■発芽とレベルアップは下積みの結果
その立場になってみて初めて解ることがあるなら、この場合、白雪姫を救うのは王子様で、だから王子様を救うのもお姫様でなければということだった。
いきなりキスする無謀は何かに裏打ちされた自信がなければできるもんじゃない。
富や権力は勿論、腕力も美貌もない20代の一会社員にそんな思い切りは持てなかった。
透き通るような白い肌にサラサラの金色がかったベージュの髪。伏せられた同色のまつげは私よりずっと長くて、純日本人の平凡顔の自分と比べるのも恥ずかしい。
それを昨日会ったばかりの私に、キスして――彼の生き死にを決めろだなんて、無謀以外の何物でもない。
それなのに、
「ささどうぞ、一気に口づけを」
地元名物を勧めるようなノリで、王子様の自称保護者が圧をかけてくるものだから、私は唇をかんだ。
薄ベージュの作業着に後退しつつあるボサボサの髪で決断を迫る男は突然「彼が目覚めるには口づけが必要」とかなんとか荒唐無稽なことを言った。
まるで彼が初めて現れた時みたいに。
***
もし天啓などというものが存在するのなら、それは私、佐々
頭の右上の方で、ゲームで経験値がたまった時のような軽やかな音が鳴ったのだ。聞いたのは私だけだったから単なる聞き間違いだったのかもしれない。
しかしこの時実際に呪文を唱えてしまっていて、効果が表れたのは現実の話だった。
「ニンニクアブラナシヤサイモヤシマシマシ!」
呪文とは、ラーメン屋やお洒落なカフェなんかで使われる言葉、大抵はメニューのカスタム注文が門外漢には呪文に聞こえるという比喩である。
あくまで、比喩である。この魔法が現実に存在する日本という国においても。
魔法と同じくある程度体系化はされているが、この場合、ラーメン店の店員と客の間で交わされる
ところでコールには召喚という意味もあったりするらしい。
私は魔法など使えない一般人でこの時そんなことは知らなかったのだが、とにかく私はソレを召喚してしまったのだった。
違和感に気が付いたのは呪文を唱えて一分ほどしてからのことだ。
何しろ、カウンターの向こうで店主の三宅さんが湯切りを済ませたちぢれたまご麺と豆腐を丼に入れて、野菜を盛り付ける様子をじっと見ていたから。
丼がカウンターに置かれた時、伸ばした私の手を、横から掴んだ人物がいた。
白くほっそりとした手はきめ細かで水仕事などしたことのないような、少し節のある男性の手だった。王子様もかくやという程だが、さてそうであったとしても不審人物を兼ねることはできる。
「こ、この味噌ラーメンは私のですが」
握って離さないその手を、白い服に包まれた細い腕と白い首筋を視線で追ってかろうじて視界の端に顔を映す。
できれば目も合わせずに、あくまでラーメンの取り違いということにしたかったのだが、それを彼は許してくれなかった。
まさに外国の王子様といった容姿の彼は目を潤ませて、こう言った。
「はじめまして助けてください、わが主」
私は三回ゆっくり瞬きした後、現実逃避しようとして失敗した。
何せだんだん握力が現実を主張してくるのだ。
綺麗な顔の横では、天井付近の備え付けテレビが政府のコマーシャルを映していて、有名な魔法使いタレントが「適職探しなら役所の魔法課か、お近くの魔法職業安定所へ! あなたの適性を生かしましょう!」とやけに明るい声で笑顔を振りまいていた。
***
「……佐々木さん、お連れさま?」
テーブルを拭いて回っていた店主の三宅さんの奥さんが、不審者なのかと言葉をかけてくれる。
「い、いえ」
現実逃避は結局できなかった。
とりあえず麺が伸びるので、と甘い味噌ラーメンを食べきってから――ワンチャン消えていてくれないかなぁと隣の椅子を見たが、彼は相変わらずそこにいた。
「なら今が初めてか。しかし佐々木さんが召喚魔法を使うなんてなぁ」
昼休みの客が他にいなくなったのを見計らって、三宅さんの旦那さんが手を止めてくれる。
血糖値高め仲間の彼は、健康的なラーメン及びサイドメニューを用意してくれる、知る人ぞ知る料理人である。
「魔法なんでしょうか」
「間違いないな。俺は15かそこらで召喚魔法に目覚めて、それでラーメン屋はじめたから」
50歳程に見える三宅さんは大きな手を布巾で拭いながら頷いた。年季が入った魔法使いが言うなら間違いないのだろう。
そもそもこの世界の魔法というのは、地水火風の四元素を操るものから召喚魔法までバラエティに富んでいるが、魔法が使えるのは一部の人間。
そして適性があるのは一種類で、更にたったひとつの魔法であることが殆どだ。
それでも有用だと政府は魔法を生かした職業に就くようにと減税に就職斡旋、勧誘――まあ強制とは言わずともそんな大推奨な雰囲気を醸し出していた。
目覚めるのも十代のうちが多いため、学生のうちに進路を考えるのが教育のスタンダード。
一方で公共の場で使うには免許制でもあり、魔法コントロールやマナーを覚えるための車の教習所のような学校を運営していたりもする。
しかし私は魔法とは無縁で育ってきた。
小中高校と公立を卒業し、まあまあ名の知られた私立文系大学をそこそこの成績で卒業。
その後は中小企業に就職し、朝から晩までパソコンの前で座り仕事をしている。職場でも魔法使いは見たことがないし、三宅さんが使えるというのも初耳である。
「……注文のカスタムって呪文に入るんでしょうか?」
「入らないとは言い切れないなぁ」
三宅さんはちょっと困ったような顔になる。
そして熊のような体格の三宅さんとの間に、白魚のような男性が視界に割り込んできた。
「あれだけカスタムされていたということは、もやしと豆腐はお好きですね?」
「ええと、それは必要に迫られてですね」
私は疲れるとなぜか無性にラーメンが食べたくなる。
そしてここは会社の側、裏道にあるちょっと穴場の、カスタム対応が神な健康志向の店なのだ。
以前健康診断の結果が芳しくなかった時から通って何年かになる。
食べるのは金曜日の昼間と決めていて、麺三分の一にして残りは豆腐カスタム、もやしとキャベツたっぷり乗せにして罪悪感を減らしていた。
「それで精霊というのは? どういう存在なんでしょう?」
「俺はたまたま似たような能力だからわかるんだが……」
三宅さんがフォローしてくれた。とても助かる。
同じように助かるのか、目の前の美形も頼りにならない主とやらよりも、三宅さんを尊敬のまなざしで見つめた。
「そいつはしゃべれるし人間型も取れる、上位の精霊だな」
「ご紹介いただき光栄です。僕はソーヤ・マックス・ビーン・スプラウト。もやしの精霊です」
今同類を食べたばっかりなのに、それはいいのか。
白魚――改めもやしの精霊の王子様、ソーヤは、人には非ざる金色の、もやしのひげ色の瞳で私を見つめてきたのだった。
■もやしと記憶の消費期限
その日の午後は大忙しだった。
もやしの精霊の自己紹介を聞いたのはお昼休憩終了10分前で、私は三宅さんの好意で彼を店に待たせてもらい、職場で仕事を無理やり終わらせ早退。店まで走る。
昼営業が終わって準備中の店内に入れてもらえば、彼は奥さんに「精霊さんがいるとやっぱり助かるわねえ」と褒められていた。
「おかえりなさい、わが主」
彼は厨房で働いていた。袋からざるにあけられたもやしが、見る間にしゃっきりしていくのを見ると、ああ本当に彼は人間ではないのだなと腑に落ちる。
「最近送られてくるもやしが萎れてて困ってたから、助かるわ」
「もしお望みでしたら、ご希望のもやしを生み出しますよ。大豆が一番得意ですが、緑豆、黒豆、小豆……」
手のひらを上に向けると、ぽぽぽんと色とりどりの豆粒が生み出されては消えていく。まるで魔法……いや、精霊の力そのものか。
しかし二人が仲良く話している様子にほっとしたのと同時に、暢気だなと呆れる気持ちも出てくる。
さっきは助けてくださいって言ってなかったっけ?
しかも魔法を使えるようになったこと自体、私には全く嬉しくない出来事だというのに。
「ソーヤ君、ここはいいから佐々木さんと話してらっしゃい」
「ではまた後程、奥様」
彼は丁寧に礼をすると歩み寄ってくる。
数歩挟んだ距離で、私は慌ただしい出会いから改めて挨拶しようと背筋を伸ばした。
「ご挨拶が遅れました、佐々木柚子と申します。日本の事情にはお詳しいですか?」
「魔法使いまわりについては」
「では申し上げますと、まず私は魔法とは無縁でしたので、大変驚いています」
小学校入学時に全員受ける魔力適性検査では、ほぼないという評価が出ていたはずだ。
「また魔法に目覚めた人間は、速やかに魔法使い登録をする義務があり、適性に合った職業を勧められるそうです。ですが私、今になって転職は正直困ります」
もやしが生かせる仕事……ぱっと思いつくのはもやし工場しかない。もし大豆なら色々就職先もあるとは思うのだが。
しかし就活してやっと得た職場はそれなりに平穏だったのに、急に天職を勝手に決められて転職させられるのは、もやしでなくても嫌だ。
きっと引っ越しにもなるだろう。
「ですので、こんな私が召喚できた原因はそちらにある可能性を考えました。
先ほど助けてくださいと仰ってましたよね。自ら助けを求めるほどの何かがあったのでは?
ご事情があるならこれも縁ですのでお手伝いします。用事が済み次第可及的速やかにお帰りいただけば、おそらくもうほぼ無能力、転職は避けられると思うのです」
偶然なら、今回を最後に帰ってもらえばいい話。後はむやみに喚び出さないようにすれば済む話。
役所には全力で無能アピールして逃げ切りたい。
「それがですね、困ったことに……」
彼は首をかしげると、ワンピース風のだぼっとした服のポケットから一枚のメモを取り出し、広げて見せた。そこには……いや、読めない。見たことのない文字だ。
「手がかりはこれだけです。確かに僕の字で『もやしを 助けて』と書いてあるのですが、記憶がないのです」
「……記憶が?」
「もやしの精霊というのは豆の下位精霊で、かつ人工の精霊に近いのです。植物は育つのが普通で、もやしとは芽を出して成長する子供の
確かにもやしは腐りやすい。
こう考えるとセミ――最近は地上でも一週間以上生きるとか言われているんだっけ?――のようだとも思う。
「そして、そこでもやし
「何を助けてほしいか忘れてしまった?」
「焦燥感だけはあって、工場で何かあったのかも。といっても燃料の高騰と値上がり、経営が苦しかったことくらいしか覚えてなくて」
実際、もやしは安いからと嵩増しや付け合わせに使われることが多いが、メイン料理を張ることはほぼない。主食になるジャガイモにサツマイモや食卓常連の人参玉ねぎとは違う。……味噌ラーメンには必要だけど。
「工場を助けたかったんでしょうか?」
私の言葉にソーヤ・マックス――精霊の名前の法則は知らないが、ソーヤは考え込むようなそぶりをした。
そんな時、突然店の電話が鳴った。
三宅さんの奥さんがすかさず受話器を手に取り、耳に当てる。
「はい、ラーメン
奥さんはちらりと私に目くばせをしつつ、電話の保留ボタンを押した。
「ここに外国人風の若い男が来てないかって」
ソーヤに目をやると、白い顔が蒼白になっていた。もやしとしても不健康だ。
私が首を振れば奥さんは再び電話を通話状態に戻して、お客様が多かったので覚えていません、と返して電話を置いた。
「名乗りもしないで、なんだかひどく焦っていたみたいだったわ」
「……工場の人かもしれない」
声がひどく震えていた。
……私は腹をくくった。
助ける程の力もないし面倒ごとには巻き込まれたくないが、これは事情で家を飛び出した迷い犬を一時保護するようなものだろう。
「追われているんですか?」
「分からないけど……怖い。多分、逃げてきたんだ。今まで工場の外に出るのを許されたことはないから」
「居場所ってすぐわかるもの?」
答えたのはソーヤでなく、厨房で仕込みをしていた三宅さんだった。
「召喚魔法使いは精霊の力を感じることができる。いつも一緒だったら猶更だろうな」
それなら召喚したばっかりの私には分が悪い。事情の輪郭だけでも……情報が、時間が欲しい。
「そいつは気にせずここにおいて置け。注文しただけで現れたんだ、助ける理由がある。うちに来たもやしだ」
……うちに来たもやし。
「どこのもやしかわかりますか?」
「栃木県の
私は急いでスマホを取り出して、会社名を検索エンジンに打ち込んだ。
何回かスマホの画面をタップすると幸い、手作り感のあるページが表示された。ほぼトップ画面だけの簡素なもので、所在地や取引先、工場の外観など何枚かの写真が掲載されている。
「見せていい? ……ここ?」
確認を取ってからソーヤに見せると、彼はぱっと顔を上げて頷いた。
相変わらず顔色は悪いが、反応があったことに安堵する。
ページから得られる情報を総合するに、地元で地道にやってきた半家族経営の工場という感じで、特段変わったところはない。
「工場の人ならここの電話番号を知るのって難しくないかも。住所もすぐに分かるだろうし、やっぱり一度離れて――」
私が言いかけた時、突然店の扉が軽く叩かれて私の肩が跳ねた。
店内は見通しが良いように通りに面した壁の上半分と扉がガラス張りになっている。ただ開店準備中のおかげですだれを全部下げているから丸見えではない。
ソーヤに急いで隠れるように促す間もなく、彼の姿はかき消えていた。と同時に、ポケットの中に違和感を感じて指先で触れる。
「まだ準備中ですよ」
三宅さんは私に安心させるように頷くと、率先して扉のすだれを上げて軽く開く。
それが一秒も経たないうちに、よれたスーツを着た年配の男性が滑り込んできた。
「すみません、ここに外国人風の若い男が来てませんか!?」
薄い髪を急いで撫でつけたような格好に、ちょっとまがったネクタイは急いで準備してきたのだろうと思わせる。
男性は息を切らしながら店内を見回すと、私の顔の上で視線を止めた。
……私、店員には見えそうにない。
「さっきまで試食をお願いしてた常連さんです」
奥さんがすかさずフォローしてくれる。が、
「ふうん」
さりげない一言だったが、ざらりとしたものが私の胸の底を撫でた。
とはいえ男性は私の反応など気にするはずもなく、笑顔を作って名刺を旦那さんに差し出した。
「準備中失礼しました。実はわたし白日下食品の営業でして、今後もやしの納入が遅れる件について……」
「そのためにわざわざ?」
訝し気な三宅さん。確かにまず電話で一報入れる話で、人探ししてる場合ではない。……勿論、その人がもやしの精霊であれば話は別なのだろうが。
ともあれ三宅さんに目くばせをされて、私はこれ幸いと、
「失礼します」
横をすり抜けて扉から出ると、店を足早に離れる。
ポケットに手を突っ込むと、覚えのない紙片の感触とコロコロした豆とそこから生えているもやしの弾力が指先に触れた。
念のため電車で迂回しつつアパートに帰り着いた私は、そこでようやく紙片ともやしを引っ張り出した。
紙は例のメモで、もうひとつはしなしなになった一本の大豆もやしだった。
「とりあえず、水?」
スプラウトの種まきなら経験がある。同じ要領で小皿に水を張って調理台に置くと、ぐんぐん水を吸ったもやしがピンと張りを取り戻し、そして、ちょこん。と、上にぼんやりと小さな精霊が――小さなソーヤが現れた。体を丸めて眠っているが、顔色はとてもいいとは言えない。
水をピッチャーから追加していくと、一粒の豆と根とは思えないほどの量の水を吸ったソーヤはその恰好のまま大きくなり、私は急いでたいして広くもないリビングのど真ん中に小皿を移動させた。
彼は出会ったときと同じ大きさ――大よそ180センチほどのサイズになったところで成長を止めると、目を開いた。
「気が付いた?」
彼は長いまつげを何度か瞬いた後、真顔で私を見ていった。
「はじめまして、助けてくださいわが主」
■もやしと、もやしのもやしかた
私はソーヤに水道とコップの使い方を教えると、ラーメン菜豆に電話をかけて三宅さんからことの顛末を聞いた。
男性はもやし工場が自然災害で稼働がストップしていると伝え、工場から迷子になった外国出身の作業員を探していると話していたそうだ。
精霊って迷子になるのかという問いに三宅さんは、可能性は低いと教えてくれた。
そしておそらく彼がソーヤを召喚した魔法使いだとも。
私は今までの経緯を話し、全く覚えていないのかと尋ねた。
ソーヤはフローリングに蹲ると、この前と反対側のポケットからシンプルなボールペンを取り出した。私があのメモを出して側に適当に字を書くと、インクの色と太さが一致した。
「出荷されるまではほぼ暗室にいるので、ボールペンも紙も作業員の人からくすねたんだと思います」
「普段は何をしてました?」
「早く強く成長するように力を送るのが仕事でした。唯一会話できる魔法使いの人が、それがみんなの幸せのためだって」
ソーヤは俯く。前髪がかかり表情は見えないが、声が割れたように響いた。
「たとえ何か楽しいことがあっても、覚えていることなんてできないんですけどね。……また、記憶が消えたんですね」
「それでも、もやしを助けようと、メモを取って覚えていようとしたんですよ。今度は大丈夫です、私が覚えてますから」
人間の私には気休めの励まししか言えないが、手助けくらいはできるかもしれない。急いで有給休暇の申請をして、荷造りを始める。
***
翌日早朝、ソーヤを連れて新幹線で栃木へ発った。
電車を乗り継ぎ、一日に三本しかないバスを諦めてタクシーに乗り――帰りの足として待ってもらう。
広い駐車場に囲まれた、大きな一軒家くらいの大きさの工場。外壁の一部が鮮やかな青で覆われているのが見えた。
「先日の突風で何かが飛んで来て、外壁が崩れたっていう……」
タクシーの運転手さんが世間話で教えてくれた。
誰かしら出勤はしているだろうけど、有利に交渉できるだろうか。工場唯一の魔法使いが東京にいるのなら、一番ソーヤに近いのは私ということになる。
「あそこから外に逃げたんでしょうか」
「……多分そうでしょう。ああ……そうだ、光。やっと屋外に出られた」
ソーヤは青空を仰いで両手を広げた。
水温も室温も管理された屋内で育てられているもやしには、それは貴重な経験の筈で――、
「あれ? 管理されてないともやしって育たないんですよね?」
「もやしとしては」
答えるソーヤは気分が悪そうに口をふさぐ。実は前日持ち直したものの、今朝からまた少しずつ生気が失われているようだった。
ざわざわと胸の奥が鳴り、急かされるようにビニールシートの方へ走る。昨日の今日で強い風が吹いており、シートが目の前でぶわっとめくれ上がった。フラフープ大の穴が開いた薄い外壁の向こうに、四角い金属の桶が大量に並んでいるのが見えた。
シートの中に入ると、乳白色のもやしの中にちらちらと緑が見えて、少し酸っぱいにおいが鼻をついた。消費期限ぎりぎりのあの臭い。
「何か思い出しました?」
「シートを……剥いでください」
背後からの声はついに切羽詰まったものになっていたが、さすがに躊躇った。その権限は部外者にはないし、賠償に発展しそうだ。
「理由を説明してくれますか? 玄関に回って工場の人に話してみましょう」
振り返った時、再びビニールシートがめくれて、今度は地面に倒れているソーヤが目に入った。深い眠りというよりは昏睡に近い状態に見える。
そしてその側に、店で見た男性が立っていた――いや、よく似ているが少し年齢が上だ。
「わざわざお越しいただきありがとうございます。工場長の白日下です」
作業服を着た男性の胸元ポケットには、確かにプラスチックのネームプレートが付けられていた。その横にあのボールペン。
「精霊をお連れいただいたんですね?」
「……そのようなものです」
「うちの魔法使いの弟は、今出掛けていまして。どうも精霊というのは、本体から離れると力をすぐ使い果たしてしまうようです。
こうなると回復を待つしかない。最悪消えることもある。
……ですが、今、彼の力が必要なんですよ」
口の中が乾く。相手はどれだけこちらを知っているのか。
「何故ですか?」
「ご覧になったでしょう。工場が破損した上に精霊が出て行ってしまったので、今のもやしは捨てるしかない。後始末で会社は大損、出荷先にご迷惑をおかけして謝罪行脚、職員の給料はカット。
ただし精霊の加護があればすぐ再生産に入れて、被害は最小限で済みます。
生憎精霊に“お願いを聞いてもらうことができる”のは魔法使いだけなのです。口付けで魔力を吹き込むと一気に回復するそうですが、お願いできますか?」
にこやかに笑う工場長。
工場長の言い分は……ああ、正論だな、と思う。被害は最小限、みんな幸せ。ソーヤがこれからずっと我慢することに目をつぶれば。
お願いを聞いてもらうというのは、強制的にだろう。だって三宅さんの奥さんとは普通に話していた。
罪悪感を持たせる言い回しもやめて欲しい。
「……あの。彼がここから出たのにはきっと理由があるはずなんです」
私は工場の中に目をやった。
今のもやしを全部処分するということは、ソーヤにとって一時的に本体や仲間を失うようなものだろう。
そうだ……あのメモ。もし違った意味だったら。
「もやしを助けて、と精霊は言っていました」
「もやし工場を助けてでは?」
「今いるもやしです」
「無理ですよ」
「もやしという状態を、ですよ。動詞の『萌やし』なら方法はあります」
私はシートに手をかけてみせた。
「日光を当てて植物として育てれば生きられます。彼は……きっともやしの精霊でなくなっても仲間を失いたくなかったし、日光を浴び、他の生き物と交流したかったし、記憶も失いたくなかった」
私は工場長の目を見た。
「ところで精霊を非人道的に使役した場合、魔法の不適切使用で法に問われる可能性があるそうですね。マスコミに知り合いがいるのですが……もやしを助けてくれたらそちらには黙っていてもいいです」
声は震えていたけど、ハッタリは効いた。
工場長が渋々頷くのを見て、私はソーヤの側に蹲ってその手を握り耳に口を寄せた。
お姫様じゃないからキスをする勇気はない。精霊の器官が人間と同じと決まったわけでもないだろう。
「後は本人に任せます」
私は声とともに、なけなしの魔力のようなものをイメージして吹き込んだ。
彼の命が惜しいと思う。
ただ無理やり延命させるのも嫌だった。消えてしまうリスクを冒しても彼にはしたいことがあった思いを汲みたい。
だから選んで
ああ魔法の才能なんてものがこの世にあるのなら、私の力も誰かのためでなく、自分自身のために使いたいだけなのだ。
***
数日後、私はいつものようにラーメン菜豆に来ていた。
あれから役所に工場について報告して魔法使い登録をした後、無能アピールの甲斐があって転職しないで済んでいる。
その代わり実はキャベツの精霊しか召喚できない三宅さんの店で、たまにもやし関連のボランティアをすることになった。
「野菜だけモヤシマシマシマシでお願いします!」
お昼休憩に呪文を唱えれば、数分後、目の前に置かれた丼に手を合わせる。
ラーメン丼の上にうずたかく積み上げられたシャキシャキの、緑のキャベツがささやかに入っているそれは雪解けを始めた大山のようだった。
ひとくち口に運べば、しゃっきりとした歯ごたえに軽い弾力、みずみずしさが口を洗う。
(本当に美味しいよ、ソーヤのもやし)
スープの絡んだ麺を食べ、もやしを黙々と食べる。
栄養は大事だけれど、とにかくこのラーメンにはこのもやしが必要だった。
そしてこのラーメンは今までずっと、私を満たしてくれたはずなのに。
美味しいのに、少ししょっぱくて、苦い。
あれから結局、ソーヤは昏睡状態が続いていた。
工場のもやしは一部は萌やされて別の用途が決まり、一部は無事出荷された。
届いたもやしの味はやっぱり以前より落ちたが、私がこの間新たに覚えた魔法は何故かもやしを瑞々しくさせた。
それが以前と同じくらい美味しいのは、素直に喜んでいいのか分からなかったけれど。
私が鼻をすすると、丼から立つ湯気を縫って、ティッシュを差し出してくれた人がいた。
「どうぞ」
「あ、ありがとうございます」
私はお礼を言って受け取り、目についた蒸気をまず拭う。
そして視界に入った手は、もやしのように美しい白い手で……。