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第8話 チャットルーム

 間宮は『メシアの子供』を発見してから、度々そのサイトを訪問するようになっていた。

 白石琴音がそこで感化され、救いを得たことは、とても他人事とは思えなかった。間宮は白石琴音を感じるため、以前のようにアダルトサイトを巡回するようになり、彼女のブログを一日に何度も開いていた。間宮も、自分の人生を良くしたかった。この淀んだ沼のような世界から飛び出したかった。

 気がつけば、間宮は記載されたアドレスにメールを送っていた。稚拙で下手くそな文章だった。胸に溢れる思いを感情のままに書いた。間宮の胸中に羞恥と後悔の念が同居していた。

 もし、これが会社のメールだったら……。そうでなくても、返信などくれないのではないか。

 そう思うと、黒い靄に視界が覆われるような気分だった。目の前が真っ暗になり、返信を取り消せないか模索したが、無駄に終わった。しかし、間宮の考えは完全な杞憂だった。メールを送信してから十分余り経った後、返信が着た。

『間宮さん。メールをいただきありがとうございます。拝読させていただきました。あなたが胸に抱いている感情、他者から軽んじられる恐怖、疎まれる疎外感、私どもはよく理解できます。ですが知って欲しいのです。それらのネガティブな思念は、使い方を誤らなければ、人生を好転させることができるということを。私たちはあなたのお悩みを聞き、人生をよりよくする為にサポートすることができます。また、あなたのように悩み、苦しんでいる人は他にも大勢いらっしゃいます。そのような方々と交流を持ち、お互いに励まし合うことも大切です。よろしければ、以下のURLからチャットルームにお越しください。そこでは、あなたと同じ境遇の方々や、私どもとリアルタイムで交流することもできます。ぜひご利用ください』

 間宮は『リアルタイムで交流』という文句に目を留めた。本当に、白石琴音と話すことができるかもしれない。心臓が期待に脈打っているのが分かる。このような高揚感を覚えたのは、随分久しぶりのことだった。視界の靄が、一気に晴れた気がした。

 メールに記載されたURLをクリックする。画面が切り替わり、簡素なデザインのチャットルームが表示された。画面の上部にはユーザー名を入力する入力欄と、入室と記載されたボタンがあり、そこから下はチャットのログが表示されていた。更新日時を見ると、最新のものが『8月19日14時25分15秒』となっている。つい先ほど更新されたものだ。

 間宮はしばらくの間ログを眺めていた。ログの更新は適度なペースで、主に三人のユーザーが語り合っていた。一人の話し手と二人の聞き手に別れているらしく、話手の話が終わるまで、聞き手はログを更新しない。誰もが自分のペースで投稿して、会話が右往左往していた投稿掲示板に慣れ親しんでいた間宮にとって、違和感を覚えるやり方だった。『メシアの子供』というタイトルもそうだったが、デザインがいちいち古めかしい。運営の趣味だろうか。チャットルームも、一昔前に流行ったものと酷似していた。

 それから数日間、間宮はチャットルームに入ることなく、他者のやり取りを見ていた。

 今一歩踏み出す勇気がない。会社員時代のことを思い出してしまう。自分ではうまくコミュニケーションを取っていたつもりだった。しかし、それは自分が勝手にそう思い込んでいただけで、相手はずっと迷惑していた。今となっては、顔と名前すらおぼろげになっている後輩に、現実を突き付けられた。

 間宮の脳裏であの時の光景がフラッシュバックする。事務所にいた全員が自分を見ている。冷ややかで冷徹な視線が一身に注がれる恐怖。はっきりと感じ取れた他者からの拒絶。擁護してくれる者は誰一人いない。

 チャットルームでもそうなるのではないか。次第に、無視されるのではないか。

 恐怖心から産まれた妄想は、間宮の行動を強烈に制限していた。インターネット上とはいえ、あんな思いは二度と味わいたくなかった。それなら、ずっと安全圏から会話を見守っていた方がまだマシだった。誰とも関わらないことで、自分自身を守っていた。

 それに加え、間宮は気がかりになっていることがあった。ここ数日、チャットルームをずっと眺めているが、白石琴音と思われるユーザーが入室していない。間宮の目的のほとんどは、白石琴音だった。しかし彼女は訪れていない。

 彼女は一体どうしてしまったのだろう。なぜチャットルームに現れない。俺は貴女を追ってやってきたのに。姿を見せないのは、あんまりじゃないか。

 理不尽で、自己中心的な思考が間宮の脳内を流れる。画面を見ながら、人差し指でマウスを叩く。貧乏ゆすりも止まらない。そうなると、チャットで行われているやり取りなど、どうでもよくなってしまう。間宮が望むのは、憧れの人である白石琴音の出現だった。

 そんな折、間宮にメールが届く。差出人はサイトを運営する団体だった。間宮は面倒と思いながらもメールを開封する。そこには、チャットルームに入室した気配がないが困ったことでもあるのか、といった旨が記載されていた。

 何故、俺がまだ入っていないことを知っているんだろう。

 疑問が頭をかすめるが、間宮はここ最近でたまった不満をあてつけるようにして、返信した。またすぐ、団体から返信があった。忌々しい思いでメールを読む。

『間宮さん。ご返信いただきありがとうございます。間宮さんのメールを読んで、一つ確信したことがございます。それは、間宮さんが他者と関わるのを恐れていることです。理想の人に想いを寄せるあまり、自分自身の心が、迷子になっています。間宮さん、あなたの人生は、あなただけのものなのです。あなたの憧れている人のものではありませんし、あなたにトラウマを植え付けた人のものでもありません。思い出してください。これまでの生き方を。あなたは他者にしか、本来の意味での自分の時間を使っていないのです。ですから、簡単に恐れてしまう。自分に自信がないからです。そのような状態で、憧れの人が目の前に現れた時、なにができるでしょうか。厳しいことを申し上げますと、お話することもできないでしょう。なぜなら、あなたはなにも持っていないからです。あなたの時間は、他者に使われてしまっているからです。間宮さん、私たちはそんな辛い経験をしてきた方々に、御自分の人生を取り戻していただきたいのです。そのためならば、どんなことでもサポートさせていただきます』

 読み終わった後、間宮は涙を流していた。彼のこの感動は、自分を理解してくれる人がいるという安堵感と、これまで自分は虐げられてきた存在だったという事実に対する情けなさからきていた。

 やっぱりそうだ。俺は正しかった。

 間宮は、メール差出人が述べていることに心の底から同意した。これまで他人に言われて流されてきたのも、自分のためではない。その人間の意見を尊重するためだ。高校受験、大学受験、そして就職活動、人生の転機において、かならず意見を述べてくる者はいた。

 その者は、家族や友人だけに限らない。学校の教師や、テレビに出演している芸能人もそうだった。仕事についてもそうだった。慢性的な人手不足だと、世論はずっと訴えていた。働き手が必要で、現役世代に働いて貰わないことには経済を維持できないと言っていた。だから、間宮は就職活動をして会社に入った。そして、会社の中でもそうだった。自分は全力を尽くした。会社のため、同僚のため言われたことをやった。それなのに、返ってきたのは感謝の言葉ではなく、心の底から軽蔑している冷ややかな視線だった。

 間宮は、これまで自分がしてきたことの多くは無駄だったと反省する。しかし、白石琴音を応援してきたことだけは、無駄だと思いたくなかった。彼女は他の連中と違った。SNSで辛そうなことを言う度、間宮は励ましの言葉をかけた。間宮のメッセージに、彼女は懇切丁寧に返信をくれていた。長文が返ってきたことはない。せいぜい、メッセージをしたことに対する感謝と「大丈夫です」という決まり文句のみだった。だが、短い返信からでも、白石琴音という人間の性格がうかがえる。彼女は優しい人だった。だからこそ、間宮は、彼女に傷ついて欲しくなかったし、常に気遣いの言葉を送っていた。

 人生を取り戻さなければならない。

 間宮は顔を上げて、モニターを見つめ続けた。メールを表示しているウインドウを閉じ、チャットルームの画面のみにする。ユーザー名の入力欄をクリックして、指を静かにキーボードへ滑らせる。『KN_Ma3ya』と入力し、入室ボタンをクリックした。

 チャットのログが更新される。間宮はとうとう新しい世界に足を踏み入れた。胸が高鳴っているのが分かった。汗が吹き出して、喉が渇く。必要もないのに、瞬きを異様に繰り返してしまう。そうしている間にも、間宮の入室に対して、既に会話していたユーザーが反応していた。

『こんにちは』

『こんにちは~』

 無視してはいけないと思い、個別に挨拶を返していく。

 挨拶をされるだけで、こんなにも心地が良いのか。

 間宮は、人間として認められた気分だった。

 それからというもの、間宮は招待されたチャットに入り浸っていた。休職中で他にやることもないので、基本的に一日中居座っていた。チャットルームは、リアルタイムで誰が入室しているのか分かるようになっており、次第に間宮の存在は注目されだした。

 チャットルームに居座ると言っても、間宮が自分自身から話をしたことはほとんどない。しかし、メンションをつけるとすぐに反応していたため、繰り広げられる会話や議論についての参考意見を求められることが多くなっていった。

 間宮は、自分が求められていることに喜びを覚えていた。これまで散々見てきた、見せかけや上辺だけの態度ではない。彼らは本当に自分を必要としているのだ、と自己肯定感が高まっていく。他者に必要とされ、承認されることは非常に心地良いことだった。間宮はこれから先も必要とされたかった。だから、意見を述べる時はひとつの主張に肩入れしない。それぞれの良さと懸念点を簡単に書いて、それから自分の考えを述べる。この方法は、話に参加している者たちを冷静にさせる効果があった。間宮が話すと、それまでの緊張を孕んだ空気が弛緩していく。ほどよく緩んだ会話の場は、積極的な発言や話者の言葉に耳を傾けることを促進させた。

 しかし、依然として、間宮は自分の過去を話せないでいた。チャットのメンバーになり立ての頃は、何度かそういう類の質問を受けたが、その都度答えをはぐらかしてきた。その内、彼に気を遣ってか、興味が薄れたのか、質問はこなくなった。本来なら、自分を打ち明けて、より深い関係になることが望ましいはずだったが、間宮はその一歩を踏み出せないでいた。その間に、今の立ち位置を確立してしまったので、彼が自分のことを話す機会は更に遠のいていった。

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