「聞こえるか、『Ms.007』? 目の前の50階建てのビルの最上階に今回の標的であるサーバーが設置されている。そのサーバー内のデータを盗んでくるんだ」
「……」
――「Ms.007」と呼ばれた私、長谷川美琴はイヤホン越しから聞こえる低音イケメンボイスを無視した。
時刻は深夜2時。周囲は暗闇に包まれている。
全身忍び装束のような黒い衣服を纏っている私は完全に姿を晦ましている。
残暑残る10月の風が私の長い黒髪を揺らした。
「おい、聞こえるか?」
「名前で呼んで」
「……は?」
「美琴って呼んで」
「……何の意味がある?」
こいつホント分かってない!
私の上司であり、相棒である超絶敏腕スパイ「平沢進士」はデリカシーが無い。女心もまったくわかってない。それどころか人としての感情を持っているのかも怪しい。
だけど、この男は本当にズルい。
まず、見た目が良い!
普段は白髪のショートレイヤースタイルで端正な顔立ちが隠れる黒縁のメガネ姿という変装をしている。灰色で面白味の無いスーツ姿。まったく身だしなみに気を使っていないから本人の魅力がまったく表に出てこない。年齢さえも分からない。若いのか、老いているのかもわからない。
でも、変装を説いた状態を私は知っている。
黒髪ショートレイヤーで誰の目にも魅力的に見えそうなほど美しい顔立ちをしている。筋肉質で割れた腹筋やボコンと膨れた上腕二頭筋を見ると涎が出そうになる。
もう一つは、時々……たまーに優しさを見せる。
平沢さんはいつも表情が死んでいて感情が無いロボットのようである。
そのくせ私が本当に困っている時は助けてくれるし、優しい言葉をかけてくれる。
その度にドキドキしてしまうことが悔しいし、許せない。
――だから、私は時折彼に対して嫌がらせをする。
「意味はあるわ。この作戦の成功率に関わる」
「……わかった、長谷川。これでいいか?」
「嫌よ。名前で呼んで。それと、私のことを誉めて」
「はあ?」
「成功率!」
「……美琴。褒める所は……いつも頑張ってくれている」
イヤホン越しでも困惑した様子が伺える。ざまあみろ。
「もっと! 容姿も褒めて」
「……黒髪ロングで猫のようなクリっとした目がチャームポイントの美女。健康的でスレンダーな体型が本人の美しさを際立たせている」
「おふ!」
突然のどストレートな誉め言葉についつい変な声を出してしまった。
どういうことだ……いきなり今まで言ってくれなかったような言葉を突然。
「……もしかして、AI使った?」
「よく分かったな。大した推理力だ」
「このおおおおおおお!」
しかし、不覚にも私の鼓動は速まってしまっている。
自分で言っておいてなんだが、本心で言われても困ってしまう。
「こほん。まあいいでしょう。で、ビルの壁を登って最上階まで行けばいいのよね」
「ああ、そうだ」
私は腰のホルダーに収まれていたワイヤーガンをビルの壁に向かって放った。すると、強力な磁力を纏った弾丸がビルの壁に貼り付いた。弾丸からはワイヤーが私の持つワイヤーガンまで繋がっている。ぐいと引っ張っても弾丸はビルの壁から離れない。
「次は磁器プロテクターのスイッチも押してみろ」
私が着ている黒装束は潜入特化に開発されたスパイギアである。
「このボタンよね……。って、ウッ!」
肘、膝に装備されたプロテクターが磁器を帯びると、身体がビルの方に吸い寄せられ、私は壁に大の字で激突してしまった。
「プロテクターとワイヤーガンは君の脳波を読み取って磁力の強弱を調節している。 磁器を操るイメージをするんだ」
「うう……弱まれええええ!」
脳内で必死にイメージし、肘と膝の磁力が弱まるように念じた。すると、壁に貼り付いていた肘と膝が自由を取り戻した。
「良い調子だ。ワイヤーを命綱にして、肘と膝の磁力を調節して壁を登るんだ」
平沢さんの指示通りワイヤーガンを腰のベルトに固定した。そして壁を肘と膝の磁力でくっつけながらよじ登った。私が調節をミスっても、ワイヤーガンの命綱があるから落下せずに済む。
「それにしても不思議よね、このバルクネシアって国。山岳地帯が多いけど、平地は開発が進んでビルが沢山建っている」
私は今、東南アジアと中国の間に位置する国「バルクネシア」に居る。何やら、日本を狙うテロリストがこの国に潜伏しているらしい。
「ああ。この国はスマートシティ実験国でもあるからな。このビルもスマートシティ中枢機能を持つビルの一つだ」
「そんなビルにテロリストの情報が保存されてるっていうの?」
平沢さんと雑談をしながらビルの壁を慎重に登っていく。
「このスマートシティをテロリストが隠れ蓑にしている可能性がある。その証拠を手に入れるために、今回君にサーバー内の情報を盗んでもらいたいんだ」
雑談が終わる頃、丁度目的地のビル最上階に到達した。
私はベルトに装着されたポーチを開けて、口紅を取り出し、キャップを開けた。
「ほんと、映画で見たようなスパイ道具ね」
私は窓ガラスに口紅を塗りつけた。すると、塗った部分が溶け出し、大きな穴が空いた。
――その瞬間。
突風が私の身体を吹き飛ばした。突然のことで意識が乱れたため、ワイヤーガンとプロテクターの磁力が弱まり、身体がビルから離れてしまった。
「美琴!」
一瞬頭が真っ白になりかけたけど、平沢さんの声で意識を取り戻した。
「このおおおおおおお!」
気合を入れ、両肘のプロテクターに前意識を集中させた。
すると、身体がビルの壁へと吸い込まれ、壁にぶつかった。
「あ」
壁にぶつかった衝撃でベルトに固定されていたワイヤーガンの留め具が外れてしまい、ワイヤーガンが地面へと落下していった。
――命綱を失った。
「大丈夫か!」
「大丈夫じゃないから、無事に帰ったら褒めてよね」
私は気合を入れなおし、肘と膝を交互に動かし、再び穴が空いた窓ガラスの下へ辿り着いた。
「流石だな」
「学生時代に日本拳法部とアイドル活動で身体を鍛えていたからね」
私は身体を窓ガラスに空いた穴の中に滑り込ませ、内部に侵入した。そして目的のサーバーにUSBを差し込むと、自動でサーバー内のデータがメモリの中へ複製されていった。
「よし。脱出するわ。でも……ここから飛び降りなきゃいけないんだよね」
「ああ、そうだ。一度屋上に出て、そこから飛び降りるんだ」
私は再びビルの壁に貼り付き、穴の開いた窓ガラスにヘアスプレーを吹きかけた。すると、スプレーから泡が放出され、窓ガラスの穴を塞いだ。
「そのくらいで良い。あとは泡が綺麗さっぱり、傷一つ無く元の一枚のガラスに戻してくれる」
「これもヘアスプレー型でお洒落ね。スパイ道具のほとんどが化粧道具の形だわ」
ビルの壁をよじ登ると屋上に上がることに成功した。
「準備はいいか? それじゃあゴーグルをしてくれ。場所はゴーグルに映像を送って誘導する」
「わかったわ」
私は一つ深く息を吐き、助走をつけて屋上の上から飛び降りた。
私が身にまとう黒装束はムササビのように、脇、股部分に膜が備え付けられている。これにより飛ぶ方向をコントロールできる。
顔面に強風が吹きつけられていくのを感じながら、ゴーグルが示すルートへ向かった。
――それにしても……今考えても不思議よね。ただのOLだったのに。
私の人生は平沢進士という男によって変えられてしまった。
「ねえ、責任取ってよね」
「何か言ったか?」
「別に」
私は、帰還後どう彼を困らせてやろうかニヤニヤしながら考えた。