「ちょ……ちょっとまずいって! どうしよう!」
何度この独り言をくりかえしたことか。私はいま、ホテル内の部屋を一人でうろちょろしながら気持ちを静めようとしている。
平沢課長は私をラブホテルの部屋に連れ込んですぐシャワーを浴びに浴室に入ってしまった。いま私は一人部屋の中に取り残されてしまった状態なんだけど……。
それにしても何!?
なんで平沢課長は落ち着いた様子をしているの!?
なんでこんなラブ……ホテルに慣れてる様子なの!?
平沢課長は独身だし、恋人がいるなんて聞いたこと無い。
女性関係の噂も一度も聞いたことがないのに。
なのに……何なの、あの誘い方?
吸血鬼や夜の帝王のような、妖しい雰囲気出しちゃって……!
私こそ何よ……!
簡単にホイホイついていってしまってさぁ……!
私はベッドにダイブして足をバタバタさせた。
恥ずかしさと自己嫌悪が胸の中で渦巻いて感情がぐちゃぐちゃになる。
浴室から聞こえるシャワーの音が恨めしく思えてくる。
「……気分を落ち着かせるためにもテレビでも見るか」
ベッド脇のテーブルの上にテレビのリモコンがあったので、テレビの電源を入れてみる。
「……え!? な、何これ!」
テレビに映ったのはアダルトな映像。慌ててチャンネルを変えてもAVばかり。
「どどどうしよう! どういう仕組みなの? そもそも私ラブホテルに入ったことなんてないし……そもそも男とそんな感じになったことも無いし……」
ふと、自分のこれまでの嫌な記憶が蘇ってきた。
――私は男に対してあまり良い記憶が無い。
両親は私が小学校高額年の頃に離婚してしまった。私は母と暮らすことになったけど、まだ若かった母は彼氏を家に住まわせていた。
その彼氏に私は何度も襲われかけたわ。
だから私は自衛のために大好きな自分の長い髪を切り、日本拳法部という汗臭そうな部活に入り女性としての魅力を殺した。
襲われないように常に相手の顔色を窺い、相手の気を引かないよう努力を続けてきてしまった。
そのせいで、高校、大学で出会った男からはいつも「つまらない」「地味」と言われ続づけた。
――やがて私は自分が恋をすることを諦めてしまった。
「どうせ私なんて……」
「……君はそういう趣味があったのか?」
「ふぇ?」
私は突然呼びかけられたため、気の抜けた返事をしながら振り返った。
しかし目の前の光景に驚き、頭が真っ白になった。
「どうした?」
「え……誰?」
――目の前に居た男性は平沢課長では無かった。
黒髪ショートレイヤーの美少年が立っていた。中性的で程よく引き締まった肉体美も有している。
ズボンだけ履き上半身が裸であったが、見ているだけで涎がでてしまいそうだ。
「誰って、平沢だけど」
「別人じゃん! 本物の平沢課長はどこへ行ったの!?」
「だから俺だって――ああ、そうか。普段は変装をしているんだ」
「変装!?」
私は口をぱくぱくさせながら、頭の中を整理しようとした。
しかし、全く考えが纏まらない。だけど確かに目元を見ると、あの妖しい笑みを浮かべていたときの目によく似ている。
「ところで……チャンネル変えて良い? もっと見たいっていうのなら待つけど」
「え? ……って見てない! 見てないからいいです!」
テレビ画面はかなりハードな楽しみ方をしている映像を映していた。女性が縄で縛られ、鞭で叩かれているけど……はっきり言っておくけど、私にそんな趣味なんて一ミリも無い!
しかし、この美少年……平沢課長はいったい何のチャンネルを見るのだろう?
というか、彼のおすすめ動画を見せられて、その通りに私は抱かれてしまうのか?
――しかし、彼がチャンネルを変えると、全く予想していなかった人物の顔が映った。
「お疲れ様です、社長」
「お疲れ、平沢君。君もお疲れ様、長谷川さん」
「え……社長?」
テレビに映っていたのは私達が務めている会社の社長であった。
しかも会話ができていることから、今ビデオ通話をしている状態のようだ。
「まずは君に説明する必要があるね。平沢君はまだ君に何も説明していないだろう?」
「……はい。一体何ですか? ホテルに連れ込まれたと思ったら社長が映し出されて。今から私は何をされるんですか?」
私の反応を見た社長はため息をつき、頭を抱えた。
「はあ……平沢君。言葉が足りないのは君の弱点だよ。相手のことを考えなさい」
「はい」
この人返事してるけど絶対わかってない!
「それでは長谷川さん。私達の会社の別の顔について説明しよう。表向き、我々は事務機器の販売店だ。だけど、もう一つ『プライベート・インテリジェンス』という役割も担っている」
「え? プライベート・インテリ……? 家庭教師ってことですか?」
「はははは! それなら平和でいいね。でも残念ながら違う。分かりやすい言葉で言うと、我々は民間のスパイ組織なんだ」
「スパイ!?」
もう驚きすぎて何の感情も湧いてこない。
「ああ。我が国日本は、危機に瀕している。スパイ防止法が無いばかりに、国内に何万人ものスパイが紛れ込み活動している。だから民間で日本を守るために立ち上がる必要があるんだ」
そんなこといきなり言われても分からない。
スパイなんて見たこともない。私を性的に襲おうとした身近な恐怖は知っているけれど、映画のような裏社会の存在が本当に存在しているなんて……全く考えたことも無かった。
「最近、闇バイトが流行っているだろう? 今、我々はこの事件を追っている」
「闇バイトって稼げるバイトを装って犯罪行為をさせられるやつですよね? それがスパイと何の関係があるんです?」
「我々は、海外勢力が裏に居ると考えている。その組織の正体を掴むことが、眼前の我々のミッションなんだ」
「そうですか……それでは、なぜ私がここに連れてこられたのですか?」
私は説明されても、自分が置かれた状況がわからなかった。
そんな裏社会のことを聞かされても、私には関係ないし、できることは何もない。
「それはね、平沢君が長谷川さんにスパイとしての才能があると報告してくれたからだよ」
「え? ……ええ!?」
私はポカンと口を開けながら平沢課長を見た。すると、彼は説明を始めた。
「長谷川さんは鋭い観察眼を持っている。一見普通の会社を装っていた会社をヤクザの会社だと見破った。また手先も器用で手品師のようなことができる。経歴を調べた所、マジックバーで働いていたり、日本拳法部や地下アイドルのダンスの経験から非常に高い身体能力を有していることが分かった」
「いつの間に調べたんですか!」
さすがスパイですね。プライバシーもあったもんじゃない。むかつく。
「それに、何より素晴らしいことがあります」
「……なんですか?」
「君は見立たない。それが何より素晴らしい!」
「……」
社長は頭を抱えた。
しかし、私にはその言葉が胸に染みた。
――周囲の目を気にし、自分を殺してきた。
それが、褒められる日が来ようとは。
「……私にスパイになれってことですか?」
「君が望むなら。少なくとも、今の仕事よりは向いていると思う」
「……少し考えさせてください。私のことを誉めて下さいましたし。真剣に考えます」
鼓動が速くなった心臓。私は手を胸に当てながら、突然自分の目の前に提示された未来に思いを馳せた。
「ありがとう。では、今日は遅いからここで一晩過ごそう」
「はい。……え? はぁ!?」
私と社長は驚愕の表情をしたが、平沢課長は私達の反応にピンときていないようだった。