「ふわぁ」
いま、私と平沢課長と二人で晴天の下二人で歩いている。
気持ちの良い朝の風が私の髪を優しく撫でる。
「眠いのか? 睡眠不足だと任務に支障が出る。どんな場所でも寝れるように訓練しないと」
「は?」
「……何か怒っているのか?」
「怒ってます!」
私と平沢課長はラブホテルで一晩過ごした。しかも同じベッドで。
何も手を出されなかったけど、一緒にひとつの掛布団で包まって寝てる状態だよ?
寝れるわけないでしょうが!
頭上に疑問符を浮かべている平沢課長。現在は美少年の姿ではなく、見慣れた枯れた中年男性の姿をしている。
「申し訳ない」
「……何で怒ってるか分かって言ってます?」
「正直分からない」
「はぁ……だろうと思った。もういいです」
重症だ。なんというか……ロボットと会話しているみたい。
「で、今日私はテストを受けるんですよね?」
「ああ。任務を一緒にこなしてもらう。それで君が今後もやっているか判断させてもらう。もちろん、危険な仕事になるから今のうちに断ってもらってもかまわない」
「大丈夫です。やってみます」
正直、今でも現実感が無い。この私がスパイに?
映画で見るようなカッコいいスパイの姿と自分の姿がマッチしない。
だけど、このノンデリ鈍感男は言ってくれた。
――地味で目立たな所が最高。
普通の女性に対してであったら最低最悪の言葉。
だけど、私にとって「地味」という言葉は私そのものであり、因縁深い。それが活かされる場所があるのであれば試したい。
――私自身が抱える問題に答えを見出したい。
私はそんな希望を抱き、彼の誘いに乗ってみたのだ。
今更怖気づいて逃げるわけにはいかない。
「え? 電車乗るんですか? スパイ専用にカスタマイズされた車で移動するとかないんですか?」
平沢課長に連れてこられた場所は御殿場駅であった。
「現実のスパイは映画とは違う。あんな目立つ車はスパイ活動に適さない」
「なぁんだ」
内心ため息をつきながら駅の改札を通り、ホームで電車を待った。
しかし奇妙なことに、平沢課長は次にくる電車のホームとは逆向きに設置された椅子に座った。仕方が無いので私も隣に座ってみる。
「あの……なんでこっち側に座っているんです?」
平沢課長は私の問いに答えず、徐に本を開いた。
しばらくすると、私達が乗るべき電車が到着し、扉が開いた。
しかし、平沢課長は微動だにしない。
なんか「話しかけるなオーラ」放ってるから何も言えない。
ピンポンピンポン。
電車の扉が閉まる音が聞こえた。
「今だ!」
「え?」
突然平沢課長が立ち上がった。
私も急いで課長についていき、ギリギリのところで電車の中に身体を滑り込ませた。
「はぁ……はぁ……」
ほんと何? 急に全速力で走ったから息が苦しい。
他の乗客の人達も私達のこと変な目で見てきてるし……。
なんだかんだこの人もドキドキして睡眠不足になって頭ぼーっとしてるの?
それならそうと――。
「これが『消毒』という技術だ。覚えておいてくれ」
「はぁ……はぁ……消毒?」
平沢課長は私と違って呼吸も乱れていないし、汗一つかいてない。むかつく!
「尾行を巻くことを『消毒』と言うんだ。もし後をつけられている場合、駅のホームを有効活用できる。電車に乗らないと見せかけ、扉が閉まる寸前に電車に飛び乗れば尾行を躱すことができるんだ」
小声で説明してくる平沢課長。
そんな彼に対して睨みながら言った。
「それなら事前に説明してくださいよ」
「身を持って実感するほうが身体に染み付きやすい」
「ふうん。そーなんですねー」
昨日からこの男に振り回されすぎている。
何度驚かされたことか。寿命が縮んだらどうしてくれるんだ!
今後はこっちだってやってやる。隙を見つけて振り回して困らせてやる!
しかし、スパイの技の一端を知ることができた。
徐々に実感が湧いてくる。
「で、今日の仕事は千葉のライブ会場でしたっけ?」
「ああ。だが現地に向かう前に着替えを用意する」
良かった。そこまで人間として欠落していなかったらしい。
下着も何もかも昨日着ていた衣服のまま。家に帰ることもできていないから、替えの衣服を用意することもできていなかった。
何かとても低レベルなことで安堵したことを残念に思いつつも、二人で千葉を目指した。
◆◆◆
「大きい会場だ」
羨ましい気持ちを忍ばせながら呟いた。
私達は着替えを済ませ、ライブ会場のスタッフに扮した格好をしている。
「凄い熱気。さすが『パレット・プログラム』」
「今注目のアイドルグループだからな」
私は過去に地下アイドルをやっていたから、地上の大手アイドルグループが眩しく見える。私もあのステージの上で輝いて、地味な私から脱却したいと思った。だけどそれは叶わなかった。私達のグループは地上に上がれないまま解散してしまった。
「任務は会場内の不審人物を見つけることですよね?」
「ああ。会場スタッフとして見回りをし、不審人物を報告してくれ。会話はこのインカムを使って行う。そして視覚情報はこのスパイグラスで共有する」
平沢課長からスパイ映画に出てきそうなメガネを渡された。
「これは映画に出てきそう……」
「情報収集に関するスパイギアは最先端技術が使用されている」
まじまじと渡された道具を見つめ、それらを装着した。
「なろほど。それでは行ってきます」
私は課長の傍から離れて観客席の方へ向かった。
「みんな! 来てくれてありがとう!」
「うおおおおおおお!」
ライブが始まり、会場が一体感に包まれる。
地下アイドルのライブでは生み出すことができなかった熱量。
思わず私は強く握り拳を作ってしまった。
「平沢課長。少し質問いいですか?」
「ああ。それと、今後防諜活動をしているときは課長と呼ばなくていい。会社じゃないからな」
「わかったわ、平沢さん。これでいい?」
「……ああ。それで質問はなんだ?」
へへへ。タメ口使ってやったぜ。
一瞬無言だったけど、面食らったんだろうね。
今後もちょっとずつ仕返ししてやるから覚悟しなさい!
「こういう場所にスパイやテロリストっているの?」
「むしろこういう場所に現れやすいんだ。人が大勢集まる場所、有名人等多くの人に影響を与える存在がいる場所で『事を起こす』のが一番大きい効果を得れるんだ」
「なるほどね。多くの人に危害を加えたり、有名人に近づいて手駒にしたり」
「そういうことだ」
平沢さんの言う通り、よく観察してみると怪しい人がちらほら見つかった。
「観客席、ステージに向かって左サイドの中腹に双眼鏡持っている、黒いジャケットを着た男性が怪しいね。双眼鏡を向けてる先がステージでは無く会場周囲や舞台袖ばかり。建物の構造を調べてるっぽいね」
「了解。こちらも確認した」
怪しい人を見つけては報告し、スパイグラスで映像を平沢さんに送っていく。
他にも舞台裏の美術関係、スタッフの中にも怪しい人を見つけた。日本人っぽくない外見の人の割合が多かったように感じる。
「よし、順調だな。そろそろライブも終演だ。引き上げよう」
「わかった――って、ちょっと待って!」
「どうした?」
――とても気持ちの悪い腐敗臭がする。
この嫌な臭いがするということは……。
「今からテロが起きるかもしれない。凄い殺気を飛ばしている人が居る」
「どこだ?」
「今、それを探しているわ」
私は人の負の感情を匂いで知覚することができる。
ライブ修了間際で一番盛り上がる時……この会場は血で染まることになるかもしれない。