デジタル時計が午前五時の合図を発した。六畳間の狭い室内には、インスタント食品の食べ終わった容器や、炭酸飲料のペットボトル、洗濯が終わっていない脱ぎっぱなしの衣服が散乱していた。万年床で、ふくらみがなくなった布団から、間宮康太は這い出した。
室内を隠すように敷いている遮光カーテンの隙間から、早朝の柔らかな光が漏れていた。今から、この光に照らされた世界へ出て行かないといけないと思うと、憂鬱な気分に囚われる。
どうして自分だけが。
間宮は大きなため息を吐き、もう一度布団の中に潜り込もうとした。しかし、二度寝してしまうと次何時に目を覚ますか分からない。以前それでこっぴどく注意された。あんなことは二度とごめんだった。
顔を洗い歯を磨く。襟元が黄ばんでしまったしわだらけのワイシャツを着て、二階建ての古いアパートを出た。
最寄り駅まで歩いて来ると、間宮はいつも人の多さに驚かされる。この時間から、自分と同じように会社に出向き、あくせく働いている者が大勢いた。間宮は自分だけが苦しんでいるのではないと、気持ちを奮い立たせて電車に乗った。
いつもなら座れたはずの座席には、先客がいた。間宮は暗澹たる感情に襲われた。席が空くと素早く体を滑り込ませるように腰を降ろした。だが、本来降りるはずの駅は、既に過ぎてしまっていた。
約一時間、間宮は座ったまま人が乗り降りしていく光景をぼんやりと眺めていた。そうこうしていると、オフィス近くの降車駅のホームが再び迫っていた。間宮はふらついた足取りで立ち上がった。ドアが開いた時、流れ出る人の波にのまれる形で間宮はホームに降りた。階段を下りて、改札を通り、会社へ向かう。
ありふれた雑居ビルにたどり着き、エレベーターを呼び三階のボタンを押す。エレベーターから降りたすぐ目の前に事務所のドアがある。まだ誰も来ていない様子だった。鍵を開け中に入る。
自分のデスクへ向かい、電源ボタンを押してパソコンを立ち上げる。時間は午前七時過ぎだった。普段なら一時間近く前に出社して、仕事をしているのだが、この日は座席に座れなかったため予定が狂ってしまった。間宮ははやる気持ちを抱きながら仕事をはじめた。
「おい間宮」
急に声をかけられ間宮は肩を震わせた。肩越しに振り返ると、彼の上司である清水が立っている。間宮は思わず時計に視線を移した。午前九時前になっている。いつの間にか二時間近くも経過していた。間宮の画面は蒼白になり、口元が震え出した。冷汗が噴き出して、シャツの中を濡らしていく。
「なんでしょうか」
「例の件終わってるのか」
「それが、まだでして」
間宮の歯切れの悪い返答を受け、清水はデスクトップモニターを睨みつけた。
「なんだよ全然できてないじゃないか。この資料、朝一で必要なんだぞ。お前なにやってたんだ」
清水の言葉に間宮自身も同意した。せっかく早くから出社して作業をしていたというのに、資料は半分どころかはじめの一ページですら出来上がっていない。
自分は一体、ここでなにをしていたのだろう。これだけ時間をかけて考えていたはずなのに、なにかがおかしい。間宮の思考は自問自答に支配され、清水の言葉はすべて耳から耳へと通り抜けていった。
「で、作れるのか?」
「あ、え?」
「っ、だから作れるのかって聞いてるんだ」
「あ、あの」
「もういい。俺がやる。お前は他の事してろ」
そう吐き捨てるように言うと、清水は自分のデスクへ戻った。
間宮がほっと胸を撫で下ろしていると、方々から視線を感じた。目を向けると、何人もの社員が自分のことを見ていた。彼らの視線は、間宮に対する蔑みや呆れと言った悪感情を孕んでいた。仲の良かった後輩にすら、同じ視線を投げかけられている。
ここに間宮康太の居場所はなかった。
いつからああなってしまったのだろうと、何度考えても分からなかった。数年前は普通に働き、それなりの成果も出して、会社の一員として働いている自信があった。当時は上司でなかったが、清水との関係も、懇ろにしていた後輩との関係も悪くなかったはずだった。気がついた時には、間宮は、他の社員から邪険な扱いを受けていたのだった。
しかしいつまでも現状に甘んじている訳にはいかなかった。そのため、間宮は自分にできることをコツコツとしているつもりだった。毎日他の社員より何時間も早く出社しているのは、清水から「効率化できるように考えろ」と叱責を受けたからだった。これ以上、なにをどうすれば良いのか、間宮には分からない。
「…………」
間宮は答えの分からない問題について考えることをやめ、今日の仕事に取り掛かった。時刻は午後一時近くになっていた。
清水から頼まれていた資料は作成できなかったが、他の作業を終わらせることができた。間宮は資料のレビューを依頼するため、後輩の中島を呼んだ。
「…………はい」
中島は心底嫌そうな表情を浮かべ、間宮の傍まで寄ってきた。
「あの、メールで送りますけど……」
「…………じゃあ、最初からそうしてください」
間宮は中島の態度が不思議だった。なぜそんなに冷たくできるのだろう、と関係が良好だった過去のことを思い返す。そうする度、目に涙が浮かんできた。
資料を添付し、中島にメールを送る。間宮は仕事をやり終えた気持ちでいっぱいだった。気がつけば午後五時前になっている。帰り支度をはじめ「お疲れ様です」と言い定時に会社を出た。
後に残った者たちは、清水と中島に同情の声をかける。間宮が中島に宛てた資料は、表紙と、目次が中途半端に書かれているだけで、本文はなに一つ記載されていなかった。
間宮は自宅へ帰ると、いつものようにインスタントのラーメンを食べ、それだけで夕食を終えた。床に転がっている空になった容器を見て、間宮はゴミを出すことを忘れていたことに気がつく。自治体指定の黄色いゴミ袋を棚から出して、中に容器を放り込んでいく。ペットボトルの類は、ゴミ出し場のかごに入れる決まりとなっているため、レジ袋に詰め込んで一緒に持っていけるようにする。
それぞれ色が異なる袋を手に持って靴を履こうとした時、背後が気になって振り返った。床には、洗濯の終わっていない、脱ぎっぱなしになっている衣服が散らばっている。間宮は袋を脇に置いて、大き目のビニール袋を取り出し、散乱している衣服をすべてかき集めた。脱衣所を確認して洗濯かごにあった下着類も詰め込む。そのまま外へ出て、近場のコインランドリーへ向かった。大型の洗濯機に袋の中身を一緒くたに投げ入れて、百円玉を入れていく。入れ終わると洗濯が開始された。
約三十分後に洗濯が終わり、次いで乾燥機に放り込む。二十分乾燥させ、乾いていることを確認すると、再びビニール袋へ入れる。
間宮は部屋へ戻ってくると、洗濯の終わった衣類が入っているビニール袋を無造作に床に投げ捨て、パソコンを起動した。ブラウザを開き、ブックマークをしている匿名の投稿掲示板へアクセスする。勢いのあるスレッドを眺めて気になったタイトルをクリックする。
間宮が訪れたスレッドでは、あるテレビ番組に出演したアイドルの失言について活発な議論が行われていた。間宮はアイドルに対してなんの興味関心もなかったが、他人が炎上し叩かれている光景を見るのが好きだった。世の中には自分より酷いことを言われている人間がいることに安心感を覚えるからだった。また、どうして責められているのかを分析し、自分の身の振り方に活かす目的もあった。
はじめの書き込みから、一つ一つじっくり眺めていく。その間にも、スレッドの書き込みはどんどん更新されていき、有志のユーザが新しいスレッドを立てていた。一つ目のスレッドを読み終え、新しい方に移動する。間宮が移動してきた時点で書き込みは五百件を超えており、三つ目が立てられるのも時間の問題だった。
スレッドは三つ目まで立てられ、午後二十三時頃の書き込みを最後に更新されなくなっていた。間宮は読み終えた満足感と達成感を覚えながら、別のタブを開いた。
新たに開いたタブに画面を切り替え、ブックマークからお気に入りのアダルトサイトを開いていく。間宮の好きなAV女優と、彼の性癖にあった動画が新しくアップロードされていないか確認する。毎日のように巡回しているので、目新しい変化はまるでなかったが、アダルトサイトの巡回は間宮の日課でもあるため、やめることはできなかった。
結局、巡回している五つのサイトで、動画の更新があったのは二つだけだった。間宮は更新された二つの動画を吟味した。一方はAV女優が出演している作品で、もう一方は性癖に合っているものだった。間宮は一時間近く悩んだ結果、後者を選択し自分を慰めた。
時計は午前二時過ぎを指している。間宮は歯磨きを済ませると、ふくらみを感じられない寝床に潜り込んだ。約三時間後には再び目を覚まして、出社しなければならない。
昨日と同じように目を覚ました間宮は、六時過ぎに会社へ出向き仕事を開始した。中島にレビュー依頼をした資料が返ってきてないか確認するも、まだ済んでいないようだったので、別の作業に取り掛かる。急ぎの作業ではないので、のんびりやることにした。
定時近くになると、続々と社員が入室してくる。その中に中島の姿を認めた間宮は、声をかけ昨日の資料がどうなっているのか聞いた。
「資料の方、どうでしたか」
「あぁ。うん。特に、問題はありませんでした」
「良かったです。それでは後続の作業をお願いします。……ところで、中島さん」
「なんですか?」
「また、昔みたいに飲みに行きませんか?ほら、僕たちが仲良かった頃みたいに」
中島が怪訝な表情を浮かべていた。間宮を見る視線は、異常者に向けられるのと同じ類のものだった。
「ちょっと待ってくださいよ。私と間宮さんが、仲良く?」
「そうですよ。ほら、中島君が入社してきた頃」
「人違いじゃありませんか?」
「そんなことないよ。あの時は清水さんだってさ」
「他の社員さんが間宮さんと仲良くしているところ見たことありませんが……」
中島の声のトーンから、間宮は彼が冗談を言っているのではないと察することができた。しかし、それではおかしいことが山ほどあった。それでは、自分が仲良くしていたと思っていたあの時間は夢か、もしくは虚構とでも言うのだろうか。
「そんな、そんなことないよ。確かに僕たちは」
言い淀んだ時、中島はため息を吐いた。それから小さく「ああ、そういうことか」と呟いた。その態度を見て、間宮は、自分は間違っていなかったと思った。
「ほらね、やっぱりそうじゃないか」
笑みを浮かべて、中島の肩に手を置こうとしたが、中島は体を逸らせて間宮の手をかわした。
「冗談じゃありませんよ。この際はっきり言いますけど、あれは仲良くしてたんじゃありません。間宮さんが…………特殊な人だと伺っていたので、波風が立たないように接していただけです。清水さんもそうです。でも、まさかここまでとは思ってませんでした」
間宮は中島の言葉が理解できないでいた。脳が聴覚から送られてきた信号を拒絶している。
「な、なにを言うんだ中島君。それに、僕を特殊だなんて……気が触れているとでも言うのかい?さすがに酷くないか」
「いいえ。そうは思いません。仕事が遅かったり、ミスがあるのは仕方がないと思います。誰にでも、得意不得意はありますし、人間はミスをするものだと教わってきましたから。でも、間宮さんはできないのに相談もせず、無駄に時間を過ごした挙句、最終的に清水さんや僕や、他の方々に仕事を押し付けるだけなんですよ。それなのに自分は『仕事しました!』みたいな顔で定時に帰って。なんなんですか、あなた」
間宮の体は、震えが止まらなくなっていた。こめかみが脈打ち、口の中が急速に乾燥していく。毛穴という毛穴から、汗が噴き出しているような感覚もあった。下着がぐっしょりと濡れていき、両脇はシャツにはっきりとした染みを作っているほどだった。
「それは、い、言いがかりだ。現に僕は毎日だれよりも早く来て」
「来てるだけでなにもできてないじゃないですか」
間宮にとって、中島のその言葉は認めたくないものだった。誰よりも早く出社して、仕事をしているのにも関わらず、まったく進んでいない。昨日の件については、自分でも驚いたほどだった。
だとしたら、と間宮の思考は歪んだ形で進んでいく。だとしたら、教えてくれたらいいではないか。自分のことをそういう人間だと知っているのであれば、面倒を見てくれたらいいではないか。
決して自分は悪くない。悪いのは自分を管理できていない会社の人間だ。
わがままな子供のような思考回路が、血のように体全体に流れたのか、間宮の言動もそれに近づいていく。責任を他者に求めて、あるがままの自分を受け入れろとでも言わんばかりに、中島に向かって指を突きつけた。
「だ、だったら、助けてくれたっていいじゃないか。僕だって頑張ってるんだ。成果が出せないのはあなたたちのせいだ」
間宮と中島に、他の社員の視線が集中していた。間宮は突き出した指を中島にだけではなく、背後にいる者たちへ向ける。しかし、間宮に同調する者はいない。彼らの視線は昨日と同じで寒々としたものだった。
「間宮さん、僕たちはなんども教えました。必要なものは、手順書も作って、その見方や、困った時の解決策も書いた。でも間宮さんはそれを見て作業したことがありますか?分からないことは、分からないと、一度でも自分から聞きにきたことはありますか?…………私が覚えてるかぎり、そんなことはなかったです。間宮さん、私たち…………もう疲れたんです。ここは小学校じゃありません。会社なんですよ。…………一度、病院で見てもらった方がいいです。間宮さんのためにも。会社のためにも」
間宮には返す言葉もなかった。肩を落としデスクに戻り項垂れることしかできなかった。
その日、間宮の両手はデスクの上に現れることはなかった。
間宮は一年間の休職扱いとなった。いっそのことクビにしてくれた方が、間宮としては幾分か気が楽だったが、彼にも他にできることはあるかもしれないと経営陣が判断した。
仕事から開放されることで、気持ちが楽になると思っていた間宮だったが、喪失感と社会から隔絶された疎外感が日に日に高まるばかりだった。社会的な立場を実質失ってからは、ただ息を吸って吐くだけの生活だった。
「会社が必要だったんだ」
間宮はそう独語した。毎日の仕事は、生活にメリハリを与えてくれていたのだと痛感する。
パソコンを起動して匿名掲示板を覗くが、以前ほどのめり込んではいなかった。貴重に見えていた書き込みも、次から次へともたらされる膨大な情報も、すべてがくだらないことのように思えた。
インターネットは自分を救ってくれなかった、と間宮は感じていた。しかし、ネットサーフィン以外の趣味を持たない間宮は、くだらないと思いつつも、手癖で電子の海を廻っていく。ルーティンは変わらない。匿名掲示板を見て、アダルトサイトの巡回に移るが、以前ほど集中できなかった。画面の向こうで繰り広げられる肉欲のぶつかりに嫌悪感すら覚えていた。ふと性欲が沸き起こる時もあったが、自慰すら億劫になっていた。
日が経つにつれて一日一日の境目があいまいになっていく。今日が何曜日なのか、平日なのか、休日なのかも分からなくなる。淀んだ時間の流れの中で、間宮は水面に浮かぶ藻屑のように揺蕩っていた。漠然とした念を抱きながら、命を浪費していた。
休職前、手続きを進めている段階で、病院で検査を受けるように、と業務命令に近い形で通達があったが、ふた月経った今でも間宮は病院に足を運んでいなかった。およそすべての物事に関心がなくなっていた。それは自分自身についても同様だった。
このままひっそりと死ぬことができればどれだけ楽だろうか。
七月から八月へと月が変わる。休職してから三か月が経っていた。その日も、間宮は電源ボタンを押して、パソコンを起動する。ブラウザを開くと、検索エンジンの画面が表示された。
「自殺……簡単……苦しくない」
間宮は呟きながら口にした文字を入力欄に打ち込んだ。エンターキーを押して検索を開始させる。瞬く間に画面が切り替わり、ワードにヒットしたウェブページが一覧として出てくる。検索のトップには自殺を止めるように呼びかけている文言と、相談できる電話番号とが併せて表示されていた。間宮は画面をスクロールし、どんどんページを掘り下げていく。
いったいなんの意味があるのだろう。
間宮はマウスを操りポインタをバツ印に合わせてクリックしようとした。その時、ふと見慣れた文字列が目に飛び込んできた。
「白石琴音……?」
それは間宮が贔屓にしていたアダルト女優の名前だった。
「そういえば最近見てないな」
白石琴音自体はマイナーな女優で、情報化社会においては珍しい知る人ぞ知るという存在だった。彼女はSNSで『城石音葉』という名前の裏アカウントを持っていた。アカウントをフォローしているが、もう長い間更新されていない。間宮は、彼女は引退したものだと思っていた。
「…………」
間宮は急に白石琴音のことが気になりだした。昔からずっと応援してきた女優だった。アダルトサイトでは毎日彼女の動画が上がっていないか探したし、人生ではじめて買ったアダルトビデオも彼女が出演していたものだった。他の女優に比べて思い入れは強い。SNSではなんども交流した。短いながらも、彼女は返信をくれていた。
ポインタは地を這うミミズのように、ウェブページのリンクに近づいて行った。間宮はリンクをクリックし、画面が切り替わる。
遷移先のページは白石琴音の個人ブログと思しきものだった。名前検索したらすぐに見つかりそうなブログだった。なぜ自分は今まで知らなかったのだろうかと疑問がよぎるが、そのことは後回しにして、間宮は彼女が綴った文章を読みはじめた。
読み終わった間宮は、白石琴音の人生に触れることができたと恍惚とした気分だった。彼女の苦悶、苦痛、不安、不満がそこには余すことなく記されているように思えた。内容のほとんどはSNSで投稿していたものと同じだったが、こちらはより具体的で詳細に記されている。しかし、彼女は最後の最後で人生を好転できた様子だった。ブログに投稿された最新の記事は、これまでのネガティブな内容と異なり、ポジティブで前向きな言葉が多く並んでいた。
間宮は白石琴音と話をしたかった。自分の苦しみを知ってもらい、彼女のように前向きになりたかった。SNSを開きアカウントの投稿が更新されていないか確認するも、六月九日の投稿が依然として最新のものだった。
どうすれば彼女と話せる?
自問していた間宮は再び彼女のブログを開いていた。そして彼女が書いた記事の最後に、リンクが挿入されているのに気づいた。
「なんだろう」
そう呟きながら間宮はリンクをクリックする。
画面が切り替わり、宇宙にぽつんと浮かぶ青い地球を背景にした古いデザインのサイトが表示された。
「『メシアの子供』?」
間宮は怪訝な表情を浮かべてサイトの隅々まで目を凝らしていた。