますか?私的には、部屋で休んでいた方が良いと思いますが、サマーさんが参加したいのであれば、サポートいたします」
千夏は朦朧とした思考で武藤の問いかけを吟味した。部屋には、和彦たちの手がかりがあるとは思えなかった。だとすれば、まだ見ていないワークの場へ行かなければならない。そう自分に言い聞かせ、立ち上がる。膝が震え、うまく立てなかった。
「うーん、これはよくありませんね。間宮さん、皆さんを先導して貰えますか?道なりに歩いて行くだけでいいので」
「武藤さんは?」
「サマーさんを一旦帰してから、追いかけます」
武藤と二人きりになってしまう。それだけは避けたかった。
「あの…………お気遣いなく。大丈夫ですから…………」
千夏は二人を交互に見ながらそう言う。
「いえ。やはりお部屋でお休みになってください。見るからに体調が悪そうです。無理をしても得るものはなにもありません。それに、なにかあったら責任問題になりますから」
千夏はなおも拒んだが、結局武藤に連れられて会場まで戻ってきた。
帰り付いた頃には、汗で肌と肌着が密着していた。玄関に座らせられると、武藤が食道に入っていた。間もなく武藤がコップを持って戻ってきた。
「とりあえずお水です。汗がすごいので、水分を取ってください。冷えてますよ」
武藤がコップを差し出してくる。千夏は「大丈夫です」と断った。喉は乾いていたが、武藤が持ってきたものを飲みたくなかった。
「そうですか。分かりました。あ、着替えを用意して貰っているのでそちら使ってください。浴場を使って汗を流していただいても大丈夫です。とにかくお部屋の方でお休みになってください。脱いだお洋服は置いといてください。スタッフが洗濯しますので。立てますか?」
千夏は頷いた。リノリウムの床に汗の滴がぽつぽつと落ちる。
「分かりました。なにか困ったことがあったらスタッフを呼んでくださいね」
「…………ありがとうございます」
「それでは私はこれで」
そう言い残し武藤は出て行った。
取り残された千夏は一旦和室へ上がった。室内は冷房が効いており、暑さで火照った身体に心地よい。千夏の寝床になっている場所に、布団と、スパで使われているような館内着が一式置かれていた。
一体いつ用意したのだろう。千夏は首を傾げながら、館内着を手に取った。そういえば返ってくる途中、武藤が誰かとやり取りをしていた気がする。スマートフォンは圏外だったはずだが、別の連絡手段を持っているのだろうか。
千夏はその場に座り込んで、汗が引くのを待った。焦りと不安は消えなかったが、涼しい環境に身を置いていると体の具合も落ち着いてきた。館内着に着替え、洋服を脱衣所に持って行く。
和室に戻り、布団に身を横たえる。誰もいない和室にはセミの鳴き声が響いていた。千夏の意識はゆっくりと睡魔に誘われていった。
間宮が武藤の代わりに参加者たちを先導しはじめてから十分が過ぎた。
「サマーさん大丈夫ですかね」
間宮の背後で千夏を心配する声が口々に上がっていた。
「武藤さんが付いていますから、大丈夫だと思いますよ。心配ではありますが」
額から頬を伝って汗が滴り落ちている。間宮はハンカチを取り出して額を拭う。以前なら汗をかくことなどまっぴらごめんだったが、今日はとても清々しい気分だった。
汗の中には老廃物も含まれていると聞いたことがあった。それは肉体的に不要になった成分が、水分と共に体外に排出され、新陳代謝が向上することである、と教師か誰かが語っていた記憶が間宮にはあった。
間宮は今日、そのことを身をもって実感していた。老廃物というのは、身体の成分だけではなく、精神的なものも指すと知った。一歩踏み出す毎に、汗が流れ落ちる。舗装された道路に汗の滴が水玉模様を作っていく。その一つ一つに、間宮が心の内でため込んでいた鬱屈とした感情が宿っているような気がしていた。
これらの染みは、やがて蒸発するか雨に流されるかして消えてしまう。間宮はそれを過去との決別だと考えた。一歩踏み出す毎に、過去を払拭し、遠ざけることによって、未来が近づいている。地面にできた汗の染みは、その足跡だった。
そうか。武藤さんはこのことを言っていたんだ。
「『自然と触れ合うことで、魂を浄化する』か」
「間宮さん、なにか言われました?」
間宮は独り言ちたのだが、間宮の背後にぴったりとくっついていた一人が言葉を拾う。
間宮は振り返り、その人物の顔を見た。確かユーザー名は伊勢崎だったはずだった。年齢は間宮より二、三上の男だった。
「いえね、出発前に武藤さんがおっしゃっていたことを思い出して、納得してたんですよ」
「と言いますと?」
伊勢崎の声は期待を孕んでいた。間宮の話に並々ならぬ関心があることは明白だった。彼ならきっと素晴らしく、意味のある言葉を紡ぎ出してくれる、と言いたげな表情も浮かべていた。
間宮は、あまり期待されても困ると内心では苦笑していたが、それを態度に出すことはなかった。
「伊勢崎さん、覚えていますか?武藤さんがなんておっしゃっていたか。『テントまでの道中では自然と触れ合ってください。そうすることで自分の心、精神、魂を浄化してください。そうすることで本来の自分と向き合うことができます』そうお話してましたよね」
「ええ確かに。覚えていますよ。それで、どうされたのですか?」
「いえ。僕はずっと考えていたんです。歩きながらね。自然と触れ合う、とはどういうことなのか。確かに、私たちが歩いている道のこちら側には草が茂って花が咲いています」
間宮が手で道の左側を示した。伊勢崎のみならず、他の参加者は間宮の言葉に聞き入っていた。自然と、間宮が示した方向に目を移す。間宮の言う通り、そこには青々とした草や名前も知らない花が花弁を咲かせて茂っていた。
「一方こっちはガードレールがあって、その向こうは急な斜面になってます。背の高い木々が数えきれないくらい立っている」
「そうですねぇ」
「僕は、触れ合うとはこれらの草木や花を見たり、実際に触れたりして見ろと武藤さんはおっしゃっていたのだと、思ってました。しかし、それは違うと分かりました」
「して、その心は?」
「皆さん、後ろを振り返ってください。いや、足元を見て貰ってもいいです。一度足を止めて見てください」
間宮の言葉に一同は前進を止めた。皆それぞれ足元に視線を落としたり、歩んできた道を振り返っていた。
「汗の染みが道路にあるでしょう?」
「ありますね」
「それこそ、武藤さんがおっしゃっていた触れ合いなのです」
伊勢崎はきょとんとした顔をして首を傾げていた。伊勢崎と同様に、他の面々も間宮の言葉がいまいち理解できない様子だった。
間宮はそんな一同を見て優しく語りかけた。
「今、僕たちの頭上では太陽が照り付けています。そんな中を歩けば、このように汗が滴り落ちる。僕は、この汗を流す行為が触れ合いというもので、皆さんに見て貰った染みは、その足跡だと分かりました。
汗は老廃物を流して体の新陳代謝を向上させてくれます。その老廃物というのは、僕たち皆が持っていた辛い過去や、ネガティブな考えも含まれているんですよ。皆さん、歩いていて心が洗われる気持ちになりませんでしたか?暑いのに、なんだか体が軽くなったような感じは?正しい方向へ進んでいるという自信みたいなものが湧いてきませんでしたか?」
「確かに、私も感じていました。間宮さんとまったく同じことを」
伊勢崎が間宮の言葉に同調する。
それを皮切りに、参加者は口々に自分が感じていたことを話しはじめた。伊織などは興奮して口角から唾が激しく飛んでいた。
「そうでしょう!武藤さんはこのことをおっしゃっていたんです!汗を流し、余分なものを排除することで、自分と向き合えと。これは必要なことだったんだ!テントに着くまでに、武藤さんは今の僕たちのような状態になって欲しかったんですよ!」
間宮自身、自分の言葉に鼓舞され、興奮を隠しきれていなかった。これまで思い悩んできた人間関係や、将来への不安、自分を卑下してきた行いがすべてくだらないことのように思えてならなかった。
それは他の参加者も同じだった。伊勢崎が短く「我々は生まれ変わるんだ」と言うと、一同が唱和した。そしてそれを何度も繰り返した。
武藤が間宮たちに追い付いたのはその時分だった。走ってきたのか、間宮たち以上に汗を流し、呼吸が荒かった。しかし、人の良い温和な笑みは崩れていなかった。
「随分賑やかでしたね!下までお声が聞こえてきました。どうかされましたか?」
「間宮さんが、武藤さんの言っていた言葉の真意を教えてくれたんです!」
「ほう?ぜひお聞きしたいですね!」
間宮は頭を掻きながら照れくさそうにしていたが、武藤の頼みを断る訳にもいかず、先ほどの話を繰り返した。
「素晴らしい!まさにその通りです!さすがはチャットでも皆さんの頼れるリーダーだった間宮さんです!そうです!そういうことを私は言いたかった。ですが、敢えて全容はお伝えしませんでした。なぜなら、自分で気づくことこそが大切だからです。その力が、人生を切り開くのに必要なのです!」
武藤は間宮に手を差し出した。間宮は武藤の手を取って握手を交わす。その光景を見た参加者たちは二人に、そして自分たちに拍手を送った。
「あの、武藤さん、サマーさんは大丈夫ですか?」
伊織が口を挟んだ。武藤は悲し気な表情を浮かべた。
「はい。緊急を要するものではありませんでした。水分を取って、寝ていれば大丈夫でしょう。ですが、皆さんが得たこの体験と気づきを、サマーさんに提供できなかったのは残念です」
「そんなことないですよ。サマーさんは、もともとちょっと変わった人だった。ワークにもあまり積極的でなかったし、倒れたのは、信じる力が足りてないからだ!」
誰かが声高に言った。その言葉に間宮は頷いた。彼が同意を示したことにより、参加者の中での彼女への認識が統一されてしまった。
「まあまあ色んな人がいますから。サマーさんだって、人生を変えたいと願って参加されたんですから、悪し様に言うのは良くないですよ。さあ!テントまでもうすぐです!皆さん行きましょう!」
武藤の掛け声に応じて、皆は再び歩みを進めた。
先頭に立ちながら、武藤は、歪な笑みを一層歪ませていた。
意識が表層に上がってきた。視覚は瞼の向こうから薄明りを感じ取り、聴覚は風に揺れて草木が擦れ合う音を拾った。セミの鳴き声は小さく、代わりにカナカナとヒグラシの鳴き声が遠くから聞こえる。嗅覚は畳から発せられているどこか懐かしいイ草の香りを嗅ぎ分けた。
千夏は目を覚ました。ゆっくりと瞼を開けると、木目の天井が見える。顔を横に向けると壁にかかっている時計が見えた。針は午後五時過ぎを指していた。和室には千夏一人だけだった。間宮たちはまだ戻って来ていないらしい。
上体を起こす。すぐ傍に洋服が綺麗にたたまれていた。数時間前まで汗で濡れていたが、今は乾燥している。抱き寄せると、柔軟剤の香りが鼻腔をくすぐった。千夏は周囲を見渡し、誰もいないことを確認して館内着から着替えた。
和室を出て一階へ下りる。食堂から人の気配がして、中に入った。室内には夕暮れの明かりが差し込んでいた。がらんとしており、時刻も相まって心細さを感じる。千夏は奥にある厨房へ近づいた。人影が見える。
「すみません」
千夏が声をかけると、一人の男が顔を出した。無表情で、目が座っている。
「なにか?」
男は邪魔をするなと言いたげな視線を千夏に寄越していた。千夏はどぎまぎしながら、洋服を洗濯してくれたことに対する感謝を述べた。
「仕事ですから」
男はそう言い残して姿を消した。それと同時に、厨房からまな板で食材を切っている音が聞こえてきた。千夏は足早に食堂を去って、和室に戻ってきた。
千夏は室内を見回した。室内には千夏の布団が敷かれているだけで、他にはなにもなかった。荷物は奥の押し入れにしまわれている。
千夏は襖を開けて自分の荷物を取り出した。押し入れの中は予想以上に広く造られており、皆の荷物の他、布団も収納されている。それでいてまだスペースには余裕があった。
襖を閉めて、ボストンバッグを開ける。中には替えの下着類とメモ帳と筆記用具があった。武藤はここでの研修内容を撮影するなと言っていた。圏外で使えないのと、デトックスという名目のためにスマートフォンを彼に預けさせられた。やはり外部に情報を漏らしたくないのだ。千夏は耳を澄ませ、意識を階段の方向へ集中させた。幸い、誰かが階段を上がってくるような足音はしていない。
千夏はメモ帳を開き、手早くオフ会の内実を箇条書きにしていった。これを姉に見せれば、まだ動きようがあるかもしれない。そう思ってのことだった。しかし、千夏にはここがどこなのか、肝心の場所が分からなかった。都内ではないことは確かに思えた。三時間余りバスは走っていたのだ。途中に見た田畑の豊かな景色が脳裏をよぎる。手がかりとなりえるのはあの風景のみだった。帰りのバスでは場所をある程度絞り込めるように注意しよう。
そこまで考えたところで、疑問が思考をかすめる。千夏は一旦些細なものだとして、やり過ごそうとしたが、そう思えば思うほど、疑問は脳内で肥大化しかま首をもたげてきた。
武藤を除く自分たち参加者はこの三日間というもの、基本的にこの和室で生活をしていた。食事を取るのと入浴する際は一階へ下りる。一階には食堂と厨房、浴場があり、二階には和室とトイレしかない。であれば武藤たちはどこで過ごしているのだろう。まさか毎日都内からここまで車で通っている訳ではあるまい。急な派遣などであればそれもあり得そうだが、オフ会自体は事前に開催が予定されていたし、この会場もそのために造られたものだ、と武藤が研修の合間に言っていた。
そうなると運営側の人間も寝泊りできるスペースがあって当然なのでは。
千夏は背後を振り返った。時計の針は五時半を指している。メモ帳とペンをポケットに入れ千夏は和室から出た。スリッパは履かなかった。
階段を下りてエントランスに立つ。出入口のドアは閉じられていた。ドアの方から夕日がうっすらと差し込んでいる。茜色に輝くなんとも心細い光だった。千夏はエントランスの電気を付けずに、そのまま歩き出した。スリッパでないため、パタパタという足音を気取られる心配がなかった。
食堂からはかすかに調理している音が聞こえてきた。食堂を通り過ぎると、浴場へ続くドアの前に立つ。ドアをそっと開ける。目の前に脱衣所が広がり、左手には個室のトイレがあり、その奥に使い慣れた浴場がある。室内に入り、電気をつけ見渡してみる。特に気になる箇所はない。浴場も覗いて見るが同様だった。
千夏は脱衣所を出て、階段に向かう。やはり、彼らは毎日ここに通ってきているのだろうか。そう思いながら、一段目に足を踏み出した時、妙な引っ掛かりを覚えた。
勘違いかしら。
千夏は戻って、食堂と浴場のドアの間に立った。じっとしていると、左手側、つまり階段のある方の壁から、ひやりとした冷気が漂ってきていた。
「違う……」
思わず言葉が口を突いて出てしまい、慌てて手で押さえる。だが、千夏の言葉は厨房までは聞こえていなかった。
千夏は胸をなでおろすと、改めて壁の方に手をかざしてみる。やはりそこだけ周囲と温度差があるように思えた。今の今まで気がつかなかったのが不思議だった。気が立って、神経を他に向けていたせいなのだろうか。
でも、なぜここだけ?
千夏が壁を触っていると、一部分がわずかにへこんだ。そのまま手を離すと、小さくカチッという音がした。千夏は本能的に鍵が解錠された音だと悟った。周囲を見回す。千夏の鼓動が激しくなっていた。静けさの中で聞こえる自分の鼓動は、いつもの数倍激しく聞こえたし、食堂を通って厨房まで響いていないか不安になるほどだった。喉が急速に渇き、水に飢えた。唾を飲み込むが、喉を潤すどころか、量が少ないため反って痛かった。
千夏は深呼吸を繰り返し、壁に手を伸ばした。壁は質量で手を押し返すことはしなかった。ただゆっくりと、音もなく、暗い地下へと続く階段を千夏の前に出現させた。
千夏は意を決めて手探りで階段を下りていった。段数はそれほど多くなく、すぐに通路へ降り立った。壁に手を這わせていると、スイッチらしきものに触れた。静かに昼白色の照明が付いた。通路は短い一本道になっており、少し行くと突き当たっていた。壁にはドアが一枚設けられている。ドアノブを回す。鍵は掛かっていなかった。そのまま奥に押す。
寒い…………。
千夏は思わず身震いした。どうやら室内はエアコンがかなり効いているらしく、冷気が千夏に向かって押し寄せていた。
中に入り、電気をつける。照明に照らされた室内は、事務所のような造りになっていた。壁に沿って事務デスクがふたつ並んでいる。その横にコピー機とロッカーがあった。部屋の中央には寝袋が三着並べられている。武藤たちはここで寝泊まりしていたのか。
千夏はメモ帳を開き、急いで壁の向こうに秘密の地下室があることを書き込んだ。
でも、どうしてこんな造りに?
疑問は新たな疑問を呼んだ。どう考えてもこの部屋は人目を憚るようにして造られている。なぜこんな手間のかかることをするのだろうか。答えは明らかに思えた。
見られたら不味いことを隠すために。
千夏は足を踏み入れ室内を検めた。デスクの上は整理整頓されており、汚れひとつない。キャビネットは鍵がかかっていて開けることはできなかった。コピー機にも特に目立ったものはない。
なにかあるはずよ。なにか。
千夏はそう念じながら、ロッカーに手をかけた。ロッカーは開いており、中にはいくつかのハンガーに洋服とズボンがぶら下がっていた。下には靴と鞄が丁寧に収められている。上部についている小さい棚に手を伸ばす。すると、固い金属質な物体に触れた。指で手繰り寄せて、見てみる。
千夏は目を見開いた。それは千夏が和彦にプレゼントしたあの腕時計と同じ型のものだった。壊れているのか、針は六時二十分を少し過ぎた辺りで停止していた。千夏は夢中になって時計を調べた。予感めいたものがあった。和彦に渡した時計には、背面に小さく『C to K 2020』と刻まれている。
この時計が同じものであるなら……。
背面を見た時、千夏は時計を取り落としそうになった。彼女の胸中で、絶望が色濃くなっていた。千夏の予感は当たっていた。背面には、『C to K 2020』と刻まれていた。千夏の頬を涙が伝い落ちていく。涙は光沢のある床の上で、はじけ飛んでいった。
間宮たちが会場に戻ってきたのは午後七時を過ぎた頃だった。
「……皆さんおかえりなさい」
和室に上がってきた彼らを千夏は出迎えた。
「ただいま戻りました!」
間宮が威勢のいい声で反応する。間宮の表情はこれまでと違い、いきいきしていた。仕草もおどおどしたものではなく、はっきりとはつらつとしている。はじめて会った頃の、どこかおどおどしていた感じは消え失せ、言うなれば男らしくなっていた。
千夏は間宮の変化を見て、和彦のあの異様な様変わりを思い出せずにはいられなかった。
「……間宮さん、なんだかすごく元気ですね。テントのワークそんなに良かったんですか?」
「ええ!それはもう。まるで、生まれ変わったみたいです。サマーさんは参加できなくて残念でした」
「体調が急に悪くなってしまって……ご迷惑を…………」
そう言いかけて、千夏は背中に無数の視線を感じた。後ろでは、間宮と千夏を除く参加者が畳で団らんしているはずだった。
しかし、どういう訳か、声がまったく聞こえなかった。和室で話しているのは、二人だけのようだった。不自然な静寂だった。千夏は肩越しに背後を見る。一瞬だが、全員が自分に敵意と憎悪をむき出しにした視線を投げて寄越しているのが見えた。その目つきは照明のせいなのか、尋常ではないほどぎらついて見えた。千夏が振り返ったのに気づき、彼らは視線を外して雑談をはじめた。その仕草は、芝居がかったようにしか見えなかった。
「あの、いったいどうされたんですか?」
「…………ここだけの話」
間宮は千夏と目線を合わせるようにして、屈みこんだ。唇を千夏の耳元に近づけて、小声で続けた。
「サマーさんは、教えを授かれなかった哀れな存在だと思っているんですよ。みんな」
「…………テントのワークに参加しなかったから?」
「はい。正直、僕もそう思っています。一人だけとり残されて、かわいそうです」
「それは、どうも…………」
千夏は額から汗が噴き出してきているのが分かった。
冷房が効いた室内にいながら、独り孤立してしまった現実に体が震え、怖気が止まらない。元々千夏は心を病んではいなかったし、人生に救いを求めてもいなかった。そういう意味において、千夏の存在は異端だった。それが、まったく別の形として浮き彫りになってしまった。千夏は形容しがたい危機感を覚えていた。嫌な想像が脳内を駆け巡って離れない。
自分は、生きて帰ることができるのだろうか。
そんな千夏の心中を察してか、間宮は憐れみを込めて千夏を見ていた。
「ですから、大人しくしていた方がいいですよ。中には過激派と言いますか、そういうことを言う人もいますからね」
「…………御忠告ありがとうございます」
「いえいえ。そろそろ夕食ができるころです。仲間外れにはしたくありません。一緒に食べましょう」
「ありがとうございます…………」
それから間もなく、間宮の言った通り夕食の時間となった。武藤が皆を呼びにきて、間宮を筆頭に千夏たちは食堂に下りた。
「サマーさん、こちらに」
間宮は自分が腰を降ろした隣の椅子に千夏を促した。千夏は「ありがとうございます」と礼を述べ座る。
その間も、千夏の体に他の参加者の視線が集中していた。千夏はできるだけ視線を気にしないように努めたが無駄に終わった。
「それでは皆さん、いただきます!」
今日の音頭は間宮が執っていた。武藤がいない。あの地下室でなにかしているのだろうか。
今しかないかもしれない。
千夏は瞬き、疲労困憊した精神に鞭打って、ごく自然な風を装って間宮に話しかけた。
「私、ワークに参加できなかったこと残念です。間宮さんとお話する機会もほとんどなくて。間宮さんがチャットルームを利用しはじめたいきさつの話の続きも聞けず仕舞いですし」
間宮は白米を粗雑にかきこみながら千夏に顔を向ける。はっきりとした咀嚼音が聞こえ、千夏は不快に思ったが、営業スマイルで間宮に笑いかけた。
「ああ!そういえばそんなお話してましたね!そうですね、歯切れも悪いのでお話しますね」
コップに入った冷えたお茶で口の中にあったものを胃に流し込んだ。再び千夏に顔を向けると、彼女は優しい微笑みを浮かべていた。
間宮は、横に座っている女性を心底憐れんだ。ワークに参加できず、とり残されてしまった者。誰かが言ってたが、確かに彼女ははじめから雰囲気が他の皆とは異なっていた。本当に悩みがあるのだろうか。お遊びで参加しているだけなのではなかったか。そうであるなら、腹立たしいことこの上ない。自分たちが真剣に思い悩んで、励んでいた横で、冷やかし程度に首を縦に振っていたのか。
「あ、あとテントで行ったワークのお話も聞きたいです。私、自然が大好きで、本当に楽しみにしていたのに…………」
この言葉には嘘偽りはなさそうに思えた。
程度の問題なのかもしれないな。
間宮は一人でそう納得して「いいですよ」と笑顔を返した。
「先にテントのお話をしましょう。やったことは単純でしたが、ワークを行うにあたって下準備が必要でした」
「下準備、ですか?」
「はい。実はサマーさんも途中まではできていたんです。それは山道を通って汗を流すことです。汗が過去の不幸な出来事や、嫌な感情を外に流してくれるんです。そうして、心と精神を洗濯するんですね」
「なるほど」
可能な限り、異端者として見られないようにするためテントの話を振った千夏だったが、間宮が話をはじめてすぐに後悔した。
本心ではテントで行われたワークなどどうでもよかった。それよりも、武藤が姿を見せるまでに間宮の身の上話を聞きたかった。何度も武藤が妨害してきた彼の話を。
「その状態になって、テントの中で瞑想するんです。テントの中は暗くて、お香かなにかがたかれていました。瞑想はこれまでのワークと同じようにグループに別れるんですけど、ちょっと違うのは全員裸になることでした。男も女も関係なく。はじめは驚きましたけどね。それでも慣れてくるんです。それが正しいと分かるんですよ」
「へえ。そうなんですか」
「ええ。気持ちよかったです。瞑想は数時間、かなり長い間やりました。でもね、心地良かったです。途中で声が聞こえはじめてね。『君たちは選ばれたからここにいる』って。はじめは意味が分かりませんでしたけど、それはつまり、生きているのは選ばれたからってことだと解釈しました」
「選ばれた、ですか」
「ええ。その後もずっと同じ声が響いてくるんです。『選ばれた』、『必要な存在』とかね。嬉しかったなあ。僕たちは選ばれて、誰かに必要な存在だよって認めてくれたんですから」
「それは、嬉しいことですね。その声は、どこから?」
「分かりません。でもそれは重要ですか?意識を変えるのに、それがたとえ自分の心の声だったとしても有益に働くなら、良いじゃないですか。幻聴でも僕は構いません。だってこうして人生が良くなってきているんですから」
「そうですね、すみません。私、昔から気にする性格で」
「いえいえ。謝ってもらう必要はありません。でも、サマーさんも参加できていたらきっと素晴らしい人生になったでしょうにね」
「……ですね」
「テントではそんな感じでした。それで、ああ僕の話ですね。これは、武藤さんにしか教えていないので、他の方には内緒ですよ」
武藤には話していたのか。しかし、間宮はバスの中で、自分の話を聞かれるのは嬉しいと言っていた。今になって、周りをはばかるようにして隠すのはどういうことだろう。武藤に口止めされているのだろうか。
「……分かりました」
間宮は声をひそめていた。千夏もそれに倣う。周囲では、他の参加者はそれぞれ談笑に耽っている様子だった。間宮の話を笑い声で聞き漏らすことのないよう千夏は意識を集中させる。
「すみません、どこまで話してましたっけ」
間宮はほんとうにどこまで話したか覚えてなさそうな表情をしていた。
「確か、好きな女性がいて、その方にチャットを教えてもらったと」
本当は、その女性と連絡がつかなくなっていることまで聞いていたが、千夏は敢えてもう一度間宮にその話をさせるよう仕向けた。
「あぁはいはい。彼女ね。そうなんです。僕、その人と話したくてチャットをはじめたのに、全然ログインされないんですよ。SNSの更新も止まっているし」
「それは心配ですね。いつから止まってるんですか?」
「六月九日です確か。彼女、僕のリプライには絶対反応してくれてたんです。だから心配してたんですけど、もうあまり考えなくなりました。多分僕と同じように生まれ変わって、どこかで元気ににやっているんだと思います」
六月九日。城石音葉のSNSでの投稿が止まった日。千夏は瞬いてそれとなく間宮に聞いた。
「きっとそうですよ。ちなみに、その方お名前はなんて言うんですか?」
間宮は怪訝な表情を浮かべて千夏を見ていた。
名前なんか知ってどうするのだろうか。調べたりされたら困る。間宮は、今となっては千夏のことを哀れな女と見ていたが、それでも女性にAV女優が好きだったと知られるのはプライドが許さなかった。
でも、まあいいだろう。あっちの名前なら。
隣に座っているのは取り残された哀れな女だ。どんな理由があるにせよ、質問を無下にするのはあまりにかわいそうだった。間宮は、半ば優越感に浸りながら『白石琴音』ではなく、彼女がSNSで使っていた名前を千夏に教えた。
「『城石音葉』です。SNSで検索したら出てきますよ。でもプライベートアカウントに設定されてるから、投稿内容は見れないと思います」
城石音葉。その名前が千夏の脳内で反響していく。千夏は、自分が間違っていなかったというある種の安堵感を覚えると同時に、体の芯が冷えていくのを感じていた。和彦も、木下サチと城石音葉も、武内美咲も、そしておそらくは土井和子もあのチャットルームを利用しオフ会に参加していたのだ。彼らが参加したオフ会にも、今日のようなテントでの瞑想がワークとして組み込まれていたのだろう。彼らが判を押したように人が変わってしまった原因が判った。
しかし、と千夏は内心で首を傾げる。木下サチと武内美咲は自殺している。それぞれ意味深な言葉を残して。なぜ二人は死んでしまったのか。
「お二人は仲が良いですねえ」
千夏の思考は外野からの声で中断された。
声のした方向に顔を向けると、そこには武藤が笑みを浮かべながら立っていた。武藤は千夏を値踏みするかのように見ていた。武藤の視線が千夏の体にまとわりつくように絡み、千夏は鳥肌が立っていた。
バレた……?
武藤の目は、今日の夕刻、千夏が秘密の地下室を見つけ、そこで恋人に贈った時計を見つけたことはお見通しだぞ、と言わんばかりに輝いて見えた。千夏は目の前が真っ暗になりかけ、パニックを起こしそうだった。胃の中では胃液が暴れ、先ほど口に入れていた食べ物が食道を逆流してきそうだった。かと思えば、喉が閉じて上手く呼吸ができなかった。
「武藤さん、お疲れさまです。サマーさんには今日テントでやったワークのことを話してました。彼女がぜひ聞きたいと言っていたので」
武藤の言葉を引き取ったのは間宮だった。
武藤の目が間宮に移る。その瞬間、千夏は呪縛から解き放たれた。体が新鮮な酸素を取り込み、胃の辺りのむかついた感覚も急速に消えていった。
「へえ。そうなんですか。いや、体調を崩されて残念でしたね」
武藤は同情を込めて千夏を見た。武藤の目には、先ほどまであった、粘り気のある陰湿な雰囲気はなかった。
「武藤さん、オフ会ってまた開催されないんでしょうか。僕はまた皆と色々分かち合いたいのですが」
「そうですねえ。なにせ我々も規模が小さいものですから、頻繁に開催することができないんですよ。しかし、そう言っていただけると大変励みになりますね」
「そうですか。それは残念です」
「ただ、間宮さん。またすぐに皆さんとお会いすることはできると思いますよ」
「え?」
「そうですか?」
「ええ。私が請け負います。きっとね」
そう言い終え、武藤は千夏に微笑みかけた。千夏はぎくしゃくとしながらも、笑みを返した。
武藤は間宮の肩を叩き、食堂から姿を消した。間宮は「また会えるのか」と小さく呟きながら食事を再開している。千夏はなんとか料理を口に運ぼうとしたが徒労に終わった。
食事を済ませ、入浴の時間となった。入浴は男女別れて行われる。入浴時間が短い男性の次に女性が入った。
午後二十二時、和室は消灯する。厨房や浴場は武藤たちが片づけや手入れをするために明かりがついていた。しかし和室には騒々しい音が一切響いてこず、室内は完全な暗闇と静寂が支配していた。聞こえるのは草木が風に吹かれて擦れる音か、参加者たちの静かな寝息だった。
日中眠っていた千夏は、すぐに眠ることができないでいた。横になってから一時間か、二時間余りが経った。ようやく睡魔が彼女にも訪れた。意識が他人の寝息を子守歌にしながら微睡みはじめた頃、室内に薄っすらと外の廊下の明かりが差し込んできた。空気の流れが変わる。少し生ぬるい風が、冷えた空気と混ざり合うのが肌で分かった。明かりは徐々に幅を狭めていき、細い髪の毛ほどの線になったかと思うと消えてなくなった。
千夏はぼんやりとしながらその様子を見ていた。押し入れの襖を開ける音が聞こえてくる。人を起こさないよう、慎重に開けているようだった。それから間もなく、ガサゴソと音が聞こえはじめた。
まるで荷物を物色しているような音だった。意識と無意識の狭間にあった千夏は、それが現実なのか、夢なのか判別できずにいた。音が止んで、畳の上を歩く音がする。足音はだんだんと千夏に近づき、彼女の目の前で止まった。もし、起きている者がいれば、その者は千夏の布団の傍で屈みこむ人影を認めることができただろう。
人影は、彼女の寝顔を覗き込むようにして、しばらくその場から動かなかった。
九月一日、オフ会の最終日となっているこの日、千夏たちにささやかなご褒美が振舞われた。
最後のワークを終え、食堂に集まった一同はこれまでと同じように昼食を食べた。食べ終えた頃、新しい皿が各々の目の前に並べられた。千夏に配られた皿には、彼女の好物であるイチゴのショートケーキが可愛らしく佇んでいた。他の皿に目を向けると、乗っているメニューは個々人で異なるらしい。伊織の皿にはどこにでも売っている人気のアイスクリームのカップが、隣に座っている男の皿の上には羊羹があった。
「皆さん、長い間お疲れさまでした!本日でオフ会は終了となります。ワークを頑張った皆さまに、私共からちょっとしたご褒美を差し上げます。皆さんがメールで教えてくれた食べ物です。好きなものを食べ、ここで学んだこと、覚えたことを血肉として、日常生活でもぜひ活かしてください!というメッセージになります!」
間宮が立ち上がって拍手をはじめた。食堂に響く乾いた音は、やがて何重にもなり、熱を帯びた。気がついたら皆立ち上がって、手の平を打ち鳴らしている。千夏も慌てて立ち上がって彼らに倣った。
「さあさあ、中には溶けてしまうメニューの方もいますから、皆さん食べましょう!食べ終わったら、各自荷物を持ってエントランスに集合してください。バスが迎えにきますからね」
武藤の言葉に一同は頷く。席に座ると、皆思い思いに好物を口の中にいれはじめた。どこからともなく「美味しい」と感慨深そうな声が聞こえてきてそれに皆が唱和する。
「おや、サマーさん食べないんですか?」
隣の男が羊羹を頬張りながら怪訝な表情を浮かべていた。
その声で、参加者たちの視線が千夏に注がれる。その様子を見て千夏は、スイッチに反応するロボットみたいだ、と薄気味悪さを覚えていた。
「いや、食べる前に目に焼き付けておこうと思いまして……」
本音は食べたくなどなかった。これ見よがしに好きな物を出してきて、ご褒美などと言っているのが胡散臭かった。好きな物なら手を出さない訳がない、と作り手の意思が透けて見える。
千夏はその後もまじまじとケーキを眺めていた。時折視線を周囲に向けると、彼らは未だ千夏を凝視していた。無言の圧力が千夏の体を蝕んでいた。千夏は震える手でフォークを持ち、柔らかなクリームとスポンジから成る物体を切り裂いて、遂に口に入れた。甘ったるい味が口内に広がる。しかし千夏には甘未を味わって楽しむ心のゆとりはなかった。十回も噛まないまま、千夏はケーキを嚥下した。
視線が体から外れていくのが分かった。見ると、何人かが千夏に優しい笑みを投げかけていた。伊織もその一人で、何回も頷いていた。
結局、千夏はケーキをすべて胃の中に放り込んだ。食べ終わった後、トイレに駆け込み戻そうと努力したが、胃はせっかく手に入れた栄養分を手放すつもりなかったらしく、試みは失敗した。そうしている間に、送迎のバスが会場の前までやってきていた。ここまで乗ってきたのと同じもので、千夏はバスの姿に文明の息遣いを見て心の底から安心した。
参加者たちは武藤に率いられ乗車する。千夏は来た時とは違い、今度は最奥の席に陣取った。隣には伊勢崎と名乗っていた男が座ってきた。千夏に良い感情を持っていないらしく、千夏に侮蔑的な視線を投げて寄越すと、そっぽを向いた。
千夏は伊勢崎の態度を気にも留めていなかった。むしろ彼のような、こちらに関心のない人物が隣で良かったとさえ思っていた。帰路ではオフ会で手に入れた情報を整理したかったし、ここがどこなのか大方の見当をつけておきたかった。
バスが発車し、車体が傾いた。瑞々しい草木の中に設けられた山道を、慎重に下っている。数十分後、窓を見ていた千夏の目に、あの侘しい農村の姿が現れた。四日前と同様、畑で作業している人影がまらばに見えていた。千夏は、なにか特徴的な物はないかと、左右に目を走らせて確認する。
途中、青看板が垣間見えた。千夏は看板から『日』という文字だけを読み取ることができた。関東圏で「日」が付く地名は、日光市か日立市が候補に上がる。しかし、前者は栃木県で後者は茨城県にある。漢字一文字では特定のしようがなかった。千夏はその後も窓に向かって目を凝らし続けていた。
しばらくすると、千夏は両腕をさするようになっていた。車内の冷房が効きすぎている。肌には鳥肌が立ち、脚をももぞもぞと動かして摩擦で熱を起こそうとする始末だった。武藤に声をかけて冷房を弱めて貰おうか、と何度か考えたが武藤に話しかけるくらいなら、多少の寒さは我慢した方がマシだと結論づけた。間宮あたりが言及してくれればありがたいのだが。
それにしても、と千夏は口を手で覆い欠伸をする。目尻に大粒の涙が溜まる。会場から去り、緊張が解けたのか猛烈な眠気が襲ってきていた。
視線を車内に戻すと、異様な冷気とは別の違和感に気づいた。車内が静かすぎるのだ。行きの車内ですら、武藤からの強制力が働いていたとはいえ、参加者は活発に話し合っていた。オフ会で仲が深まった今、談笑のひとつも聞こえてこないのはおかしい。
千夏は伊勢崎を横目に見た。伊勢崎は口を大きく開け、眠りこけていた。口元から痰が混じったよだれがゆっくりと垂れている。
伊勢崎を避けるようにして、少し立ち上がる。千夏は重たい瞼を瞬かせた。皆が皆眠っている様子だった。伊勢崎のように天井に向かって口を開けている者もいれば、背中を丸めて顔を伏している者もいた。何人かは、まだ意識があるのかこっくりと頭を上げ下げしている。
何事かと思った瞬間、千夏は腰が砕けたようにして座席に座り込んだ。瞼が強大な引力に引っ張られているかと思うほど、重く、下がってくる。なんとか力を入れて目を開こうとするが、焼け石に水だった。眠気は抗いようもなく、千夏の意識を浸食していく。遠くの方で「おやすみなさい」と言う声が聞こえた。
「お客さん?お客さん?」
「…………んん…………、あ……」
「お客さん、ここお宅でしょ?着いたよ?」
千夏はタクシーの中で目が覚めた。
「え?どういう……?」
「だから、お宅に着いたよって」
運転手が苛立たし気な声を上げる。窓の外を見ると、そこには見慣れた景色が広がっていた。
制服姿の学生が、アイスを片手に談笑しながら通り過ぎていく。その向こうには、千夏と和彦の住まいとなっているマンションが佇んでいた。
「あの、ここまではどういう?」
「どうもなにも、酔いつぶれてたんでしょ?平日の昼間っからいいご身分だよ。気の良さそうなお兄さんがお客さんの住所を教えてくれたんだよ。お金も貰ってるからさ、起きたんなら出てくれませんかね?」
「あ、はい。すみません」
横に置かれていたボストンバッグを手に取り、タクシーを降りた。ドアが閉まり、タクシーは運転手の怒りを露わにせんばかりの騒音を上げて走り去って行った。
マンションのエントランスを通って、エレベーターに入る。ボタンを押して、壁に寄り掛かった。寝起きだからか、体が妙に重く感じた。わずかだが頭痛もしている。
部屋に戻ると千夏はベッドに倒れ込んだ。寝間着に着替える必要があったが、何をするにも億劫だった。
喜美江さんに報告しないと……。
しかし、起き上がろうとする意志に反して、千夏の体はシーツに埋もれたままだった。