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第37話 賽の目

 宿屋へ辿り着いた。街道沿いの小さな宿屋だった。扉を開き、中へ。一階は酒場だ。典型的な旅籠だった。

 一日中賭け事に興じているろくでなし達が、一斉にアッシュとヴェロニカを見た。朝特有の気怠さの混じった、濁り重い緊張感が漂う。


「溺れたのか? アンタら」


 店の主人が話し掛けてきた。盗賊みたいな雰囲気だ。他の客達も上品な連中と言えない。好奇というよりも、敵意に近い様な視線を二人に向けていた。


「泳いだんだよ」


 ヴェロニカは店内を見渡す。アッシュも観察をする。空いたワインのボトルとグラス、歯型が残った食べかけのチーズと屑がこぼれたパン、油が白く固まった肉汁や穀物が残る皿。色が変色した果実の欠片に、床は汚れた染みと食いカスだらけ。


「外の馬が欲しい、二頭だ」とヴェロニカ。


 突然の事に、アッシュはヴェロニカを見る。堂々としたものだ。


「それは売りもんじゃねぇよ。俺と俺の弟の馬だ」


 テーブルでサイコロを振っている男が言った。白髪交じりの長い髪と、蛇の様な目をした長身の男だった。

 弟はスキンヘッドの太った男だった。隣に座っている。


「誰の馬かは聞いてない。それが欲しいと言ったんだ」


 ヴェロニカは唾を吐いて口を拭う。長身の男は舌打ち。友好的な交渉じゃない。いつもの事だがまだ慣れない。


「タダで欲しいってのか?」と長身の男。


「そうだ」


 ヴェロニカが言い切る。


「今すぐ寄越せ」


 アッシュは心の中で天を仰いだ。最悪の未来しか想像出来ない。どうして何もかもが喧嘩腰で始まるのだろうか。


「金もないのに馬が欲しい、ってのは笑える」


「笑えるのは貴様の顔だ。お前らサイコロやってんだろ、ならそれで勝つから馬を寄越せ」とヴェロニカ。


「おい、勝算はあるのか?」


 アッシュは耳打ちした。


「ある」とヴェロニカ。


 根拠のない自信だと分かった。


「俺が行く」

「お前の勝算は?」


 聞き返される。


「アンタよりずっとだ。俺には経験がある」

「博打で私から借金したんだろ」

「いいから任せろ」

「見せてみろ」


 ヴェロニカはアッシュを見た。


「イカサマの監視は私がする」


「おい、さっさとつけよ」と長身の男が言った。向かいの椅子が空いている。


「今行く」


 アッシュが向かう。


「あの女じゃないのか」

「アイツは飾りだ」


 こういうのは舐めらてはいけない。会話で負けていたら、勝負にも勝てない。


「ルールは?」とアッシュが聞く。


「アンタら見ねぇ顔だし、ウチのルール説明するのも面倒だから、単純なのでいいだろ」

「悪いな」

「ルールはこうだ。二つサイコロを投げて、同じ数を出したら勝ち。勝った方が相手の賭け金を貰う。賭け金はアンタらが決めろ、金がないみたいだからな」

「分かった」

「で、種は何だ」

「あの女だよ、金より欲しいだろ?」


 ヴェロニカを見る。頷いていた。了承は得た。


「あれにそんな価値はない」

「冗談言うな。気が強い女を犯したくないか? それにアンタらの馬は最高とは言い難い」


 控えめに見ても、あの馬は最低の手前だった。


「お前はどうなる? 負けたらお前はどうなるんだよ」と太った弟が口を挟んできた。


 長身の兄が笑いを抑えている。

 太った弟の視線はどこか違和感があった。


「お前の弟はカマ野郎か?」とアッシュ。


「俺の弟を侮辱するなよ」


 さっきまで笑いを堪えていたのに、一転して顔が赤くなる。分からない男だ。だが弟の癖がそっちである事は分かった。


「アッシュ、お前のケツの穴も賭けろ。そこの変態にくれてやれ」


 ヴェロニカから指示が出た。


「女が喋ったぞ」と長身の男が言った。


「喋る女がそんなに珍しいか? どうやら俺達は違う世界に住んでいたみたいだな」

「いいか? 賭けるのはお前のケツの穴と女の股の穴だ」

「分かった、条件を飲む。俺達が勝ったら馬を貰う」

「いいねぇ、よしきた」

「一発勝負だ」

「生意気こきやがって」

「アンタはクソ野郎だ」

「まず俺からでいいのか?」


 長身の男が言った。


「サイコロを確かめる」とアッシュ。


「ああ、いいぞ」


 アッシュはテーブルの中央にあるお碗に、二つのサイコロを放る。二と一。もう一度、放る。今度は五と三。


「大丈夫だ」とサイコロを返す。


「じゃあ勝負開始だ」

「直ぐに追い詰めてやる」


 アッシュが答える。空気が張り詰めた。長身の男はサイコロ握り、息を吹きかけた。


「いくぞ」


 サイコロが放たれる。お椀の中で二つのサイコロが、お互いを追いかける様にチンチロ回転する。アッシュは見つめながら息を呑んだ。次第に勢いが弱まる。


「おお」


 歓声が上がった。


「一と一だ。アンタが追い詰められたな」


 誤算だった。

 後攻のアッシュが二つの目を合わせなければ、勝負は終わる。


「どうした、振れよ」

「クソだよな、人生ってのは」


 天に全てを任せるしかない。

 長身の男がやった様に息を吹きかけてから、サイコロを放った。

 お碗の中で二つのサイコロが再びチンチロと回転する。瞬きは出来ない。無意識に、アッシュは呼吸を止めていた。

 異常なまでの重圧。胸の鼓動が耳の裏まで聞こえてくる。身体が一気に熱くなった。

 サイコロの回転が弱くなる。止まった。


「三と四だ」と長身の男。黄色い歯を見せて笑う。


 終わった。全てを失った。弟を見ると、舌なめずりをしている。気持ち悪い。

 アッシュはサイコロの目を見つめた。変わる筈もない。途端に呼吸が荒くなった。自分は馬鹿だ。


「おい、待て」


 ヴェロニカの声だ。それがなかったら、アッシュは意識を失っていたかもしれない。


「お前ら、イカサマをしたろ」とヴェロニカ。


 他の客の口笛が聞こえた。


「何だと、ケチつけんのか。コイツはサイコロを確かめたろ」

「摩り替えた。私の目を誤魔化せると思うなよ」

「そんな事してねぇよ」


 アッシュには分かる。長身の男は、サイコロのすり替えなどしていない。

 クソ。いやな兆候だ。騒動が起きる。場が静まり返った。


「イカサマはイカサマだ、馬は頂くぞ!」


 ヴェロニカが大声で宣言した。


「この男はイカサマをした」

「ふざけんな、このアマ。馬はやらねぇぞ。こんなのは認めねぇ、テメェがイカサマだ」


 長身の男は怒りに任せて立ち上がった。


「お前、マジにふざけてんじゃねぇぞ。イカサマなのはテメェなんだよ」


 確かにヴェロニカの言ってる事はデタラメで、イカサマ紛いだ。


「そうだ、テメェ自分が犯されるのが嫌だからって見苦しいぞ。さっさと股開けよ」

「ケチつけんな、酔っ払い」


 ヴェロニカは野次を飛ばした男に、ワインボトルを投げつけた。男は頭を抱えて倒れる。開戦の合図だった。

 長身の男が近付き、ヴェロニカの襟を掴んだ。ヴェロニカは手首を返して、長身の男を踊らせた。苦痛で顔を歪ませている。そのまま足をかけて倒すと、顔面を蹴った。


「どうしてこうなる」


 アッシュは叫んだ。周りの観客が、アッシュに掴みかかった。アッシュは椅子を振り回して応戦する。太った弟が、ヴェロニカに突っ込んでいる。


「分かってたくせに」


 跳躍し、天井の梁を掴んで、突っ込んできた弟を躱したヴェロニカ。後ろに下りて、ケツを引っ叩く。馬鹿にされた太った弟は逆上し、顔を赤くした。壁に掛けてあった閂を持つ。太った男が振り回すと、木の棒の様な軽さに思えた。


「うおらぁッ」


 太った弟が閂を振り下ろした。ヴェロニカは半身になってそれを紙一重で躱す。見慣れた余裕の笑み。閂をなぞる様に距離を詰め、太った弟の鼻に拳を叩き込んだ。鼻は急所だ。太った弟はよろける。距離を詰められたので、長い閂では攻撃がし辛い。太った弟は閂を捨て、ヴェロニカを掴もうと両手を伸ばした。


「ノロマめ」


 ヴェロニカは太った弟の腕を掴んで、そのまま出っ張った腹を足場にし、肩へ飛び乗った。くるりと回転して肩車状態になり、腕の関節と首を両脚でキめて絞め上げるる。

 逆上して赤くなっていた顔が、呼吸困難で更に濃くなっていった。太った弟の腕は折れ、白目をむき、泡を吹き始める。


「ヴェロニカ、もういい」とアッシュ。


 だが後ろから羽交い絞めにされてしまう。


「すまん、やっぱ助けてくれ」

「指示するな。命令するのは私で、従うのがお前だ」


 ヴェロニカは太った弟を片付けると、アッシュの応戦に入った。


「アッシュ、動くなよ」


 ヴェロニカはナイフを拾って構えた。


「待て、ヴェロニカ、投げるな」

「私に賭けろ」


 ナイフが投げられた。アッシュの右腕を切る。


「ふざけんなっ」


 アッシュは痛みで叫んだ。


「俺に刺さってんじゃねぇか」

「刺さってない、掠っただけだ」


 ヴェロニカが走り込んできて、羽交い絞めにしている男の顔面を殴った。結局、これが一番早い。アッシュは解放されて、右腕の傷を確かめる。傷が浅いのは不幸中の幸いだった。

 直ぐに他の酔っ払いが、アッシュに突っ込んで来る。咄嗟に椅子を振り回して、相手を自分に近付けない様にした。


「相変わらず弱い」


 横から颯爽と現れ、相手を拳で倒していくヴェロニカの姿もまた爽快だった。

 それから三人も倒せば、他の客も戦意を喪失する。場は一時の狂気を忘れ、酔いが醒めた様に静まり返る。この中で息を切らせていないのは、最も強いヴェロニカだけだ。


「もういいだろ」


 アッシュの問いに、誰も返事をしなかった。酒場は荒らされている。主人の顔を見ると、泣き顔だった。無言だが懇願している。


「馬は約束通り貰っていく、とその兄弟に伝えておけ」


 ヴェロニカは床に散らばったワインボトル、樽、皿、残飯を足で払いながら、扉へ向かう。アッシュも続いた。


「後な、私達を追うな。通報もするな。分かったな? 今日の事は一切忘れろ」


 また返事はなかった。


**


「強盗だな」


 兄弟から奪った栗毛の馬に跨って、アッシュは言った。


「あんまり気にしない方がいい」とヴェロニカ。


 ヴェロニカは走り出した。黒い毛の馬だった。



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