坂上と別れた千夏が自宅に帰ってきたのは午後三時半ばだった。誰もいない室内に向かって「ただいま」と声をかける。
玄関廊下を抜け、ダイニングテーブルに荷物を置いた。窓の方から、カーテンから漏れる陽光がリビングを柔らかく照らしていた。ソファの傍まで歩み寄ると、空気中の埃が光の粒子となってきらめきながら漂っているのが見えた。ソファを使っていたのは主に和彦だった。主がいなくなってから、手入れはほとんどしていなかった。掃除をすることは、和彦の痕跡を跡形もなく消し去ってしまうように思え、手を出せなかった。
改めて室内を見回す。薄暗いながらも、どこか温かみのあるその光景を見るたびに、千夏は自分の身の回りで起きた一連の騒動を現実とは思えなかった。
今でも長い夢を見ているのかもしれない。現実の世界では、自分はベッドでずっと眠っていて、和彦は書斎で執筆しているか、ここのソファで読書をしている。土井和子も、まだ休職中で、しかし症状は回復傾向にあって、もうしばらくしたら出勤してくるかもしれない。武内美咲も彼氏と仲睦まじい生活を送っているのだ。
なぜなら、外からもたらされる光は、こんなにも優しくて静かなのだから。
現実から目を背け、虚構の世界に感情を浸していた。すると、後ろの方から慣れ親しんだ振動音が聞こえてきた。音の出所はすぐに分かった。千夏は立ち上がり、ダイニングテーブルに置いたポシェットを覗く。中でスマートフォンが着信を受けていた。そのすぐそばに液晶のライトで鈍く照らされたノートがある。
千夏はスマートフォンを取り出して番号を確認する。画面には見覚えのある数字が表示されていた。どこで見たのだろうか、と記憶を探っていた千夏は、それが瞳の勤めるM警察署のものだと思い出し、通話ボタンを押した。
和彦が見つかったのか、和彦につながる情報かなにかが新たに発見されたのかと期待した。しかし、電話口の向こうから伝えられた言葉は、千夏を絶望の淵に叩き落した。内容が耳から耳へ通り抜けていく。
「あの、今なんて……?」
「市川刑事が銃撃を受けました。刑事はK大学附属病院に搬送されましたが、容態は分からないとのことです」
「…………」
「もしもし?もしも」
通話を切り、着の身着のままで千夏は外へ飛び出した。エレベーターは他の住人を乗せて上へ昇ってしまったばかりだった。待っている時間はない。
外階段を駆け下りて、タクシーがいないか周囲を見回してみる。しかし、千夏のアパートは大通りより少し奥まった場所にあるため、ここまでタクシーが入ってくることは稀だった。千夏は走って通りを抜け、そこでようやくタクシーを捕まえた。運転手に行先を告げシートベルトを締める。千夏の尋常でない様子を見た運転手は、可能な限り速く車を走らせた。
K大学附属病院に到着した千夏は、和彦の時と同様に緊急外来の出入口から院内へ飛び込んだ。リノリウムの廊下に、ローファーの靴音がこだましている。十字路に差し掛かると、右手の通路から職員の姿が見えた。
「いちかわ……市川瞳は、どこですか!?」
息も絶え絶えになり、空気と共に一文字ずつ千夏の口から言葉が漏れる。職員は目を見開いて千夏を見ていたが、市川という苗字に反応した。
「妹の市川千夏さんですか?」
「そうです……姉は、姉は無事なんですか?」
「今治療室でオペを受けています。安心してください。命に別状はありませんから」
体から力が一気に抜けていく。千夏は安堵のため息を吐くとその場にへたり込んでしまった。脚が完全に脱力して、まるで言うことをきかなかった。
「大丈夫ですか?」
職員の手を借りて、千夏はなんとか立ち上がる。それでもまだふらつくので、手すりに腰掛けた。
深呼吸を繰り返し、命に別状はないとの報告をなんども脳内で反芻する。千夏はだんだんと落ち着きを取り戻し、脚にも力が入るようになっていた。
「待合椅子まで案内します」
傍にあったエレベーターから千夏たちは二階へ昇った。エレベーターから降りてすぐ右手に曲がる。少し歩いて更に左に曲がると、ウォーターサーバの傍に簡素な椅子が壁に沿って並んでいた。その奥の突き当りには両開きの扉があり、扉の上には『治療中』の文字が赤く光っていた。和彦が自殺未遂を起こした時とは別の場所だったが、当時を思い出した千夏の目に、その光景は苦々しくに映っていた。できれば二度と見たくなかったものだった。
「しばらくお待ちを」
そう言い残すと、職員は千夏の前から姿を消した。千夏はウォーターサーバから発せられる、鈍い電子音を聞きながら、瞳の手術が終わるのを待っていた。
千夏が病院に駆けつけてから三時間近くが経った頃、『治療中』の明かりが音もなく消えて、扉が開かれた。中からは藍色をした手術着をまとった医者が姿を現した。千夏はすくっと立ち上がって、軽くお辞儀をした。
「妹さんですね」
「はい。あの、姉は」
「ご心配なく。銃撃されたみたいですが、弾は右肩を貫通していました。幸い肩関節、鎖骨下動脈などのような重要な器官には大きな外傷はありませんでした。それでも、放置すれば危なかったことに変わりはありませんけどね」
「そうですか……良かった……」
「しかし、しばらくは安静にした方がいいです。お仕事も休むべきでしょうね」
「……それで、姉はどこに?」
「病室に運びました。案内しましょう」
瞳の病室は一つ上の三階にあった。表札には『市川瞳』と書かれてあった。
「それでは私はこれで。くれぐれも無理はさせないように」
「はい。ありがとうございました」
千夏は深々と頭を下げて、医師の足音が聞こえなくなるまでそのままの体勢で病室の前に立っていた。聞こえなくなると、頭を上げノックする。
「どうぞ」
室内から聞き覚えのない男性の声がして、千夏は引き戸から手を離した。もう一度表札を見て、姉のいる病室に間違いがないことを確認する。
「どなたですか?」
そうこうしている内に、ドアは開かれた。千夏の目の前に、和彦ほどではないが長身の、白衣をまとった男性がぶっきらぼうに立っていた。
「…………ああ、妹さんか」
姉と自分との関係を言い当てられ、千夏はドキリとする。
目の前の男のことを千夏は知らなかった。見覚えもない。姉の友人だろうか。まさか不審者なのか。瞳が高校生の頃、暴漢に襲われた話を思い出す。あり得なくはない。瞳は今動けないし、今なら好き勝手できる。この不審者が、白衣をどこで手に入れたのかは謎だが、付け入る隙は探せばあるだろう。
千夏の疑わし気な視線に男は気づき、口元を歪ませて小さく笑った。
「市川、俺のことを話していなかったか」
男はなんで千夏に警戒されているのか納得した様子だった。千夏はなにがなんだか分からないので、相変わらず男とは一定の距離を保っていた。
「はじめまして、ここで研究医をしている岩切悠二と言います。市川とは高校からの友人です」
「岩切さん?」
千夏はその名前に心当たりがあった。瞳との会話で、なんども彼女の口から聞いた名前だった。
高校生の頃の姉が好きだった人の名前も岩切ではなかったか。
「にぶにぶ岩切……」
『にぶにぶ』とは、『鈍い』を省略したもので、瞳が岩切のことで愚痴を吐く時、必ず使っていた枕詞だった。千夏はなぜ自分の口から同じ言葉が出てしまったのか不思議でしかたがなかった。ハッとして手で口を押えたが、漏れた言葉が返ってくることはないし、言わなかったことにもならなかった。
「……鈍いってことかな。そうか、そんなことを言っていたか」
岩切は苦笑していたが、傷ついた素振りはしていなかった。瞳の評価に、まんざらでもなさそうな表情を浮かべていた。
「す、すみません!岩切さんのことは姉からよくうかがっています」
「でしょうね。ああ、どうぞ」
岩切に促され、千夏は室内に足を踏み入れた。
窓の傍にベッドが設けられ、瞳が横たわっている。瞳の体には何本かのチューブがつながっていた。チューブの先には生体情報モニタが設置され、瞳の心電図、心拍数、血圧などをリアルタイムで監視していた。異常があればすぐに看護師が飛んでくる。詳細な見方は千夏には分からなかったが、雰囲気で異常がないことは分かった。そんな千夏の空気を察知したのか岩切は短く「大丈夫ですよ」と言った。
「麻酔と疲労で眠っています」
「……みたいですね」
「少しおたずねしたいのですが、市川は子供の頃から無鉄砲な性格でしたか?」
「ええと……はい。女の子にしては、かなり」
千夏は子供の頃の記憶を引っ張り出す。
瞳は、思い立ったが吉日という言葉を体現したような子供だった。良い言い方をすれば行動力があると捉えることもできるが、悪い言い方をすればまさに無鉄砲そのものだった。遊んでいる最中、危ない行動をしてなんども怪我をしたし、突然どこかへ行って長時間姿を見せなくなることもあった。両親は最初こそ戦々恐々といった様相だったが、次第に慣れていき、むしろそんな瞳の性格を面白がっていた節もあった。
「母がよく『いのしし年の性ねえ』って言ってました」
「はは。なるほどね」
「それがどうかしましたか?」
岩切は顔を瞳に向けた。千夏は、岩切が瞳に向ける視線は保護者のような風格があると感じた。
そのまま、まじまじと、千夏は岩切悠二という男を見ていた。和彦と同じく長身で細い体形だったが、岩切には和彦が持っている儚さや小動物のような雰囲気がまるでなかった。その代わりに、どこか憂いていて、かつ確固たる意志を秘めている空気をまとっていた。姉の友人でなければ、千夏が近づくことのない類の人物だった。
「撃たれた経緯は聞いてないですか?」
千夏は無言で首を横に振った。姉がどうして撃たれたのかは、千夏は特に興味がなかったが、岩切は構わず話し出した。
「犯人は人質を取って、個人商店に昨日から先ほどまで、一日近く立て籠もっていたみたいです。人質は若い女性で、市川はなんとしても助け出したかったのでしょう。しびれをきらした市川は、上司の制止を振り切り、物陰から近づいた。そして撃たれた。だがそのおかげで警官たちが突入し犯人は捕まった。人質だった女性には、傷一つなかったそうです。後でこっぴどく叱責されるでしょうが、結果的には市川の行動は正解だった。世が世なら猪武者として名を馳せていたのかもしれませんね」
姉ならやりかねない、と千夏は納得した。岩切から話を聞いただけでも、事件現場での映像が生々しく脳裏に浮かぶ。そして、体勢を低くしてゆっくりと犯人に近づく姉の姿も。
「そんなことがあったんですね。姉は自分の仕事についてあまり話してくれないので、岩切さんのお話しは新鮮でした。でもお詳しいですね。どなたから聞いたんですか?」
「ちょうど現場に仲の良い警官がいたので、聞いてみたんです。それにしても、最近はこの国も物騒になりました。はじめ事件のことを聞いた時は、海外で起こったのかと思いましたよ」
「確かに……。最近、そういう殺傷事件をよく聞きますよね。…………人が失踪するのも」
千夏の言葉に岩切は引っかかった部分があるらしく、岩切は、体を千夏に向け「失踪ですか?」と聞き返した。
「はい」
岩切は天井を見上げ、なにかを考えている様子だった。左手で首筋を掻きながら、目線がゆっくりと左右に動いている。
「そういえば、市川も似たようなことを言ってましたよ。行方不明になった女性がどうのこうのと」
「はぁ、そうなんですか」
「ええ。聞いてませんか?」
千夏はとんでもないといった表情を浮かべ首を左右に振る。
「もしかして岩切さんは聞いてるんですか?」
「ええ、少し前に。なんでも行方不明になった後、突然姿を見せたと思いきや支離滅裂な言葉を言い残して自殺したとか」
千夏はハッと顔を上げ、岩切に詰め寄った。
「そのお話、詳しく聞かせていただけませんか?」
千夏の真に迫る眼差しに、岩切は木下サチの事件を話すことを余儀なくされた。
夕暮れ時になってもなお、太陽の陽射しは強く、場所を移した千夏と岩切の二人を照らした。二人は、患者の精神的リハビリやメンタルヘルスを目的として設けられたリラクゼーションエリアにいた。大きなガラス窓の向こう側には、ちょっとした庭園があり、ひまわりがそよ風に頭を揺らしている。ひまわりの周りを、子供たちが元気に駆けていた。笑顔を浮かべ、室内に向かって手を振っている。その子供の母親らしき女性が、穏やかに微笑みながら手を振り返していた。
千夏はその光景から目を離し、目の前に座る痩せぎすの男に向けた。岩切は冷水を飲みながら、ぼうっと外を眺めている。岩切のまなざしは、哀しみの色を孕んでいた。自分には二度と手に入らないモノ。それをなにもできずにただ漠然と眺めているしかない、そのような鬱屈した雰囲気をかもしだしていた。
千夏の視線に気づいた岩切は「失礼」と短く詫びた。
「……どこから話しましょうかね」
千夏は、ほんとうにここで話はじめるつもりなのか、と訝しんだ。
「こんなところで、良いんですか?」
「構いません」
岩切は特に気にしている様子もない。精神衛生上疑問に思うが、自分の意見を主張して、岩切の気分を害すことを嫌った千夏は話に耳を傾けることにした。
「さて、ふた月ほど前のことです。夜中に市川から会いたいとの連絡がありました。その時に、今から話す自殺してしまった女性のことを聞いたんです。女性の名前は木下サチ。ちょうどあなたと同じくらいの年齢だったそうです」
「それは、お気の毒に……」
「実際に遺体を見た訳ではありませんが、かなり凄惨な状態だったようです。包丁で自分の腹部を切り開き、内臓を掻きだしていたとか。現場はその女性の部屋で、室内に内蔵が散乱していたみたいです。で、市川はなぜ彼女がそのようなことをしたのか疑問に思っていました」
「誰でも同じことを思うでしょうね……。結局、原因は分かったんですか?」
岩切はため息交じりに首を振る。千夏はその仕草にどこか芝居じみた雰囲気を感じた。
「いいえなにも。ただ、市川なりに仮説を立てていました。その仮説は、司法解剖の結果に起因しています。木下サチの胸骨、脊椎などから直径八ミリの穴が開いていたんです。その穴は骨髄にまで達していました」
「穴、ですか」
「はい。担当の執刀医は、報告書で自然発生したものではないと述べています。私も自然にできたものだとは思いません。なんらかの作為があって作られたものだと思っています。市川も同様に考えていました」
「その穴が、木下さんが遺した言葉と関係がある、と姉は考えていたんですね」
「おっしゃる通りです。木下サチは自殺する直前、母親に電話を入れています。『中に誰かいる。助けて』と」
「…………それのどこが支離滅裂なんですか?先ほど、現場は木下さんの自室だとおっしゃってましたよね?ストーカーか誰かが部屋にいて、その、やられる前に自殺してしまっただけなんじゃ…………」
「上辺だけ聞けばそう考えて当然でしょう。しかし、彼女の部屋は内臓が飛び散っていたこと以外、目立った痕跡はなかったそうです。彼女以外の誰かがいた形跡や、室内で争った形跡もないと言っていました。それなのに『中に誰かいる』と言っていた。どうです。おかしいでしょう?」
「まあ、そうなると確かに…………」
「市川は、彼女の発言および常軌を逸した行いと解剖の結果から、『誰か』がいたのは室内ではなくて彼女の体内ではないかと考えていました。また、『誰か』ではなく『なにか』がいたとね。人間が他人の体内に入ることは不可能ですから。そして、その『なにか』とは寄生虫なのでは、と」
「寄生虫、ですか」
「はい」
「でも、姉の仮説が正しかったとして、なぜ寄生虫はそんなところに穴を?…………それに、寄生虫だとすれば体内に残っていそうなんですがいなかったんですか?」
「理由は不明です。市川も調べていたんでしょうけど、あんな状態になってしまっては。体内で寄生虫が見つかった報告もされていません。検査には時間がかかりますが、ひと月余り経ってなんの音沙汰もないということは」
「見つからなかった」
「そうでしょうね」
岩切は背もたれに背中を預け、天井を仰ぎ見ていた。
千夏は岩切から聞いた話と、和彦や土井和子、そして和彦の友人だった武内美咲との事件に関連性はないか考えていた。武内美咲が自殺した状況と類似している点はある。しかし、直接的なつながりを見つけるには、情報がまだ不足しているようにも思えた。和彦と土井に関しても同様だった。土井はその後どうなっているのか判然としていない。和彦については、一度書斎に戻ってきているらしいが、その場で自殺してはいない。警察からも彼を見つけたとの連絡もないので、依然として行方が分からなくなっている状態だった。だが、千夏は和彦が死んでしまうのも時間の問題であるような気がしていた。もしくは既に……。
千夏は深呼吸をして最悪の考えをはねつけた。希望を捨ててはならない。闇は希望だ。明確になっていないからこそ、人はそこに可能性を見出す。まだ和彦が無名だった頃、彼が時折口にしていた言葉だった。千夏は彼と共に歩んできた人生で、この言葉の重みを実感していた。膝の上の握りこぶしに自然と力が入る。
「岩切さん」
「なんですか?」
「もしご存知でしたら教えていただきたいのですが、姉は木下さんのことを調べるにあたって、誰かに、岩切さん以外の誰かに協力してもらったりしていましたか?」
「そういえば、木下サチの母親に目撃情報を集めてもらっているみたいなことを言ってましたよ。確か、木下喜美江さんだったかな」
「その方の連絡先って」
「いやそこまでは知りませんね。……知ってどうするんです?」
「私が姉の代わりに調べようと思います。今回のこと」
「警察だった市川でさえ、手に余っていたのに、どうしてあながそこまで」
「…………恋人の失踪に、関係があるかもしれないからです。手がかりになりそうなことなら、なんでも調べてみるつもりです」
「……なるほど。さすがは姉妹、とでも言うんでしょうかね。そういうことでしたら、彼女の所持品を少し見せて貰いましょうか。一緒に来てください。妹のあなたがいればなにかと都合が良いですから」
「分かりました」
千夏は席を立ち、椅子を入れ直す。岩切は立ち上がって大きく伸びをしていた。
「綺麗だと思いませんか?あの庭園」
「ええ。確かに。陽の光も適度に入ってきて、開放感がありますね」
「そうでしょう。実はあのデザインを取り入れるよう意見したの、僕なんですよ」
「そうなんですね。素敵だと思います。でも、どうしてですか?」
「私、趣味で色々造ってましてね。自分を表現したかったのかもしれません。あとは、まあ子供を遊ばせておく場所が欲しかったものですから」
「お子さんがいらっしゃるんですか?」
「いいえ。いませんよ。……そろそろ行きましょうか。私も戻らないといけないし」
岩切は話題をやや強引に引き取って出入口に歩いて行った。
千夏は、なぜ岩切が突然庭園のことを話題に出したのだろうかと気になって、考えてみたが、釈然とする解答は得られないでいた。その代わりに、岩切悠二という人間に対する苦手意識だけが胸中で醸成されていった。
瞳の所持品は警察手帳や手錠、自宅の鍵など小物ばかりだった。彼女のプライベートに関する物品は病室に運ばれていたが、警察から支給された公的な身分を証明できる物は保管室に安置されていた。岩切は千夏を伴って、彼女を使い係の職員を説き伏せそれらの荷物を回収した。その手際は見事なものだったが、千夏が抱く岩切への評価を更に下げる要因にもなった。千夏の目には、相手を納得させようとする岩切の態度が、詐欺師にしか見えなかった。
「研究の続きがあるので私はこれで」
岩切は荷物を千夏に渡すと廊下を逆方向へ歩いて行った。
「色々とありがとうございました」
千夏は頭を下げて礼を言うが、返ってくる言葉はない。視線を元に戻した時には、岩切の姿は見えなくなっていた。
大きく息を吐いて胸を撫で下ろす。まるで肩の荷が降りたような感覚だった。千夏の体が弛緩していく。
岩切と二人でいる間、千夏は常に気を張っていた。そうでもしないと、岩切に取り込まれてしまいそうだった。学生時代からの、姉の友人だから悪い人ではないと千夏は思いたかった。姉の性格を考えると、悪い人間とは付き合わないだろうし、はじめは分からなくてもそう判明した時点で関係を切るはずだった。
「なんか、苦手だな」
千夏は瞳の眠る病室へ戻った。瞳は安らかに眠っている。綺麗な寝顔だった。
「お姉ちゃんごめんね」
一言断りを入れてから、警察手帳を開く。メモにしか使っていないからなのか、瞳の文字は走り書きばかりで読みにくい。分かりやすい「木下」などのような文字を探す。関係のなさそうな頁は飛ばしていく。頁をめくる度に瞳の文字が表れる。千夏は、姉の生きた足跡を垣間見ている気分だった。
「これかも」
木下サチの名前を見つけた。名前がカタカナで、名字の画数も少なく判読しやすい。
彼女の名前の下には、捜査に関する内容が書き込まれている。文字はミミズのように紙面を這っていた。次の頁に目を移した時、千夏は、ようやく目的の名前を見つけることができた。木下喜美江の名はすべて漢字だったため、目を凝らしながら読んでいく。木下喜美江に関することであろう記載も、一字一字なぞるように確認する。結果、なんとか彼女の住所と電話番号を解読することに成功した。メモアプリを開いて、情報を打ち込む。
瞳の様子をうかがうが、一向に起きる気配はなかった。
「またお見舞いにくるね」
そう言い残して、千夏は病室を出た。警察手帳などを職員に返却する。
病院を出ると、空は夕焼けに染まっており、日中に比べ気温も落ち着いていた。千夏はメモアプリに控えた電話番号を確認し、発信する。木下喜美江は出ない。コール音がもどかしかった。ため息を吐いて、スマートフォンを耳から離そうとした時、女性の声が聞こえてきた。
「もしもし……」
電話の向こう側にいる木下喜美江は不安がっていた。知らない番号から急に着信があれば、誰でもそうなるだろう。千夏は彼女の気持ちを汲み取り、なるべく明るめに話そうと努めた。
「こんばんは。突然すみません。私、M警察署捜査第一課に勤める市川瞳の妹の市川千夏と申します。こちらは、木下喜美江さんのお電話でお間違いないでしょうか」
瞳の名前を聞いた木下喜美江はいくらか安堵した様子だった。声に張りが出て、トーンも明るくなっていた。
「あぁ!市川さんの。はい、木下喜美江です。でも、どうして妹さんが?」
「実は……」
千夏は、瞳の身に起きた事の顛末を話して聞かせた。木下喜美江は時折うろたえては、瞳のことをいたく気にかけていた。その度に千夏は「大丈夫です」と答えていたが煩わしいとは思わなかった。むしろ、他人にここまで慕われている姉を思うと自然に胸が張る。
「そんなことがあって、とても他人事とは思えなくて、動けなくなった姉の代わりに私が調べようと思ったんです」
「まあそれは…………なんと申し上げればいいか…………お辛いでしょうね。心中お察しします」
「ありがとうございます。それで、可能でしたら木下さんと情報交換ができればと思いまして」
「もちろん大丈夫ですよ。こんな思いをするのは、私だけで充分だと思っていたのに…………なんでも協力させてください」
「ありがとうございます!」
誰もいない虚空に向かって、千夏は頭を下げる。
日が沈みかけているとはいえ、ジメジメとした熱気がまとわりついてきた。興奮も相まって、だんだんと汗ばんでいくのが分かる。千夏はハンカチを出して首筋を拭った。
「会うなら早い方がいいですよね。市川さん、この後のご予定はありますか?わたしは今からでも会えますよ」
一刻も早く木下喜美江に会いたかった千夏にとって願ってもないことだった。仮に予定があったとしても、そんなものは後回しにするだけだった。
「なにもありません!では、待ち合わせ場所を決めましょう」
千夏と木下喜美江は大手のファミレスの店内にいた。人の生き死にを話す場としては、まったくそぐわないが「賑やかな場所がいい」と木下喜美江から要望があり、彼女の願いを尊重した。店内は家族連れや若いカップル、学生グループで賑わっていた。楽しそうに食事している様子が、二人の目には眩しい。
席に着いた千夏は、目の前の淑女をそれとなく観察していた。痩せた身体は見ていて痛々しく、娘の死に蝕まれているように思えた。時折浮かべる笑顔は、疲労の色が濃い。姉も自分と同じように胸を痛めたに違いなかった。彼女を見ていると、なんとしてでも解決してやるという意志が湧き上がってくる。
「一応、なにか頼みましょうか」
「そうですね」
とりあえず二人ともアイスティーを注文した。千夏は空腹だったが、これから話される内容のことを思うと、食べ物は喉を通りそうになかった。注文から数分、千夏たちのテーブルにアイスティーが運ばれてきた。店員は怪訝な表情を浮かべていたが、特になにも言わず次のテーブルへと去って行った。
「木下さん、この度は、その」
「ありがとうございます。市川さんも、大変でしょう?お姉さんもあんなことになって」
「姉の方は、ああ見えて頑丈な人間ですから」
「まあそうなんですか」
木下喜美江は穏やかに微笑む。彼女の表情を見ていると千夏もつられて微笑んでしまう。
「それで、なにから話したらいいでしょうか?」
「そうですね。姉の方から、木下サチさんの目撃情報を集めるようにとお話があったそうですが、その後どうでしょうか。なにか有益な情報は集まりましたか?」
「いいえ。まったくです。友人に教わってSNSに投稿してみたんですがねぇ。インプレッション、っていうのかしら。そういうのはどんどん増えてるんですけれど」
「なるほど…………」
期待できそうにないな、と千夏は内心で落胆したが、それを態度に出すことはなかった。
「でも、ただ待つだけなのも嫌だったので、娘の交友関係をもう一度調べてみたんです。そしたら、一人素性がはっきりとしない人がいました」
「それはいったい……」
「はじめはその人のことはまったく分かりませんでした。ですが娘の遺品を整理している時、日記帳が出てきたんです。おかしいと思いました。と言うのも、娘の日記は瞳さんや他の警察の方々にも見てもらいましたから。でもその日記帳は瞳さんたちに見せた物とはまったく違うノートだったんです」
「つまりサチさんは、日記帳を二つ使っていたっていうことになりますね」
「そうです。私たちは、娘が用意した、誰に見せても良い日記帳を見ていたんです。実際、そっちには当たり障りのないことしか書かれていませんでした。でも新しく見つかった方には…………色々書かれていました。人間関係や仕事でうまくいっていないこと、生きるのが辛いということが繰り返し、繰り返し……。そして、自殺する数日前から、体が痒い、掻いても掻いても止まらない、みたいな内容が書かれていました。最後は書き殴ったような字で痒いとただ一言。それが自殺した日付のものでした…………」
千夏は木下サチが遺した日記のページを想像し、生唾を飲み込んだ。武内美咲が書きなぐっていたノートと木下サチの日記帳が自然と結びつく。千夏は暗澹たる気持ちに囚われた。
救われることなく、心を満たすことなく、自分で命を絶ってしまった同年代の女性。その二人に、和彦と土井が関わっているかもしれないと思うと、胸が締め付けられた。
「市川さん、大丈夫ですか?」
「すみません、平気です。ちょっと、なんとも言えない気持ちになって……どうぞ、お話しを続けてください」
「分かります。私も同じです。ええと、そう、新しく見つかった日記帳ですね。この日記帳には、その他に娘の友人の名前も書かれてありました。ほとんどが、学生時代からの付き合いだったり、会社の付き合いだったりしてすぐ分かったのですが、一人だけ名前以外分からない人がいたんです」
「その方の名前をうかがってもよろしいでしょうか?」
「大丈夫、だと思います。城石音葉という名前でした。変わった名前ですよね」
木下喜美江は紙ナプキンに名前を書いて、千夏に見せた。確かに、彼女が言うように変わった名前だった。おとは、というからには女性なのだろう。これまでに聞いたことがないか、記憶を探ってみたが、結果は徒労に終わった。
「この方がどうかしたんですか?」
「この城石さんは、娘と仲が良いそうで、結構前から交流があったみたいなんです。で、娘が彼女と知り合ったのはSNSでだったみたいです。この日記帳、娘のアカウントのログインアイディーや、パスワードも書かれていました。友人に聞いたら、裏アカじゃないかって。市川さん、裏アカというのはご存知?」
「ええ知ってます。メインのアカウントとは別の、少人数しか知らない閉じたアカウントですよね」
「そうですそうです。娘がそんなものを持っていたとは知らなくて、少し驚きました」
今時の若者なら、裏垢の一つや二つ持っていても珍しいことではない。千夏は、木下サチが裏垢を使っていたことに対して特に驚きはなかった。日記帳と裏垢、この二つを使って、木下サチはストレスを発散していたのだろうと勝手に推測する。
「ごめんなさい話が……。で、悪いなと思いながらも、娘の裏アカにログインしました。そしたら、ダイレクトメッセージでよくやり取りをしているアカウントがありました。アカウントの名前は『Otoha_4Roi4』で、なんと言いますか、アダルトなビデオの女優さんでした」
「AV女優のことですか?」
「ええ、まあ。その方も娘と同じく、色々悩んでいたみたいなんです。お互いにダイレクトメッセージで励まし合っていました。……お見せした方が早いですね」
木下喜美江はバッグからスマートフォンを出して、千夏に見せた。木下サチと城石音葉のやり取りが画面に表示されていた。彼女が言ったように、内容はお互いを励まし合っていたり、愚痴を言い合ったりしているものが大半だった。ほとんど毎日やり取りを交わしていたらしい。
「ここを見てください」
あるやり取りの箇所で指が止まる。そこでは、二人は実際に会ってみようと話し合っていた。オフ会の日程を決めていたのだとすぐに分かる。日付は五月二十七日から末日まで。木下サチが自殺する約ひと月前だった。千夏が興味を惹かれたのは、そのすぐ下で交わされているやり取りだった。
「木下さんと城石さんは会ったんでしょうね。なんか、やり取りがそれまでの物に比べて明るくなってますね」
「そうなんです。実際に会って、意気投合でもしたんでしょうね」
「……あれ。会ってからメッセージが再開されるまで、結構間が空いてますね」
千夏は画面の下に視線を移す。二人のやり取りが再開ことを表す、日付が見切れていた。残っている輪郭から、月が変わって六月になっていることが見て取れた。
「…………あら、ほんとう。でも、それがどうかしました?」
「いえ、これまで毎日やり取りしていたのに。どうしたのかなって」
「確かに言われてみるとそうですね。あ、もしかしたらこの間ずっと顔を合わせていたのかもしれません」
「と言うと?」
「見てください」
木下喜美江は画面を少しスクロールする。見切れていた日付が表れた。六月五日のことで、すぐ下には城石音葉からメッセージが送られていた。
「『長い間お疲れ様!楽しかったね!』って城石さんからメッセージがあります。この間、ずっと顔を合わせていたんだと思います」
「確かに。なんだか二人でどこかでかけてきたみたいな感じに見えますね」
「ええ。娘のメッセージもそんな感じです」
「これ以降のやり取りはどうなんですか?」
「……途中まではこれまでと変わらないメッセージを双方で送っていました」
「途中まではということは、どこかで変わったんですか?」
「はい。まあ、内容が変わったというより、やり取りがなくなってしまったんです。最後の日付は六月十日。実は娘の行方は六月の頭から分からなくなってました。私が警察に捜索願いを出したのは六月十五日のことでした。」
「なるほど。六月の初頭は、友達とどこかへ出かけていたんでしょうね。……すみません、最後のメッセージはどんな内容でしたか?」
「『音葉ちゃんに会いたい』と。これだけです」
「…………この音葉さんのアカウントを見せて貰っても良いですか?」
「もちろんです。……はい、どうぞ」
スマートフォンを受け取った千夏は、城石音葉の投稿やメディア欄を確認していった。
最後の投稿は六月九日で、特に不穏な内容ではない。そこから遡って見ていく。内容は裏垢ならではのもので、不平や不満、将来への不安などネガティブなものがほとんどだった。AV女優として活動しているが、あまり売れてはいないらしい。副業としてアルバイトもやっていた。
千夏は、彼女の投稿の多くにメッセージを送っているアカウントに目がついた。どれも彼女を励ますものばかりだった。熱心なファンなのだろう。千夏は彼の気持ちが少なからず理解できた。
城石音葉の更新頻度は多くなく、すべての投稿を見終わるのに十分もかからなかった。木下サチとは、表立ってやり取りはしていないらしかった。
至って普通の裏アカウント。これが千夏の感想だった。
「ありがとうございます。特に変なところは見受けられませんね。でも、最後に投稿したのが先々月の頭になっているのが気がかりです」
「私もそう思います。彼女、生きてるんでしょうか……」
千夏は、考えられる答えを口には出さなかった。木下喜美江も口を固く閉ざしていたが、その沈黙が言わんとしていることを如実に表していた。
冷え切ったアイスティーをストローで吸い上げる。冷えた液体が喉を潤して体中に広がっていく。その反面、ガラスのコップは徐々に重さを失っていく。千夏はこれまで得た情報を整理すると同時に、岩切から聞いた話を反芻していた。
脊椎や胸骨に開いた、骨髄まで届く直径8ミリの穴。一瞬、不愉快な思考が脳内を駆け巡る。千夏は反射的にその考えを拒絶する。首を振って、想像をかき消そうとしたが、一度生まれたイメージは簡単には消えてくれなかった。むしろ強く拒むのに比例して、どんどん膨らんでいく。骨髄とは、血液を造る場所ではなかったか。寄生虫が開けた穴、骨髄、血を造っている。木下サチと武内美咲、そして和彦それぞれが遺した「中に誰かいる」、「連れて行かれる」、「僕は行くよ。呼ばれてるんだ」という言葉。
「…………」
ストローから唇を離し、コップを遠ざけるようにテーブルの隅に置く。わずかに体が震えていた。全身に怖気が走り、肌が粟立っているのも分かる。
和彦さんと長くいたせいで、突飛もないことを考えてしまうんだわ。
千夏は自分にそう言い聞かせた。額から冷汗が噴き出し、雫が膝に落ちていく。テーブルの向こうで、木下喜美江が心配そうに千夏を見ていた。
「あの、大丈夫?」
「はい……。ちょっと、色々考えてしまって」
「市川さんも恋人がどこかに行ってしまってるんですものね…………その彼のこと、聞かせて貰えませんか?もしかしたら見ているかもしれないので……」
千夏は一呼吸入れて、和彦の特徴といなくなった時期を写真を交えて説明した。
「う~ん…………ごめんなさいね。見たことはないわ」
「いいんです」
千夏は、もともと、木下喜美江から和彦の情報を得られると思っていなかった。落胆はしない。
「私は、引き続き手がかりがないかどうか調べてみます。姉が回復してくれたら、一番良いんですけど、待っている余裕はあまりないと思うので」
「そうですね。私もそうします。またなにか分れば、ご連絡差し上げますね」
「ありがとうございます」
間もなく、二人は食事を注文することなくファミレスを出た。千夏は頭を下げて、木下喜美江を見送る。彼女の姿が見えなくなると、駆け足で駅に向かった。
午後八時、千夏は再び自室に戻ってきた。北欧デザインの椅子に腰かけ、今日は慌ただしい一日だったと振り返る。坂上と会ったのがつい先週のことのように思われた。千夏はハッとして、坂上から受け取った、武内美咲のノートを木下喜美江に見せていなかった。ポシェットを開け、ノートをテーブルの上に置く。
ひとまず確認して、関連があれば知らせよう。
ノートを見つめる。室内は物音ひとつしなかった。千夏には、ノートは触れてはいけないモノだと感じられる。変哲もないキャンバスノートが、今では禍々しく思える。
「和彦さんのために……」
千夏は意を決してページを開いた。昼間、カフェで見たのと同じ、小さな余白が点在している黒く塗りつぶされた紙面が顔を見せた。
読めない箇所はどんどん飛ばしていく。この作業は骨が折れた。紙面の大部分を塗りつぶしたようになっているページなら、心置きなく無視することができるが、少しでも判読可能な文字列があると、慎重に見ていかなければならない。
字の乱れは心の乱れと言ったのは誰だったか。武内美咲の文字は彼女の心情を表しているかのように、荒れ果てていた。瞳のメモ書きの方がまだ綺麗に思える。千夏は懸命に文字を解読していく。
読み始めてから一時間が経った。その頃になると、彼女の字の癖がある程度までは分かるようになり、作業の進み具合も良くなった。しかし、これといった手がかりや、情報は発見できていない。千夏は目頭を押さえ、立ち上がる。キッチンへ向かい、インスタントのコーヒーを作った。こうも進展がないと、どうしても苛立ってしまう。焦燥感を抑え、意識を集中させるためにもカフェインが必要だった。マグカップを片手に、ダイニングテーブルに腰を降ろす。コーヒーを一口飲み、千夏は作業を再開する。
それから更に数十分後、千夏は、新しく発見した文字列の解読を行っていた。文字列はひらがな、カタカナ、漢字で構成されているらしく、これまで見てきたパターンとはまったく異なっていた。カタカナの判読に苦戦を強いられるも、文字の構造がシンプルな分、漢字よりはすぐに読むことができた。
「…………ガイアの……子供たち……?」
和彦の残した言葉が脳内で反響する。心臓が脈打ち、胸がキリキリと痛む。冷汗がうなじから背中を伝って滴り落ちていった。
偶然だろうか。和彦と武内美咲は昔からの友人だった。坂上を含めた三人にだけ通じるなにかのメッセージかもしれない。しかし、どうしてそれをノートに記す必要があるのだろう。
千夏は早速Webで検索をかけた。ロバート・シェルドンの吹奏楽を筆頭に、検索結果が一覧で表示された。和彦は色々な音楽を聴いていたが、こっち方面の楽曲を聴いていたのを見たことはない。武内美咲は吹奏楽が好きだったのだろうか。坂上から聞いた彼女の印象とは、あまりそぐわない。
千夏は吹奏楽ではない、別のなにかを指しているのではないかと考えた。ガイアはギリシャ神話に登場する女神だから「ガイアの子供たち」というのは、ガイアを題材にした創作物だろうかとも考えた。
検索結果一覧を、上から順に見ていく。しかし、吹奏楽の他に、目立った創作物はヒットしない。名前に「ガイア」とつく会社や、イベントが出てくるばかりだった。ページを進めると、アニメ作品がひとつ出てきたが、それはページ内での作品の説明に「ガイア」と「子供」という言葉を使っているためヒットしたものだった。更にページを進めてみたが、有益な情報を得ることはできなかった。
千夏は一旦作業を止め、スマートフォンを操作し坂上にメッセージを送る。和彦と武内美咲が吹奏楽を好きだったかどうかを問うためだった。特に武内美咲が神話や伝説などのような分野に関心があったか、それらを元にしたアニメやゲームといったサブカルチャーに触れていたか、確認したかった。
返信を待っている間、千夏はシャワーを浴びた。おびただしい数の頭髪の隙間を縫って、染みこんで来るお湯が心地いい。頭皮をマッサージし、頭をすっきりさせる。「ガイアの子供たち」について調べる必要がある。夜は長い。
濡れたままの頭にタオルを巻いて、ダイニングに戻る。スマートフォンを見ると、坂上から返信があった。千夏の予想通り、和彦は吹奏楽に興味がない。武内美咲は吹奏楽と神話や伝説およびそれらを元とした創作物に、昔から興味がないとのことだった。
坂上に礼を述べて千夏はパソコンの画面に目を向ける。武内美咲は、どうしてこの文字をノートに書いたのか。既にあった疑問に、新しい疑問が加わる。和彦もそうだが、彼女はどこからこの文字を出してきたのか。ノートに書かれている文字で、これまで解読してきたものとは、明らかに異質だった。千夏は他にも似たような文字が書かれていないか、再びページをめくっていく。しかし「ガイアの子供たち」と同じ類のものは見つからなかった。
なにかの偶然……?
そう考えて一旦自分を納得させた。文字の意味に時間を取られてはいけない。昔、和彦が考えた小説のタイトルで、たまたまそれが記憶にあって書いただけかもしれない。こうしている間にも、和彦は死に近づいている。千夏はページを戻して、手がかりを探っていった。
作業を再開してから二時間余りが経過しようとしていた。進展らしい進展はなく、ただ時間だけが流れていく。千夏は失望を覚えていた。結局なにも見つけられず、恋人の行方も、生死すら分からないまま生きていくことになるのだろうか。和彦が生きていることに越したことはないし、千夏自身強くそう願っている。和彦がいない人生など、千夏には考えられなかった。そして、もし、死んでいるのだとしても、葬儀を上げて供養してあげたかった。お別れも言いたかった。彼の姿を見たかった。どちらにしろ、和彦を見つけないことには千夏の願いは叶わない。だが、和彦へたどり着く手がかりはことごとく絶たれているように思えた。
自然と涙が溢れてくる。未来への暗澹たる思いは、次第に自責の念へ変貌していく。
和彦さんの異変にもっと早く気づいてあげられていたら。医者に言われたように、落ち着くまで執筆を止めさせていたら。一度考え出すと、次から次へと自分の過ちが浮かび上がる。それは、ここ数か月に限らず、和彦と出会った頃にまで遡った。
「…………」
泣く、という行為は不思議なもので、どれだけ絶望的な状況にあっても、ある程度泣けば気持ちが落ち着く。涙と共に、脳の余分な情報も排出されるのか、思考が鮮明になって冷静に物事を判断できるようになる。千夏もその例に漏れなかった。
ひとしきり泣くと、失望によって創り出された闇が払拭され、胸に引っかかっていたものが再び姿を見せてくる。「ガイアの子供たち」という文字だった。武内美咲が偶然書いたのだろうと無理やり納得していたが、やはり違和感がある。
千夏は、これはいつ書かれたのか、と疑問を浮かべる。木下サチの日記帳と違い、武内美咲のはただのキャンバスノードであるので、日付は記載されていない。彼女がこの文字を書いたのは、彼女の態度が突然変わってから、自殺するまでの間であることは間違いない。千夏が知りたかったのは、日付だった。日記帳のように日付が入っていれば。
「…………日記帳!」
なんてバカなの、と千夏は心の中で軽く自分を罵った。不可解なノートに気を取られるあまり、木下サチの日記帳の存在を失念していた。
木下喜美江と交わしたやり取りで、千夏は日記帳に書かれている内容を把握していたつもりになっていた。だが、実物は見ていないのだ。彼女には意味不明だった情報が、千夏にとって和彦の行方を辿る糸口になる可能性もある。スマートフォンを取り出し、木下喜美江に電話をかける。
「もしもしこんばんは。市川さんどうしました?」
「こんばんは。夜分遅くにすみません。あの、さきほどファミレスで話していた木下サチさんの日記帳って、見せていただくことはできますか?」
「え、ええ。構いませんけれど、どうしましょうか」
「今話してるアプリの、トーク画面から写真とか送ることができますので、そこで見せていただきたいです」
「分かりました。それじゃあいったん切りますね」
数分後、木下喜美江から十数枚の写真が送られてきた。最初の一枚をタップして拡大表示する。日付は五月二十日と書かれていた。
『関係がありそうな期間のものを撮りました。もしまた必要であれば言ってください。追加で送ります。』
木下喜美江からのメッセージに返信する。
『ありがとうございます。ちなみに、日記帳の最後の書き込みはこの日ですか?』
『はい。そうなります。』
『分かりました。なにかあればすぐに連絡差し上げますね』
既読のアイコンが付く。千夏は送られてきた写真を一枚目から確認していく。
ファミレスで聞いていた通り、書かれている内容は、木下サチの内心をさらけ出した、赤裸々なものだった。日常で感じた、鬱屈とした思いが感情のままに書き記されている。所々個人の名前が出てきている。複数回記されている名前もあれば、一回しか出てこない名前もあった。千夏は会社の人のものだろう、と推測し画像をスライドしていく。
ほとんどの写真には、有益な情報は映っていなかったが、最後の一枚を映し出した時、千夏の目は見開かれた。千夏の目に留まったのはひとつの文字列だった。
「『メシアの子供』……?」
千夏は、ノートに書かれていた文字と関連すると直感した。再びWebで検索をかける。検索結果が表示されるが、数が圧倒的に少ない。上からひとつずつ開いて見てみる。
何件目かで開いたそのサイトは、宇宙に浮かぶ地球の写真をページの背景にしたデザインで、どこか古めかしく見えた。簡素な作りで、背景の他には記事のような体裁で書かれている文章しかない。
千夏は、おそらく千文字にも満たないであろう文章を読んでみた。内容は、人生に悩む若者を励ますため、といったものだった。
千夏には中身のない空虚な文章だと思えるが、それは自分が恵まれた環境にいるからそう思えるだけで、本当に苦しい思いをしながら生きている人にとっては、救いになるのかもしれないとも思った。そのことを強調しているのか、本文の最後には『あなたのお話を聞かせてください。共に生きることの幸せを見つけましょう』という文章と共に、メールアドレスのリンクが記載されていた。
千夏は自然な動作で、迷うことなく、カーソルをリンクに重ね、クリックした。