宿屋へ辿り着いた。街道沿いの小さな宿屋だった。扉を開き、中へ。一階は酒場だ。典型的な旅籠だった。
一日中賭け事に興じているろくでなし達が、一斉にアッシュとヴェロニカを見た。朝特有の気怠さの混じった、濁り重い緊張感が漂う。
「溺れたのか? アンタら」
店の主人が話し掛けてきた。盗賊みたいな雰囲気だ。他の客達も上品な連中と言えない。好奇というよりも、敵意に近い様な視線を二人に向けていた。
「泳いだんだよ」
ヴェロニカは店内を見渡す。アッシュも観察をする。空いたワインのボトルとグラス、歯型が残った食べかけのチーズと屑がこぼれたパン、油が白く固まった肉汁や穀物が残る皿。色が変色した果実の欠片に、床は汚れた染みと食いカスだらけ。
「外の馬が欲しい、二頭だ」とヴェロニカ。
突然の事に、アッシュはヴェロニカを見る。堂々としたものだ。
「それは売りもんじゃねぇよ。俺と俺の弟の馬だ」
テーブルでサイコロを振っている男が言った。白髪交じりの長い髪と、蛇の様な目をした長身の男だった。
弟はスキンヘッドの太った男だった。隣に座っている。
「誰の馬かは聞いてない。それが欲しいと言ったんだ」
ヴェロニカは唾を吐いて口を拭う。長身の男は舌打ち。友好的な交渉じゃない。いつもの事だがまだ慣れない。
「タダで欲しいってのか?」と長身の男。
「そうだ」
ヴェロニカが言い切る。
「今すぐ寄越せ」
アッシュは心の中で天を仰いだ。最悪の未来しか想像出来ない。どうして何もかもが喧嘩腰で始まるのだろうか。
「金もないのに馬が欲しい、ってのは笑える」
「笑えるのは貴様の顔だ。お前らサイコロやってんだろ、ならそれで勝つから馬を寄越せ」とヴェロニカ。
「おい、勝算はあるのか?」
アッシュは耳打ちした。
「ある」とヴェロニカ。
根拠のない自信だと分かった。
「俺が行く」
「お前の勝算は?」
聞き返される。
「アンタよりずっとだ。俺には経験がある」
「博打で私から借金したんだろ」
「いいから任せろ」
「見せてみろ」
ヴェロニカはアッシュを見た。
「イカサマの監視は私がする」
「おい、さっさとつけよ」と長身の男が言った。向かいの椅子が空いている。
「今行く」
アッシュが向かう。
「あの女じゃないのか」
「アイツは飾りだ」
こういうのは舐めらてはいけない。会話で負けていたら、勝負にも勝てない。
「ルールは?」とアッシュが聞く。
「アンタら見ねぇ顔だし、ウチのルール説明するのも面倒だから、単純なのでいいだろ」
「悪いな」
「ルールはこうだ。二つサイコロを投げて、同じ数を出したら勝ち。勝った方が相手の賭け金を貰う。賭け金はアンタらが決めろ、金がないみたいだからな」
「分かった」
「で、種は何だ」
「あの女だよ、金より欲しいだろ?」
ヴェロニカを見る。頷いていた。了承は得た。
「あれにそんな価値はない」
「冗談言うな。気が強い女を犯したくないか? それにアンタらの馬は最高とは言い難い」
控えめに見ても、あの馬は最低の手前だった。
「お前はどうなる? 負けたらお前はどうなるんだよ」と太った弟が口を挟んできた。
長身の兄が笑いを抑えている。
太った弟の視線はどこか違和感があった。
「お前の弟はカマ野郎か?」とアッシュ。
「俺の弟を侮辱するなよ」
さっきまで笑いを堪えていたのに、一転して顔が赤くなる。分からない男だ。だが弟の癖がそっちである事は分かった。
「アッシュ、お前のケツの穴も賭けろ。そこの変態にくれてやれ」
ヴェロニカから指示が出た。
「女が喋ったぞ」と長身の男が言った。
「喋る女がそんなに珍しいか? どうやら俺達は違う世界に住んでいたみたいだな」
「いいか? 賭けるのはお前のケツの穴と女の股の穴だ」
「分かった、条件を飲む。俺達が勝ったら馬を貰う」
「いいねぇ、よしきた」
「一発勝負だ」
「生意気こきやがって」
「アンタはクソ野郎だ」
「まず俺からでいいのか?」
長身の男が言った。
「サイコロを確かめる」とアッシュ。
「ああ、いいぞ」
アッシュはテーブルの中央にあるお碗に、二つのサイコロを放る。二と一。もう一度、放る。今度は五と三。
「大丈夫だ」とサイコロを返す。
「じゃあ勝負開始だ」
「直ぐに追い詰めてやる」
アッシュが答える。空気が張り詰めた。長身の男はサイコロ握り、息を吹きかけた。
「いくぞ」
サイコロが放たれる。お椀の中で二つのサイコロが、お互いを追いかける様にチンチロ回転する。アッシュは見つめながら息を呑んだ。次第に勢いが弱まる。
「おお」
歓声が上がった。
「一と一だ。アンタが追い詰められたな」
誤算だった。
後攻のアッシュが二つの目を合わせなければ、勝負は終わる。
「どうした、振れよ」
「クソだよな、人生ってのは」
天に全てを任せるしかない。
長身の男がやった様に息を吹きかけてから、サイコロを放った。
お碗の中で二つのサイコロが再びチンチロと回転する。瞬きは出来ない。無意識に、アッシュは呼吸を止めていた。
異常なまでの重圧。胸の鼓動が耳の裏まで聞こえてくる。身体が一気に熱くなった。
サイコロの回転が弱くなる。止まった。
「三と四だ」と長身の男。黄色い歯を見せて笑う。
終わった。全てを失った。弟を見ると、舌なめずりをしている。気持ち悪い。
アッシュはサイコロの目を見つめた。変わる筈もない。途端に呼吸が荒くなった。自分は馬鹿だ。
「おい、待て」
ヴェロニカの声だ。それがなかったら、アッシュは意識を失っていたかもしれない。
「お前ら、イカサマをしたろ」とヴェロニカ。
他の客の口笛が聞こえた。
「何だと、ケチつけんのか。コイツはサイコロを確かめたろ」
「摩り替えた。私の目を誤魔化せると思うなよ」
「そんな事してねぇよ」
アッシュには分かる。長身の男は、サイコロのすり替えなどしていない。
クソ。いやな兆候だ。騒動が起きる。場が静まり返った。
「イカサマはイカサマだ、馬は頂くぞ!」
ヴェロニカが大声で宣言した。
「この男はイカサマをした」
「ふざけんな、このアマ。馬はやらねぇぞ。こんなのは認めねぇ、テメェがイカサマだ」
長身の男は怒りに任せて立ち上がった。
「お前、マジにふざけてんじゃねぇぞ。イカサマなのはテメェなんだよ」
確かにヴェロニカの言ってる事はデタラメで、イカサマ紛いだ。
「そうだ、テメェ自分が犯されるのが嫌だからって見苦しいぞ。さっさと股開けよ」
「ケチつけんな、酔っ払い」
ヴェロニカは野次を飛ばした男に、ワインボトルを投げつけた。男は頭を抱えて倒れる。開戦の合図だった。
長身の男が近付き、ヴェロニカの襟を掴んだ。ヴェロニカは手首を返して、長身の男を踊らせた。苦痛で顔を歪ませている。そのまま足をかけて倒すと、顔面を蹴った。
「どうしてこうなる」
アッシュは叫んだ。周りの観客が、アッシュに掴みかかった。アッシュは椅子を振り回して応戦する。太った弟が、ヴェロニカに突っ込んでいる。
「分かってたくせに」
跳躍し、天井の梁を掴んで、突っ込んできた弟を躱したヴェロニカ。後ろに下りて、ケツを引っ叩く。馬鹿にされた太った弟は逆上し、顔を赤くした。壁に掛けてあった閂を持つ。太った男が振り回すと、木の棒の様な軽さに思えた。
「うおらぁッ」
太った弟が閂を振り下ろした。ヴェロニカは半身になってそれを紙一重で躱す。見慣れた余裕の笑み。閂をなぞる様に距離を詰め、太った弟の鼻に拳を叩き込んだ。鼻は急所だ。太った弟はよろける。距離を詰められたので、長い閂では攻撃がし辛い。太った弟は閂を捨て、ヴェロニカを掴もうと両手を伸ばした。
「ノロマめ」
ヴェロニカは太った弟の腕を掴んで、そのまま出っ張った腹を足場にし、肩へ飛び乗った。くるりと回転して肩車状態になり、腕の関節と首を両脚でキめて絞め上げるる。
逆上して赤くなっていた顔が、呼吸困難で更に濃くなっていった。太った弟の腕は折れ、白目をむき、泡を吹き始める。
「ヴェロニカ、もういい」とアッシュ。
だが後ろから羽交い絞めにされてしまう。
「すまん、やっぱ助けてくれ」
「指示するな。命令するのは私で、従うのがお前だ」
ヴェロニカは太った弟を片付けると、アッシュの応戦に入った。
「アッシュ、動くなよ」
ヴェロニカはナイフを拾って構えた。
「待て、ヴェロニカ、投げるな」
「私に賭けろ」
ナイフが投げられた。アッシュの右腕を切る。
「ふざけんなっ」
アッシュは痛みで叫んだ。
「俺に刺さってんじゃねぇか」
「刺さってない、掠っただけだ」
ヴェロニカが走り込んできて、羽交い絞めにしている男の顔面を殴った。結局、これが一番早い。アッシュは解放されて、右腕の傷を確かめる。傷が浅いのは不幸中の幸いだった。
直ぐに他の酔っ払いが、アッシュに突っ込んで来る。咄嗟に椅子を振り回して、相手を自分に近付けない様にした。
「相変わらず弱い」
横から颯爽と現れ、相手を拳で倒していくヴェロニカの姿もまた爽快だった。
それから三人も倒せば、他の客も戦意を喪失する。場は一時の狂気を忘れ、酔いが醒めた様に静まり返る。この中で息を切らせていないのは、最も強いヴェロニカだけだ。
「もういいだろ」
アッシュの問いに、誰も返事をしなかった。酒場は荒らされている。主人の顔を見ると、泣き顔だった。無言だが懇願している。
「馬は約束通り貰っていく、とその兄弟に伝えておけ」
ヴェロニカは床に散らばったワインボトル、樽、皿、残飯を足で払いながら、扉へ向かう。アッシュも続いた。
「後な、私達を追うな。通報もするな。分かったな? 今日の事は一切忘れろ」
また返事はなかった。
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「強盗だな」
兄弟から奪った栗毛の馬に跨って、アッシュは言った。
「あんまり気にしない方がいい」とヴェロニカ。
ヴェロニカは走り出した。黒い毛の馬だった。