チャットルームにいるのは三人程度で、他愛のない雑談に興じていた。
『こんばんは』
千夏は溶け込む必要があると感じ、短い挨拶を送る。三人のメンバーはそれに対し挨拶を返してきた。サイトと同じく、チャットルームのデザインも古めかしく、一昔前学生の間で流行ったものと同じにおいを感じる。しかし、その他にこれと言った特徴はなかった。本当に、和彦や木下サチ、武内美咲はここを利用していたんだろうか。
『新しい方ですね。初めましてかな。よろしくお願いします。色々話したいことがあれば、好きに書き込んで大丈夫ですから。ご遠慮なく』
『ありがとうございます。こういうのはじめてで。よろしくお願いします』
ささやかな歓迎を受けた。その後、三人は元の会話に戻った。千夏は拍子抜けした。なぜここに来たのか、過去になにがあったのか、色々詮索されると思っていたからだった。聞かれた時のために、適当な設定も用意していたのだが、まだ使う必要はなさそうだった。
話しかけられそうもないので、千夏はチャットのログを追う。
その中で、千夏は、過去ログの一部が現在閲覧不可能であることを知った。サーバーのメンテナンスが原因だった。『KN_Ma3ya』というユーザーからもたらされた情報だった。このチャットのリーダー格だろうか。発言はあまり見られないが、他のユーザーから慕われているのが分かる。リーダーでなくとも中心人物の一人なのだろう。
千夏は大きなため息を吐いた。ようやく手応えのある情報を掴めそうだと思った矢先、またシャットアウトされた。過去の情報を見られないのでは、木下サチと城石音葉がここを利用していたか確証が得られない。
誰か二人のことを知っているだろうか。
千夏は、まだ残って会話している三人に彼女たちのことを聞こうか悩んだ。
このチャットは血なまぐさい凄惨な出来事のきっかけとなった場所だと千夏は警戒していた。このサイトを利用してから、少なくとも二人の女性が自殺しているし、一人は行方不明になっている。明らかに異常だった。
また、運営がここのチャットを監視していることが見ることのできる過去の書き込みから分かった。千夏は、木下サチと城石音葉のことをここで質問するのは危ないと考えた。
サーバーメンテナンスが終了し過去のログが早く見られるようになってくれれば、と思う。
二人の書き込みがあれば、それをキャプチャーして、木下サチの日記帳と武内美咲のノートと併せて証拠とする。そうなれば、瞳を介さずとも、警察に直接提出できる。警察は新しい証拠や情報が出てくれば、再調査が必要になる。プロバイダに開示請求すれば、このサイトを運営している者たちにたどり着くことが容易になる。自ずと、事件は解決に向かうだろう。しかし、肝心のメンテナンスがいつ終了するのかが分からない。『KN_Ma3ya』もその書きぶりからして知らないのだ。
千夏は暗い感情が自分の胸中で醸成されつつあるのに気がついた。
「…………でもきっとつながりが…………」
千夏は木下サチと武内美咲の情報を追うことで、和彦を探す手がかりが見つかると考え、この数日間行動していた。
しかし事態は一向に進展しない。千夏は自分の考えは間違っているのかもしれないと弱気になっていた。全てを投げ出して、姉に任せたい。そもそも、これは姉の仕事だった。自分がやる必要は本来なかったはずだった。
弱った心は簡単に諦観の念を想起させ、物事が上手く運ばない理由と責任を他者に求める。千夏は今も眠っている姉のことを思い、頭を振ってその考えを払拭した。こんな時、決めたことは最後までやり遂げようとする姉の一本気な性格を羨ましく思う。
千夏がチャットルームのメンバーになってから二日が経過していた。この頃、千夏は在宅勤務に切り替えていた。繁忙期が過ぎて、仕事量も減る。この時期は他の社員も同様に切り替えるので、特に面倒な手続きは必要なかった。目的は無論チャットルームを監視することだった。
作業を早々に終わらせ、私用のノートパソコンでチャットルームにログインする。平日の昼間なだけあってメンバーは少ない。中には『KN_Ma3ya』の名前もあった。発言している様子はない。今日もメンバーのやり取りを眺めているようだった。
依然として和彦たちの足取りはつかめないまま、時間だけが消化されていく。千夏は、間違った場所に来てしまった、と思い悩んでいた。しかし、この他に彼らの手がかりがある訳でもない。木下喜美江に連絡を取ってみたが、彼女の方も進展はないとのことだった。むしろ、彼女は千夏に事態の進展を期待していたため、手詰まりになっていることを伝えた時の落胆は激しかった。電話での会話だったので、彼女の姿を実際に目にした訳ではないのだが、肩を落とし、細い背中を丸めているのを容易に想像できた。空虚な励ましの言葉をかけて千夏は通話を切った。
目頭を押さえる。相変わらずチャットの過去ログは見ることができない。三日四日前程度なら、閲覧は出来るが、それ以上を遡ることはできなかった。メンバーたちは、それを特に不満がっている様子はなかった。チャットルームは監視されているため、千夏は過去ログが見られない不満を書き込むのは避けた。
千夏を含めてメンバーは二十一人いる。その中で一人だけが、過去のやり取りを気にしているのは、運営から見れば奇異に映るかもしれない。千夏はできるだけ目立ちたくなかった。行方不明になった者たちの、足跡を探しているなどと勘繰られることも論外だった。そのため、過去ログを閲覧できるようにしてほしい、と直談判することも控えている。
しかし、このままでは無為に時間だけが過ぎていく。瞳も未だ意識が戻らないままだった。事件を追えるのは自分しかいないのだ。千夏は座ったまま背を伸ばし気持ちを切り替える。ダイニングテーブルには、木下サチが遺した日記と、武内美咲のノートが無造作に置かれている。見落としている情報がないか、千夏は再びそれらに目を通した。
見る度に、暗澹とした気分に襲われる。紙面に刻まているのは、彼女たちが生きていた証そのものだったが、その内容のほとんどは生まれてきた苦悩を綴っていた。千夏は、文字を優しくなぞっていく。指先の脂に炭がにじんでしまい、文字が歪んでいく。なぜ、そうしたのか千夏は自分でも分らなかった。二人への同情なのか、慰めるつもりだったのか。文字に触れることで、二人を感じたかったのか、分からない。はっきりとしているのは、どれだけ触れていようと、そこには人肌の温もりは存在しないということだった。
二人は、どんな思いで日常を生きていたのだろうか。今となっては書き残した文章からでしか推測できない。
千夏は、木下サチからは、どうして人生がそうなってしまったのか、心の底から困惑していた印象を受けた。有り体だが、確かに人生には山と谷があって、どういう訳かそれが交互に訪れる。自分たちが歩んでいる道は、平坦な無機質なものではなく、起伏があり多くの有機的な経験を提供する。そしてそれは、個人によって質も、長さも異なる。木下サチという人間は、歩んできた道のりで、ここまで谷底に下りたことがなかったのだろう。それまでは、たとえ下りてしまっても、なんとか山に這い上がることができたはずだった。しかし、今回のそれは違った。彼女にとって耐えがたい苦痛となって、谷底に縛り付けてしまった。苦痛は自尊心を傷つけ、醜悪な思考に彼女を捕らえてしまった。不幸だったのが、なぜそうなったのか本人すら分からなかったということだった。出来事には必ず因果関係がある。あることが発端となって、結果として様々な事象が目に見えてくるが、それが分からなければ、解決のしようも対策のたてようもない。木下サチは、ある時分まではそういう状態にあった。
だが、彼女は偶然城石音葉という女性と出会う。音葉も境遇は似通っていて、正体不明な理不尽に精神を摩耗していた。そんな二人は意気投合した。おそらく、お互いがお互いを支える形で、なんとか状況を良い方向に持っていこうとしていたのではないだろうか。木下喜美江が見せてくれた二人のダイレクトメッセージのやり取りから、千夏はそのようなポジティブな空気を感じていた。
木下サチにとって、城石音葉は何者にも代えがたい存在だったはずだ。ダイレクトメッセージもそうだが、彼女と知り合ってからの木下サチの日記は、徐々に明るさを取り戻している。悲嘆や恨みつらみの独壇場となっていた紙面は、城石音葉の名前を筆頭に、喜楽な言葉が増えていっている。
自分に希望をくれた存在と現実の世界でも会うことができて、喜び友情を深めていたはず。人生の道のりで突如として落ちてしまった真っ暗な谷底から、日が当たる山頂へと戻ろうとしていた。
その矢先、木下サチは死んだ。自らの腹を包丁で割き、臓物を切り取りながら。彼女の行動が常軌を逸しているのは明らかだった。こうして、木下サチが遺した足跡に触れてから考えると、ますます異常さが際立つ。
どうして、そんなことを。
一番の疑問だった。母親も、事件現場に立ち会った瞳も、その疑問を解決できていない。自殺した本人でさえ、なぜそうしたのか分からなかったのかもしれない。
思えば和彦も木下サチと同様に、スランプの原因が分からないまま、ずるずると人生の谷底へ転がり落ちてしまった。小説の連載は止まり、漫画の原作は別の人間に取って代わられた彼の心中は想像を絶する。その失意や絶望を恋人である自分が払拭してあげたかったのだが、それは叶わなかった。そうする前に和彦は姿を消してしまった。
日記からふと目を上げ、ディスプレイに視線を移す。千夏は目を見開いた。画面には、見覚えのある文字列が表示されていたからだった。千夏の胸中ではついに見つけたという高揚感か、見つけてしまったという忌避感か、もしくはその両方がないまぜとなった感情が渦巻いていた。
視線を逸らし、もう一度画面を覗くように見る。見間違いではなかった。そこには和彦の最後のメッセージと武内美咲のノートに記されていた『ガイアの子供たち』という文字列が表示されていた。『ガイアの子供たち』がユーザー名であることはすぐに分った。その名前で長文が投稿されていたからだった。
『皆さんこんにちは。私はこのチャットルームを運営している者です。皆さんの会話、活発な議論を日々目にしながら、勉強させていただいております。
さて、今日私がこちらに来たのは、皆さんに告知があるためです。日々の会話で、皆さんの仲が深まっていること嬉しく思います。そこで、今回、皆さま向けに、私共の方からオフ会の開催をご提案させていただきます。
オフ会とはなんなのか、改めて説明する必要はないと思います。しかし、なぜ開催するのか。その理由は伝えさせていただきます。答えは至ってシンプルで、文字だけのやり取りでは限界があるからです。画面に表示される文字だけでは、相手の表情や息遣い、仕草などがまったく分かりません。それではまだ半分なのです。
皆さんの人生を好転させるためには、友人と仲間が必要です。
友人とは、仲間とは、このチャットルームを使っているメンバーです。実際に会い、膝を付き合わせて話すことで、はじめてこの関係がリアルになります。そして、リアルになってはじめて人生に影響を与えることができるようになります。人生は人付き合いをしてこそです。
皆さまを見ていると、このチャットルーム上だけの関係は、とても損だと思います。皆さまはとても仲が良く、優れたチームだと、私は断言できます。更に一歩、自分の人生について考えてみませんか。オフ会ではこちらで行っているような会話をはじめ、グループワークや研修などのコンテンツを用意しております。
参加希望の方は団体のアドレスまでメールをお願いします。メールには氏名もしくはユーザーネーム、血液型、アレルギーの有無、持病の有無、好物(食べ物)の記載をお願いします。それではたくさんのご参加お待ちしております。』
点と点が線でつながった気がした。これだ。このオフ会に木下サチと城石音葉と、武内美咲の三人は参加した。そして、和彦も。
しかし、と千夏の体の芯が冷えていく。得体の知れない不気味さを感じる。
文章をもう一度読む。それらしいことを書いているが、千夏にはどれも空虚に思えた。口先だけで言っている、とでも表現できるのか、とにかくこの文章からは書き手の意志が感じられなかった。
具体的な内容がなにひとつ書かれていない。日時や場所、オフ会でなにをするのかまったく不透明だ。薄々感じ取れるのは、オフ会は何日かに渡って行われるのではないか、という予感めいたものだけだった。その様なことは一切書かれていないが、なぜかそう受け取れる。千夏はその原因が判っていた。木下サチと城石音葉のやり取りを見ていたからだ。
六月五日、城石音葉から『長い間お疲れ様!』とメッセージが着ていた。それを見て、木下喜美江は、二人はどこかへ出かけていたみたいと言っていた。きっとこのオフ会に参加していたのだろう。そのメッセージより前のタイムスタンプは六月一日だった。二人は毎日やり取りをしていたので、六月二日には既に顔を合わせていたと推測できる。オフ会は六月二日から六月五日までの四日間開催された。その間に彼女たちは一体なにをしたのだろうか。千夏には、それがまるで見えてこなかった。
チャットはオフ会の話題で持ち切りだった。『ガイアの子供たち』は既に退室している。告知をした後、特に質問を受け付けるでもなく、無言で去って行った。質問を受け付けないということなのだろうか。千夏と同じく、なにをするのか知りたがっているメンバーが大半を占めていた。その時になって、これまで発言していなかった『KN_Ma3ya』が口を開いた。
『なにをするのかとか色々気になりますから、私が聞いてみましょうか?』
この書き込みに『よろしく頼む』という旨のリアクションが殺到する。聞いてくれるなら願ったり叶ったりだと、千夏も皆に倣った。
数分後『KN_Ma3ya』が再び書き込んだ。
『聞いてみたんですが、分かりませんでした。当日までのお楽しみということみたいです』
書き込みを見ても千夏は落胆しなかった。胸のどこかで、分かる訳がないと半ば諦観したからだった。そもそも、質問をして答えてくれるなら、最初から記載していたはずだ。その方が、手間が減るのだから。しかし、彼らはそうしなかった。チャットメンバーに教えたくないのだろう。教えると参加者が減ってしまうからなのか、口に出しにくいことをするからなのかは判然としない。だが、告知文の背後に正体不明の影を感じた。
千夏は、和彦とのデートで植物園に訪れた日のことをふと思い出した。
舌に似た葉で虫を捕らえ、消化粘液を使って捕食するムシトリスミレの姿が浮かぶ。
他の植物に寄生し、栄養を奪いながら繁殖するラフレシア。ラフレシアは巨大な花弁を咲かせ、真ん中にはぽっかりと大きな口を開けている。口の中は深淵そのもので、一度吸い込まれると二度と出て来られなくなる。その姿は、獲物が寄って来るのをじっと待つ捕食者を思わせた。そして獲物とは、和彦と木下サチのような人々。
千夏は思わず身震いする。うなじから背筋にかけて、冷汗が垂れていくのが分かる。頭を振って悪い想像を払拭する。ラフレシアは食虫植物でもなければ、人間を捕食する植物でもない。ムシトリスミレもまた同様に人間を取って食う訳ではない。
現実にはあり得ない。あり得ないことを考えても意味がない。時間を浪費するだけだ。
和彦たちは、このチャットルームを訪れ、それから行方不明になってしまった。そしておそらく、オフ会にも参加している。それが現実だ。確証はないが、直感がそう告げている。
「考えないといけないのは、このままなにもしないで待つか、オフ会に参加して情報を集めるか」
千夏は声に出して、自分にそう言い聞かせる。
取るべき道は明らかに見えた。千夏には、厳密に言えば和彦には、残された時間は皆無に等しい。人が失踪してから七十二時間を過ぎると、生存の確率は著しく零に近づくからだ。和彦が失踪してから十日以上が経過している。定説に則れば、和彦はもう生きていない。しかし、千夏は諦めきれなかった。和彦は今もどこかで生きている。そう、固く信じていた。
気がつくと、チャットのログはかなり更新されていた。メンバーは相変わらずオフ会を話題にしている。参加しようか、相談しているらしい。
見た感じ現在ログインしているメンバーのほとんどは参加に肯定的なようだった。中には、既に参加希望のメールを送ったと言っている者もいた。
『Ma3yaさんはいかないんですか?』
『私はぜひ来てほしいなと思ってます!』
一人が『KN_Ma3ya』に話を振ると、会話の流れが一ユーザーに向く。流石の人気者と言うべきだろう。
千夏は、自分がチャットにやってくる以前のログを遡れるだけ遡っていた。『KN_Ma3ya』は基本的に発言をしないが、議論が熱を帯びてきたり、誰かから意見を求められれば適切に応えていた。そうして少しずつ、メンバーからの信頼を得ていた。オフ会への参加を希望されるのは、不思議ではない。千夏は『KN_Ma3ya』の反応を待っていた。
間宮の胸中に温かいものが流れていた。それは、体内を循環をしている血液ではなく、形を持たない精神に由来するものだった。
これまでの人生で、こんなにも他者から存在を望まれたことはあったろうか。自身の過去を振り返る。記憶の断片が、ショートフィルムのように脳裏に浮かんでは消えていく。
答えは否だった。
三十年近く生きてきて、このようなことははじめてだった。
目頭がじんわりと熱くなっていく。間宮は、思わず手で目を覆った。カメラを付けている訳でも、ビデオチャットをしている訳でもない。しかし、隠さないと画面の向こう側のメンバーに、涙を流している場面を見られるという気がした。
そんな姿を見せたら、彼らはきっとからかってくるだろう。悪意のない、仲の良い友人の間で許された仕草。それが恥ずかしい。彼らの言葉は、間宮の羞恥心にはこそばゆい。
ティッシュで鼻をかみ、ゴミ箱に捨てる。
温かな涙を流したのは何年振りだろう。
間宮は覚えていなかった。今思えば、涙を流すのは決まって悪事が積み重なった時だった。自分は懸命に生きているのに、社会がそれを認めようとしない。誰も、自分のことを理解しようとしなかった。言われた通りに生きていただけなのに。なぜ自分を責めるのだ。間宮はその問いに対する答えを遂に見つけることができなかった。後に残ったのは、世界は邪悪で危険なものだという忌避感だけだった。
しかしここは違った。ここは、優しい場所だった。皆、社会で傷つき、人生を閉ざされたのだ。尋常でない苦しみを味わってきた。それ故、ここでは他者への思いやりと理解が前提としてある。
悩みを聞き、理解に努め、解決する道を模索していく。そんな仲間が集う場所だった。そこで、間宮ははじめて自分の居場所というものを認識できた気がした。他者に言われ、分かったつもりになっているのではなかった。それは、実感として捉えられる。
自分は必要とされているのだ。皆にとって、自分は必要な存在なのだ。
はじめは、チャットルームを必要としていたのは間宮だった。しかし、今ではチャットルームが間宮を必要としている。それは、メンバーの反応を見れば明らかだった。ならば、皆の期待に応えない訳にはいかなかった。間宮は、彼らにとってなくてはならない存在なのだから。
どこかから優雅なメロディが流れてきた。はじめて聞くメロディではない。いつの日かどこかで聞いたメロディだ。
間宮は音楽の知識がない。旋律を奏でているのが、ヴァイオリンなのか、トランペットなのかすら定かではない。しかし、その調べは自分のために流れているのだと確信する。
旋律の雰囲気が変わる。ゆったりとした、川の流れのようなものだったのが、壮大で力強い迫力をいや増している。
間宮は、自分でも気がつかない内に、椅子から立ち上がっていた。どこかで聞いたことのある曲を指揮するために。自分という存在を肯定し、賛美するために。
窓から射し込む、冷え冷えとした月明りが間宮の部屋を照らしている。室内は静寂に包まれていた。音を発しているのはパソコンの機械音だけだった。
『KN_Ma3ya』はオフ会に参加することを宣言した。その発言にチャットルームは湧いていた。現実に例えると、歓呼の嵐と言えるような状態だった。ログはどんどん更新されていき、十数人が利用しているとは到底思えない速度だった。
その最中、ログインしていなかったメンバーたちが入室してくる。彼らもオフ会の話を聞き、参加することにしたようだった。千夏は、現在ログインしているメンバー数を数えた。自分を入れて二十一人。千夏が知る限り、チャットルームを利用しているメンバーはこれで全部になった。参加表明をしていないのは、千夏ただ一人となってしまった。
『そういえば、サマーさんは参加しないんですか?』
サマーとは、千夏のユーザー名だった。
これまで話を振られてこなかったため、千夏はどうしたものかと一瞬悩んだ。証拠を集めるのなら、参加するべきだった。本音で言えば参加などしたくもなかった。正体不明の団体が運営し、開催するオフ会など日常生活では見向きもしない。触らぬ神に祟りなしとはよく言ったものだった。しかし、千夏に選択肢はなかった。
未来を予測し判断する。そのような贅沢な時間すら、残されていない。息を吐きながら、指を滑らせキーボードで文字を打ち込んでいく。
『せっかくですので、私も参加しようと思います』
『良かった!これで全員参加ですね!』
千夏の参加表明にメンバーたちは喜んでいた。
千夏はメーラーを開き、団体へ参加希望のメールを送信した。それから間もなく『ガイアの子供たち』が再びチャットルームに姿を見せた。
『こんばんは。オフ会には皆さま全員参加されるとのこと、まことに嬉しいかぎりでございます。日時は参加希望の方にのみ、ご連絡差し上げる予定だったのですが、全員参加とのことですので、チャットルームに記載させていただきます。なお、このログはピン止めしいつでも確認できるようにしておきますので、皆さまはこれまで通りチャットしていただいて大丈夫です。
さて、日時ですが、八月二十九日の土曜日午前八時にY線のS駅中央改札口にご集合ください。オフ会の場所へはバスで移動しますが、そちらは私共で手配をしておりますので、料金などは掛かりません。
持ち物につきましては、特に指定、制限などはございませんが、数日分の替えの下着を持参してくることを推奨いたします。開催場所はまた当日お知らせいたします。お楽しみに!』
そう書き込むと『ガイアの子供たち』は退室する。先ほどと同様、質問は一切受け付けないという態度だった。
メンバーたちは、そのようなことはまったく気にもしていない様子で、当日なにをするのか、替えの下着を用意するということは泊まり込みなのではと賑わっていた。
開催日は八月二十九日の土曜日。今日は二十四日の火曜日だった。五日後の今頃、自分はどこでなにをしているのだろうか。千夏の胸中にあるのは、漠然とした不安だった。
翌日、千夏は今週の土曜日から来週の水曜日にかけて有給を申請した。落ち着いている時期だから却下はされなかった。
千夏は仕事を片づけ、他にやることはないかと上司へ伺ったが、特にないと返ってきた。そのため、姉を見舞いに半休を取りたい旨を相談し許可を得た。そのついでに、木下喜美江に連絡を入れる。行方不明になってからの木下サチの動向が分かったかもしれない、と伝えると、木下喜美江は興奮していたようで、困惑していたようでもあった。千夏は、彼女を落ち着かせ、また追って連絡をすると言って電話を切った。
午後二時、千夏はK大学附属病院を訪れた。瞳の凶報を受け、岩切と会話したのがずいぶん昔のことのように思えた。それからまだ一週間も経っていない。受付を済ませ、瞳が眠る病室へ向かう。天気が快晴だからか、手入れが行き届いているのか、病室へ向かう廊下は以前より明るく見えた。リノリウムでできた床から、通り過ぎる人々の足音が響いている。その残響は、千夏の心を落ち着かせた。
「お姉ちゃん、入るね」
ノックをし、一声かけて引き戸をスライドさせる。病室は南に面しており、カーテンレースを通して西日が柔らかな明かりを投げ込んでいた。室内は弱冷房が効いており、駅から病院まで歩いてきた体には心地よかった。
「お姉ちゃん?」
瞳はいまだベッドに横たわっていた。しかし、備え付けられたモニタは、瞳の呼吸や心拍数が規則通りに行われていることを示していた。特に異常はなさそうだった。
丸椅子をベッドの傍に寄せて、腰を降ろす。千夏はそのまましばらく瞳の寝顔を眺めていた。穏やかで、幸せそうな寝顔だった。とても銃弾で撃たれ倒れた人間とは思えない。
千夏は微笑した。瞳は昔からそうだった。なにがあっても、なんでもないような澄ました顔をして生きていた。銃弾が体を貫いた時も、怯えるどころかそれをチャンスだと捉えたのだろう。痛覚を無理やり抑えて、犯人へ飛び掛かったに違いない。詳しい話は聞けていなかったが、千夏は事件の様子を容易に想像できた。木下サチの件がある中、それが原因で昏睡してしまうのも、姉らしいと言えば姉らしい。きっと、姉のこの質は生涯治らないのだろう。
「お姉ちゃん、私、木下さんの事件に関係する手がかりを見つけてね。明日、それを確かめに行くの。四日くらい戻らないけど、それまでに目を覚ましといてね」
言いながら、メモ帳にこれまでの簡単な経緯と、謎の自己啓発団体が開催するオフ会に参加する旨を書き込んでいく。
「向こうにいる間も、メッセージ入れておくから」
瞳からの反応はない。彼女は今も規則正しい呼吸を繰り返している。メモを書き込んだページを切り離し、瞳の持ち物の中に入れた。千夏は瞳の手を握りしめた。そうすることで、姉から勇気と元気を貰えると思ったからだった。
「行って来ます」
一呼吸置いて、そう力強く言い残し病室を後にした。
千夏が瞳の病室を出てから間もなく、タイミングを見計らったように、人影が彼女の病室へ入っていった。そのことに誰も気がつかなかった。
八月二十九日午前八時前、千夏はボストンバッグを肩にかけ、集合場所のS駅中央改札を目指して歩いていた。休日なだけあって、駅構内は人で溢れかえっている。うんざりするほどの雑踏をかいくぐりながら、千夏はやっとの思いで改札にたどり着いた。
改札を出て五分余り歩くと、人混みが途切れた。こちらの方面に歩いてくる者はあまりおらず、千夏を入れて数人ほどだった。先ほどまでの息苦しさが嘘のようだった。更に歩くと、地上へ通じる階段が左手に見えてきた。看板には『E8出口』と書いてある。この階段を昇った先が、集合場所だった。
千夏は周囲を見回す。気がついたら地下通路を歩いているのは、千夏だけになっていた。音もなく、昼白色の照明が辺りを照らしている。心細さがいや増していった。これに比べれば、人混みの方がいくらかマシだった。
ここに立っていてもはじまらない。千夏は何度か深呼吸し、階段を昇って行った。地上に出ると、そこはビルの間隙にある、路地に面した場所だった。奥の方に十人余りのグループが肩身を狭そうにして佇んでいるのが見えた。その集団を率いるようにして、スーツ姿の男が一人周囲に目を配っていた。
あれかな。
千夏は改札を出て、その集団に近づいていった。スーツの男が千夏に気がついた。人の良さそうな笑みを浮かべて歩み寄ってきた。男は首からネームプレートをぶら下げていて、カードには『ガイアの子供たち』と記載されていた。
「おはようございます!『メシアの子供』のオフ会参加者ですか?」
男はずっと笑みを浮かべたままだった。まるで、笑顔でいることを自分に強いているような雰囲気があった。目は細められ、口角はいっぱいまで上がり、真っ白な歯が顔を覗かせている。作り物めいた笑顔。
千夏は、男の笑顔にどことない薄気味悪さを感じながら挨拶を返した。
「おはようございます。はい……ええと」
「ユーザー名を仰っていただければ」
男は相変わらずニコニコとしている。しかし、瞼の奥から垣間見えた目は、まったく笑っていなかった。
「あ、はい。サマー、です」
「はい、サマーさんですね!ようこそ!お待ちしておりました!皆さんあそこで他の方を待っていますから、サマーさんもその周辺でもうしばしお待ちいただけますか」
「分かりました」
「あ、そうでした。私、本名を武藤と言います。『ガイアの子供たち』が呼びにくければ、お気軽に苗字で読んでいただければ」
「ありがとうございます」
千夏は頭を下げ、集団に混ざる。見る限りだと、参加者の年齢層は幅広く感じられた。千夏より若そうな青年、少女もいれば、頭髪に白いものが混じっている者もいる。しかし、比較的千夏と同年代くらいに見える者たちが多かった。
「こんにちは」
千夏はすぐ横に佇んでいた恰幅の良い男から挨拶を受けた。
「こんにちは」
「あの、僕、『KN_Ma3ya』です。本名は間宮康太と言います。オフ会よろしくお願いいたします」
千夏の中の『KN_Ma3ya』のイメージと、実際の彼のイメージはかなり乖離していた。目の前に立つ人物は、いかにも頼りなさげで、とてもじゃないがリーダーが務まるようではない。目も伏せがちで、人とのコミュニケーションをあまりとってこなかった印象を受けた。
それと同時に、どこか懐かしい感じもした。風貌はまったく似ていないが、まとっている雰囲気は、昔の、出会ってから間もない和彦に似ている。そのため、千夏は間宮康太という人間に対して、嫌悪感や忌避感といったネガティブな印象を持たなかった。
「サマーです。こちらこそよろしくお願いします」
「ああ、あなたがサマーさんだったんですね。…………あまりお話している所を見たことがないので、どんな方だろうと思っていました。その、なんというか、お綺麗ですね」
「ありがとうございます」
千夏と間宮が挨拶を交わしていると、時間は午前八時になり、参加者はすべて揃った。
「はい、皆さん全員揃いましたね!改めましておはようございます!この度、皆さまを引率することになりました『ガイアの子供たち』もとい、武藤と申します。皆さんどうかよろしくお願いいたします!」
武藤の挨拶に拍手が上がる。間宮は両手を打ち鳴らすようにしていた。すぐ傍にいた千夏の耳に、彼の拍手は堪えた。少しだけ横にずれ距離を開ける。
「それではですね、早速皆さんをオフ会の会場へご案内したいと思います。ええと……、あ、着てますね!皆さん、左手からやって来るバスが見えますでしょうか。皆さんにはあのバスに乗車していただきます!席はご自由に選んでください。移動も自由です!会場につくまで、御歓談していただき、少しでもお互いを知っていただければと思います」
武藤の説明が終わると同時に、千夏たちの目の前でバスは停まった。
なんの変哲もないバスだった。車窓にはカーテンが引かれ、車内の様子はまったく見えない。まるで外界からの視線を拒んでいるように見えた。
昇降口が音もなく開く。運転手が千夏たちに向かって会釈をしていた。武藤と同じく、仮面のような微笑を浮かべながら。
「さあさあ、皆さん乗車をお願いします!お荷物は車内に持ち込んでいただいて結構ですのでね」
千夏と武藤の視線が合う。なし崩し的に、千夏が先頭となった。千夏の後には間宮が続く。
「おはようございます」
運転手に挨拶され、会釈で返す。車内は四列掛けの座席だった。特に異常な部分は見られない。至って普通のバスだった。
千夏は丁度真ん中辺りの座席に腰を降ろした。窓側に陣取り、カーテンを捲って外の様子を窺う。
間宮は千夏の隣の座席を見つめていたが、彼女の後ろの席に座った。数分もしない内に、すべての参加者の乗車が完了した。
ドアが閉まり、かすかな振動で車体が震えた後、バスはゆっくりと走り出した。武藤が前方で立ち上がり、マイクを握り話しはじめた。
「皆さん、これより会場の方へご案内いたします。なお、走行中はスマートフォンのご利用をお控えください。皆さんは、インターネットをしにきたのではありません。同じ境遇にある仲間と交流をしにきたのですから。会場へは二時間から三時間ほどで到着する予定です。飲み物とお菓子を用意しております。後ほど配ります。それでは皆さん、旅を楽しみましょう!」
言い終えると車内はしんと静まり返った。車内に響くのは外の喧噪と、バスのエンジン音のみだった。
チャットでは簡単に会話できていたメンバーたちも、いざ実物の人間を目の前にしていると尻込みしていた。そわそわとした妙な緊張感が急速に醸成されていく。すると、千夏の背後で間宮の声が聞こえた。
「あの、はじめまして。『KN_Ma3ya』です」
「えっ、あの『KN_Ma3ya』さん!?」
間宮に話しかけられた男性は素っ頓狂な声を上げる。車内がざわつきはじめた。メンバーの視線が背後の座席に注がれている。
「ええ、そうです。……はは。失望しましたか?こんな見てくれで」
「いえいえとんでもない!落ち着きがあっていかにもって感じがしますよ!」
「ありがとうございます」
二人のやり取りが皮切りとなって、車内は徐々に話し声で溢れていった。千夏も隣に座っている女性に声をかけた。
「はじめまして。サマーです。これから数日間よろしくお願いしますね」
「こちらこそよろしくお願いします。ええと、イオリで分かりますか?」
「はい。分かりますよ」
イオリはチャットルームでよく発言していたユーザーだった。発言数が多く、そのひとつひとつが長い。
千夏は彼女の文章から、気難しく近寄りがたい人物を想像していたが、実物のイオリはそこまで話す印象はなかった。だが、常に周囲に目を配り、手を揉みしだいている姿はいかにも神経質そうだった。
「実は、イオリって本名なんですよ。伊織って書くんです」
「そうなんですか。素敵なお名前ですね」
「サマーさんは、どうしてあのチャットに……?」
「ええと、それは」
「私はこの歳になるまで、いやこの歳になってからも、ずっと周りの人間に虐げられてきたんです」
「そうなんですか?…………それはお気の毒に……」
「学校でも会社でも。結婚して、平穏無事な生活を手に入れられたと思ったら、旦那からはDVされ、両親に助けを求めても『旦那を御せないお前が悪い』と言い捨てられて…………」
「災難でしたね…………ちなみに今も旦那さんと?」
「いえ別れました。幸いなことに離婚事由は向こうにあるとされ、慰謝料はかなり払われました。おかげでしばらくは困りません。でも別れた後、完全に人との交流が絶たれてしまいました。友人なんかおりませんし、家族とは旦那の件で絶縁しました。『お前に堪え性がないからだ』とか言われて吹っ切れました。会社も辞めてしまって、本当に独りなんです。そしていつの間にか、人と接するのが怖くなっていました」
伊織の境遇を聞いていると、千夏は胸がむかつく思いだった。同じ女性だからなのか、会ったこともなく、名前も知らない伊織の元旦那や、家族に嫌悪感を抱かずにはいられなかった。
それと同時に、自分は恵まれた人生を歩んできたのだと思う。家族仲は悪くなかったし、和彦は暴力を振るうような人ではなかった。仮に、千夏が同じ状況になった時、両親や姉は身を挺してでも必ず守ってくれるだろう。そんな安心感があった。
「それで、人との交流を持ちたくて……。あのチャットはたまたま見つけたんです。サイトを見つけて。みんな私の話を聴いてくれて、味方してくれる。私は、このオフ会でちゃんと人と交流できるようになりたいんですよ。隣がサマーさんでよかった。サマーさん、発言してるのをほとんど見たことなかったけど、ちゃんとお話しを聴いてくれる方だったんですね」
「辛い思いをしてきたんですね」
「ええ。ほんとうに。あ、すみません私の話ばっかりで」
「いえ、ぜんぜん良いですよ」
「申し訳ないです。ええと、そうでした。サマーさんはなにが理由であのチャットに来られたんですか?」
「…………彼氏と別れてしまって。それからもうなにもできなくなっちゃったんですよね。自分でも驚いています。こんなに弱い人間だったんだなって。それで、落ち込んでいた時、見つけたんです」
「まあ、それは…………」
和彦と離れ離れになってしまったのは事実だが、その他の部分は前もって考えておいた内容だった。自分の身の上話を打ち明けてくれた伊織に嘘を言うのは気が引けた。しかし、武藤たちに和彦たちの行方を追っていることは知られたくなかった。どこからどんな情報が洩れるか分からない。用心に越したことはない。
一通り話終わったところに、武藤がペットボトルのお茶と袋菓子を配りに来た。どこにでも売っている見慣れたものだった。よく冷えており、話疲れた喉にはありがたかった。
「サマーさん、お話ありがとうございました。オフ会楽しみましょうね」
伊織はぎくしゃくしながら笑顔を浮かべる。千夏は微笑みを返した。伊織は立ち上がり席を移動した。車内では人の流動が活発になっていた。千夏は伊織と会話している最中も、席を移動している者たちを何人か目にしていた。
開いた座席に、体を滑り込ませるようにして着席したのは間宮だった。間宮はチャットルームでもそうだったように、皆に人気で、身動きが取れなかった。やっとのことで席を立てた間宮は、すぐに千夏の隣に腰を降ろしたのだった。
千夏に羨望の眼差しが注がれる。とにかく目立ちたくない千夏にとって、それは迷惑極まりないものだったが、咎めるのも気が引ける。そうすることで余計目立ってしまう。結局、千夏は注がれる視線を甘んじて受け入れるしかなかった。
「すみません。ご迷惑でしたか?」
「いいえ。そんなことは」
「よかった……。安心しました」
「間宮さん、凄い人気でしたね。皆、間宮さんと話したがってる」
「それほどでも……。でもここでもやってることはチャットルームと同じです」
「そうですか?かなりの人が入れ替わり立ち替わりしていたような気がします。みんな、間宮さんに話を聞いてもらいたいんでしょうね」
「はは」
会話はそこで途切れた。
そういえばと、千夏はカーテンを捲る。これまで会話に集中しすぎて外の景色を見ていなかった。バスは当に都市圏を抜け、地方の方まで走ってきているらしかった。
群がるようにして空へと伸びるビルの姿はひとつもなく、代わりに緑豊かな田畑が陽光に照らされている。まだ実のなってない穀物は青々としていて瑞々しい。それに混じって農作業に従事する農家の姿が見えた。その向こう側に平屋の日本家屋がある。視線を横に逸らすと、同じような造りをした建物が何棟か建っていた。農家が住む集落なのだろう。家々の背後には山が連なっているのが見える。青空の中に然としてそびえ、尾根は空に溶け込んでいるように見えた。
和彦さんと来たかったな。
美しい景色とは裏腹に、千夏の胸中は黒く厚い雲に覆われていた。
「きれいですね。こういう景色久しぶりに見ました」
間宮が言う。
「私もそうです。なんだか、そう、晴れやかな気分になりますよね」
千夏が言うと同時に、車体が少し揺れ、背後に重力を感じるようになった。
山道にでも入ったのだろうか。再び窓の外に目を向けると、田畑や山々の姿は消え、その代わりにうっそうと乱立している木々が間近にあった。目線を下に落とすと、錆びたガードレールが、気持ち程度と言わんばかりに設置されている。その向こう側は急な斜面がずっと続いていた。千夏は窓から離れるように腰をずらした。
「はい。そう思います。あれ、景色が変わってますね」
「ですね。山道に入ったんでしょう。……ところで、間宮さんはどうしてあのチャットに?」
「え?」
間宮の態度が先ほどとは打って変わる。落ち着いた雰囲気は消え、おどおどしはじめた。
「ええと……」
「他の方に話されてないんですか?」
「……はい。みんなのお話を聴いていると、自分のことを話すタイミングがなくて…………。サマーさんがはじめてです」
「そうだったんですか」
「だから嬉しいです。ええと、実は僕が好きな女性の方があのチャットを利用していて……」
憧れのAV女優が利用していた、と初対面同然の女性に言うのは憚られた。変な人間だと思われ、自分の居場所を追われたくない。
「そうなんですね。その方に教えて貰ったんですか?」
「まあ、そんな感じです。それで、その人はチャットを利用しはじめてから、人生が上手くいくようになったって。それで、僕も人生を変えたいなって思って」
「人生は変わりましたか?」
「はい。少しずつですが、良くなっていっている気がします」
「それは良かったです。ところで、その方は今日のオフ会に参加していないのですか?」
好きな人がいるなら、自分のところより、その女性の方へ真っ先に行くのではないだいろうか。
仮に、その女性が別の人間と会話していても、終わるのを待っていつでも話しかけられる状態にしておくのではないだろうか。そういう思いから、千夏は間宮の憧れの人物について何気なく聞いた。
「残念ながら……。オフ会どころか、チャットルームにも姿を見せないんです。…………連絡しても反応がないし、SNSの更新も止まってますから」
千夏は目を見開いた。木下サチや城石音葉と状況が似ている。木下サチは既に死んでいるため、チャットルームに現れないのは当然だった。城石音葉については、オフ会参加後、SNSの更新をしなくなってしまったのは同じだった。
「すみません、連絡しても反応がないというのは?」
「あぁ、言葉通りで、なんの反応もないんです」
「それっていつごろからですか?」
間宮は眉根を寄せて怪訝な表情を千夏に向けた。
なぜ彼女はそんなことを知りたがるのだろうか。
だが、間宮に向けられた千夏の目は真剣そのもので、どこか尋常ではない雰囲気を孕んでいる。間宮はその迫力に圧倒されながら口を開いた。
「ええと、確か六月九……」
「皆さん!」
千夏と間宮の二人は武藤の声に驚き体を震わせた。
武藤は通路の前方に立ち、マイクを握りしめている。
「そろそろ会場へ到着します!いったんご自分の座席にお戻りください!」
武藤の合図で席を移動していた者たちはぞろぞろと動きはじめた。
「あの、それではこれで…………」
間宮は申し訳なさそうな表情を浮かべながら後ろの座席に戻った。
千夏からすると、彼はすぐ背後にいるのだし、先の会話の続きを聞こうと思えば聞くことができた。しかし、会話が途切れ、静寂が立ち込めた車内で聞き出す勇気はなかった。
また後で聞こう。
千夏は隣に戻ってきた伊織に会釈を返し、視線を武藤に戻した。
「現在は午前十時四十九分、なにごともなければ十一時前には会場へ到着します。会場に到着したら、各自荷物を持って降車してください。バスは民間のものをお借りしているため、皆さんを降ろした後すぐに引き返すことになりますから、お忘れ物がないよう充分確認してください」
武藤が話している間にも、バスはどんどん進んで行く。いつの間にか、背中に重力は感じなくなっていた。
武藤の言葉通り、午前十時五十四分、バスはオフ会の会場に到着した。昇降口が開かれ前から順番に下りていく。千夏は伊織の後から降りた。
山中を開拓しているのか、周囲はなだらかな丘陵になっており、背の短い草がお生い茂っていた。千夏たちの目の前には、壁を白く塗られた二階建ての建物があった。千夏はその建物を見て、和彦の取材に同行して訪れた、田舎町にあった公民館を思い出した。
村民が自然と集まれる場所で、そこでよく催し物を開いていている、と役場の職員が語っていた。それと同じ雰囲気を、目の前の建物は醸し出している。公民館と異なるのは、外装が綺麗で、汚れひとつ見つからなかったことだった。よく手入れされているのか、ひび割れた痕や、風雨にさらされ風化している様子もない。千夏は綺麗で清潔な印象を受けたが、山中には似つかわしくない建物だとも思った。
最後の乗客が降り立った時、バスはドアを閉め、来た道を引き返して行った。
「さて、皆さんひとまずお疲れさまでした!そしてようこそ!我らがキャビンへ!ここがオフ会の会場になります!詳しい説明はランチの後で行いますので、お荷物を二階の広間に置いてきてください。さあ、どうぞ」
武藤に導かれ一同は屋内に入って行った。出入口をくぐると、タイル張りの三和土があり、そこで靴を脱ぎ用意されていたスリッパに履き替える。
左前方には二階へと続く階段があった。右手の方には、ドアが奥に向かって二枚並んでいて、表札らしきものが備えられていた。屋内は薄暗かったが、手前側にあるのには『食堂』と書いてあるのが見えた。照明がつけられ、奥にある表札も見えた。『浴場』と書かれている。
「あちら手前のドアが食道になります。ご飯は基本的にこちらで召し上がっていただきます。奥にあるのが大浴場です。さあさあ、こちらの階段から上へどうぞ!」
階段を上がると、すぐ右手には『和室』と書かれたドアがあった。武藤がそのドアを開けると、中は畳が敷かれた広い和室になっていた。室内の広さは少なく見ても五十畳以上はあった。
ここにも三和土があり、スリッパを収納する棚があった。スリッパを脱いで上がり框を跨いで畳に上がる。部屋の奥には押し入れと入って来たものと同じ造りのドアが一枚あった。
ドアを開けてみるとさっきの廊下につながっていた。右手は突き当りとなっていてなにもなかったが、左手には先ほど昇ってきた一階へ続く階段と、その向こう側にトイレがあった。
「こちらが皆さんの休憩室兼レクレーションルーム兼お泊りしていただくお部屋になります!襖で仕切ることができるので、男性女性で別れて頂いても結構です!では、皆さんこちらに荷物を置き、一階の食堂へ移動してください!」
各々荷物を置いていく。千夏は伊織の旅行カバンの傍にボストンバッグを置く。
スリッパをいちいち履き直すのが面倒だった。和室を出て食堂へ下りる。食堂に入ると、既に食事が長机に並べられていた。
「特に席順は決まっていなので、お好きな場所にお座りください!」
千夏は奥の方に座った。すぐそばに厨房があった。厨房からは水道が流れる音や、食器や調理器具を扱っている音が聞こえていた。
千夏の隣に伊織が座る。対面には、話したことのない初老の男が座った。人の良さそうな笑みを浮かべ「どうも」と短く言う。千夏は父の総一郎を思い出しながら「こんにちは」と挨拶を返した。
千夏は間宮から話の続きが聞きたかった。目を配らせると、間宮は出入口付近の席に腰を降ろしていた。彼の近くには武藤がニヤニヤしながら立っている。
千夏は武藤の姿を見る度に、嫌悪感が高まってくるのを抑えられなかった。武藤は薄気味悪く、彼の所属している団体同様に得体の知れない存在だった。和彦の失踪、木下サチと武内美咲の死に関わっていると思うと、胸がむかつく思いだった。だが、下手なことはできないのも現状だった。ここはいわば敵の本拠地で、目を付けられると厄介なことになるのは間違いなかった。武藤と適切な距離を保ちながら、情報を集めなければらない。
苦労しそうだな。
そう考えていると武藤が音頭を取りはじめた。
「それでは、いただきます!」
「いただきます」
武藤に唱和して、千夏たちは早めの昼食を食べはじめた。
メニューは山菜をベースとしたヘルシーなもので、千夏の口に合った。敵として認識している者たちから振舞われる料理を、簡単に口に運んでいいのか、と問われれば答えに窮するが、朝からなにも食べていないため空腹だった。それでも完食することは避けた。半分程度残したまま食事を終える。その様子を見た武藤が千夏の傍にやってきた。
「サマーさん、残されていますね。お口に合いませんでしたか?それとも御体の具合でも?」
武藤の言葉や態度は、千夏のことを心から気遣っているように見えた。しかし、千夏は心を許すことなく短く簡潔に残した理由を述べた。
「バスに長時間乗っていたから、酔ってしまったのかもしれません」
「なるほど。確かに。そこまで考えが至らず申し訳ございません。状態が悪化したらすぐに教えてください。酔い止めの薬など揃っているので」
「ありがとうございます」
武藤はそう言うと笑顔を見せて自分の座席に戻って行った。隣の伊織が千夏に心配そうな視線を注いでいる。対面に座る男も同じ仕草だった。
しまった、と千夏は思った。さっきので目立ってしまった。伊織などに心配されるのは構わないが、武藤に目を付けられるのだけは避けたかった。次回以降の食事では、気をつける必要がある。
「他にバスで酔ってしまった方はおりませんか?」
武藤の呼びかけに反応した者はいなかった。お互いに顔を見合わせ、首を振っていた。
「それはよかったです。もし具合が悪いなと感じた場合は、すぐにお知らせください!こちらで適切な処置を行いますから。さて、この後一時から第一回目となるワークを行います!場所は二階の和室です。それまで各々ご自由にお過ごしください!定時までには和室にいただくようお願いします!それでは一旦解散しましょう!」
参加者は立ち上がり食堂を後にした。
千夏はトイレに向かった。中は掃除が行き届いており、便器は水洗式となっていた。トイレが綺麗で安心した。千夏と同じことを思っていたのか、洗面台で化粧直しをしている女性が「綺麗で安心したわ」と独り言ちていた。
千夏は和室に戻ってきた。参加者のほとんどがここで過ごしていた。無理もない。自由に過ごせと言われても、周囲にはなにもない。あるのは自然だけで、ちょっとしたレジャーのようなものもなかった。加えて、陽射しが厳しく、散策などする気が起きなかった。となると、畳の上で寛ぐぐらいしかやることがなかった。
千夏は間宮の姿を探したが室内にはいないようだった。伊織が他の者たちと談笑していたので、その中に割って入った。
「お話し中すみません。あの、間宮さん見ませんでしたか?」
「マミヤさん?」
「『KN_Ma3ya』さんなんですが」
「ああ!間宮さんか。そういえば見てないですねえ」
「探検しにいってるのかも」
「そうですか。すみません、ありがとうございました」
頭を下げ、その場を後にする。
間宮を探そうと思い、三和土でスリッパを履こうとする。それと同時に目の前のドアが開いた。そこには間宮が立っていた。腰をかがめた千夏を見下ろしている。千夏は、背中から臀部にかけて、まとわりつくような視線を感じた。
「サマーさんどこかに行かれるんですか?」
声をかけられて、千夏は背筋を伸ばす。間宮と視線が合う。間宮は気まずい素振りをしながら目を逸らした。その仕草は、いたずらが親にばれてしまった子供のようだった。千夏は内心でため息を吐きながら間宮に話しかけた。
「間宮さん、さっきバスで話していたことの続きをお聞きしたいのですが」
「あ、ああ。あの話ですね。ええと」
「おや、こんなところで立ち話ですか?」
間宮の背後から声がする。間宮が振り返ると、そこには武藤が笑みを浮かべて立っていた。
「いえ、その」
間宮が苦笑しながら言う。
「懐かしいなあ。学生時代を思い出しますよ。こうやって出入口にたむろして会話してるんですよねえ。特に女の子は。サマーさんもそうだったんですか?」
武藤の言葉には、暗に女性への批判が込められているような気がしてならなかった。記憶にある限り、千夏は自分がそのようなことをしたことはなかった。しかし、高校ではそのような光景を何度も目にしていたので、武藤の気持ちは分からないでもなかった。
「確かに、たむろしてる女の子は結構いましたね。私はどちらかと言うと、そういうの邪魔だなあって思ってました」
作り笑いを浮かべる。幼い頃から面倒な相手をやり過ごすために使ってきたものだった。そうでなくとも、女子はそう振舞わなければならない場面が多い。それは社会人となって今でも変わらなかった。
「そうですかぁ。私とおんなじです。ちょっとは考えて欲しかったですよねえ」
武藤は首を何度も縦に振っていた。
「それで、そんなサマーさんがここでなにを?」
武藤は千夏を品定めするかのように目を上下させていた。
千夏は鳥肌が立つのを覚えながら、適当にごまかした。
「ちょっとお手洗いに行こうと思っていました」
千夏がそう言うと、間宮と武藤は慌てて道を開けた。
間宮は心の底から邪魔をして申し訳なさそうな態度だったが、武藤の方はわざとらしさが目についた。千夏は武藤に対する嫌悪感を出すまいと苦心しながらその場を後にした。
「そろそろはじめますから、お早めに!」
背中から武藤が言う。千夏は振り返って軽い会釈をしてそれに答えた。
意味もなく個室に入った千夏はスマートフォンを取り出した。そういえばここに到着してからつついていなかったことを思い出す。画面を見ると圏外になっていた。
「圏外……」
別段驚くことではなかった。こんな山の中にあって、電波が届いているとは思えない。だが、そうと分かっていても、外界との連絡手段がないこの状況に不安はいや増していくばかりだった。